第228話 到達点
◆
はっと目が覚めた。
いや、目が覚めたのか、すぐにはわからなかった。
天井には絵画が描かれている。
どこの屋敷だ?
いや、ここは、剣聖府だ。しかし医務室ではない。
そう、医務室ではない。
起き上がろうとしたが、体にうまく力が入らなかった。息が苦しく、胸の中に濡れた綿が詰まっているような、窮屈さがあった。
そろそろとしか息が吸えず、そろそろとしか息が吐けない。
いつかも同じような苦しみがあったはずだが、今はそれよりも酷いのではないか。
ヒィッと息を吸うたびに音が鳴る。
一人でに目に涙が滲み、目の前の光景が歪んでいく。
「気がつかれましたか」
いきなりの声に、そちらを見る。
ぼんやりとしか見えないが中年の男のようで、剣聖府にいる医師の顔だとわかってきた。
声を発したいが、とてもじゃないが呼吸するので精一杯だ。
「怪我は大したことはありません」
医者が俺の額に手を置きながら言う。言葉とその動作で、やっと俺は自分が高熱の中にいることに気づいた。着物が体に張り付いているのも、やっとわかった。
「傷口は縫い合わせて、きつく縛ってあります。化膿した部分もありましたが、すでに膿は出しました」
どれだけの傷なのかは、すぐに想像できなかった。
頭の中で、流血の間でのことが思い出された。
覇者の剣が俺の左肩に食い込んだ。正確には、左腕を切り落とした断面だ。
つまり刃は半分、体に差し込まれていた。
俺はそれに対して、突きを繰り出し、切っ先は時子の右胸の上に突き立った。
ただし、時子はそれでも身を引かなかった。
仮に右肩に深手を負っても、勢いのまま俺を殺すつもりだっただろう。
だから俺は甘んじて、その一撃を受けた。
受けながらぶつかっていき、時子の攻撃を完全な形にしなかった。
覇者の剣が赤く染まっていたこと、肩を押さえた俺の右手が濡れたことも、思い出した。
死んだかもしれなかったが、生きている。
こんなことばかりだ。
「胸まで刃は届いていないようですが、わかりません。血を吐かれてはいませんから、今は様子を見ています」
淡々と医師が話す。
口元に布が当てられる。唇が湿り、わずかに口の中に水気が感じられた。
いきなり水を飲ませることはできない、ということらしいが、水を感じてしまうと、途端に自分の体が乾いていることがはっきりわかった。
水が欲しい、とさえ言えない自分が恨めしい。
また喉がヒューヒューと鳴る。
少しの水、雫を、大げさに喉を鳴らして飲むのは、滑稽なことだろう。
意識が曖昧になり、眠りがやってきた。
刃が目の前に迫っている。
声を上げて跳ね起きた。
いや、跳ね起きようとして失敗し、寝台から落ちた。声も掠れた息だけで、ほとんど声ではない。
物音に気付いたのだろう、扉が開く音がして、若い男が駆け込んできた。
俺はまだ動転していて、自分が床に倒れていると気づくのに時間がかかった。抱えおこされて、自分の状態をわかったくらいだ。
ゼェッと息を吐いた時、体の内側のものが全部、噴き出すような感覚があった。
口から何かが溢れ、床にぶちまけられる。
俺を抱えていた青年が悲鳴をあげるが、俺は二度三度と、嘔吐を繰り返した。
どうにか寝台に戻されたが、若い者は怯えきって飛び出すように部屋を出て医者を呼びに行った。
寝台に横になって、深く息を吸い、胸の奥が軋むのを感じた。
楽になっている自分に、やはり死ぬことはないか、と安堵した。
医者が大慌てでやってきて、助手の女性に床を片付けるように言った。俺の吐瀉物はそのままになっていた。
「お加減は?」
医者の顔はどこか赤みを帯びた灯りに照らされているせいか、普段より穏やかに見える。
「少しは楽だ」
そう答える声は掠れに掠れていたが、聞こえただろう。
いいことです、と医者が確かに頷いた。今は眠っていてください、とも言われた。
目を閉じる。床が片付けられる音もすぐに消える。医者もその助手も退室した。
闇の中で、刃が閃き続ける。
死ぬしか道はないはずだった。
時子の剣、覇者の剣はあとほんの少しで、勝利を時子に与えただろう。
ほんの少しの差が、勝敗を分けた。
紙一重で、俺の命は奪われなかった。
では俺は、時子を殺せただろうか。
俺の刀は、まっすぐに突きこまれた。
だから時子の胸の中心を狙うこともできた。
そうすれば、時子もまた死んでいた。
そう、時子が死に、俺も死んだ。
ほとんど反射的に、俺は時子の右肩を狙った。
狙いづらい位置を狙ったのは、本能だった。
切っ先は時子の右肩に食い込み、これを貫通した。
その分だけ、わずかに時子の一撃が遅れた。瞬き一つもない、ほんのわずかな遅れだ。
時子自身は、遅らせたつもりなどないだろう。勢いのまま、俺を叩き切って、それで終わりだと思ったはず。どれだけの深手を負っても、俺を切るつもりだったはず。
しかし剣というのは、物だ。
剣を振るう腕も、体も、物だ。
覇者の剣が俺の体に食い込む分の抵抗、時子の肩に敗者の剣が突き刺さった抵抗。
それら全てで、運動そのものが遅れた。
その遅れで、俺は助かった。
技なんてものじゃない。計算なんてものでもない。
俺の本能は、最後まで俺を救ったらしい。しかも相手を殺さずに。
何度もあの場面を検討した。
最適の筋を、俺は見出したらしかった。
これもまた一つの、到達点か。
鳥の鳴き声が聞こえた。闇の中で響いているのではない、現実で響いているのだ。
瞼を開けると、まだ部屋は薄暗い。起き上がろうとしたが、体の感覚はまだ曖昧だ。
諦めて横になったまま、天井を見ていた。
時間になったのだろう、扉が開き、例の若い剣士が窓を開けに来た。俺の方を怯えた目で見ている。笑って見せたかったが、それはそれで怖いだろうか。
医者が遅れてやってきて、昨夜と同じことを聞いた。
「水をもらえるかな」
少しの沈黙の後、医者が「良いでしょう」と言った。
助手に指示が飛び、水が用意されるまでの間に、医者は診察を済ませた。左肩はまだ縛られているのが、一度緩められ、傷口が確認された。特に問題はないようで、布を新しくしてもう一回、縛られた。
水を持った助手がやってきた。小さな瓶と小さな器。
医者が俺の背中に手を当て、体を起こしてくれた。それだけで左肩に息が止まるほどの激痛が走るが、歯を噛み締めてやり過ごす。
右手で器を受け取る。水が注がれると、ほんの少量なのに、変に重かった。
口元へ器を運びながら、口の方からも迎えるように近づけ、水を一口、飲んだ。
全身に張り巡らされた感覚の網目がビリビリと痺れた気がした。
息を吐いて、もう一口飲むと、もう器は空だった。
もう一度、寝台に寝かされる。医者と助手は去っていき、部屋に一人きりになった。
どれくらいが過ぎたか、扉が叩かれる。
「起きている」
声を出したが、大きな声ではないどころか、弱々しい。
しかし相手には聞こえたらしい。
扉が開き、若い男が笑みを見せながら、入ってきた。
透だった。
(続く)
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