第227話 優しい別れ
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私はバッザ公爵から正式に、緑州に赴任するように打診を受けた。
手続きとしては、一度、財務司の下の国庫役の役人としての地位を返上し、全くの平民になってから、今度はバッザ公爵に正式に雇われるということになる。
公爵家に雇われるにあたって、身元を調査されることになるとバッザ公爵にだいぶ前に言われたけど、特に後ろ暗いものはない。税は納めているし、犯罪行為にも手を染めていない。
その調査は私が剣聖府だの軍学校だののあれこれをしている間に、進められていた。特に私から聞き取りをするようでもなかったけれど、聞き取りがあっても困らなかった。困るとすれば時間を取られて困っただろうけど。
仕事が終わったところで、やっとの打診で、私は速やかに国庫役に退職することを伝えた。
ヴェニビア子爵が未だに直接の上司だったので、彼のところへ書状を提出し、すでにヴェニビア子爵も北方の調査を終えて天帝府に戻っているので、返書はすぐに来た。
事務的な言葉で退職を認めることと、それに当たって守秘するべきことの一覧が書き連ねられている。役人になるとこの手の守秘義務が生じるのは知っていた。これを破ると、そこらの重罪と同じ程度の、厳しい罰を受ける。場合によっては死罪だ。
最後まで読んで納得したところで、砕けた文体、走り書きのように短い一文があった。
活躍を祈る。
それだけの短い言葉だ。
ヴェニビア子爵なりの激励らしい。
私はこうして平民に戻ったわけで、天帝府の外壁よりさらに外側にある屋敷も引き払わないといけない。
行ってみると、瑞波が一人で書を読んでいた。
「休暇の最後っていうのは、過ごしづらいもんよ」
そんな風に冗談で私を出迎えてくれる彼女に、緑州へ行くことが正式に決まった、ここを出て行く、と言うと、瑞波は意地の悪い顔を見せた。
「あなたがここを出て行くと、一人じゃ家賃が払えないわ」
「じゃあ、一時的にお金を余計に渡そうか?」
こちらからも半分冗談で切り返すと、瑞波が口元を隠して笑う。
「そこまで困っちゃいないわね。どこかで適当な人を、拾うわよ。荷造りを手伝おうか?」
私は笑みを作って、頷いた。
二人であれやこれやと話しながら、捨てるものは捨てることにして、瑞波が譲り受けたいというものは、全部、渡した。
地味な着物が大量に出てきて、懐かしかった。
私もいつの間にか、立派になったらしい。
その着物を適当なかばんに詰めていく私を、不思議そうに瑞波が見ている。
「もう着ないでしょ? 売れるとも思えないし、捨てればいいじゃない」
「これはちょっと、使い道があるのよ」
その言葉で、瑞波も私の事情を察したらしい。もう何も言わず、彼女も私のように次々と出てくる着物をかばんに押し込んだ。
休憩で外へお茶を飲みに行き、昼過ぎには部屋はおおよそ片付いた。家財道具は元からあったものが大半で、私が自分で買ったものは椅子くらいしかない。それはここへ置いて行くことにした。
「まあ、気楽にやりなさいね」
玄関のところで、かばんを両手に持ち、背中にも背負っている私に、瑞波が真面目な顔で言う。
「そう簡単な仕事でもないだろうけど、あなたならできる、もっとうまくできる、と見てくれている人がいるんだから、堂々と、胸を張っていくのよ」
「そんなに自信家じゃないけど、小娘だとは思われないようにするわね」
「小娘? 自分がそんな年じゃないって、知らないの?」
冗談が通じたので、私は可笑しかった。瑞波も笑っている。
「じゃあね、瑞波。また会いましょう」
「今度はゆっくりしたいわね。また文でも書くわ」
私は右手のかばんを置いて、瑞波の手を握った。
屋敷を離れて、私はかばんの重さに息を乱しながら、外壁の門を抜け、すぐに外壁に沿うように進んだ。
目の前に塀が現れ、少し進むと門がある。
孤児院の札が掲げられている。守衛もいない。
中へ入ると、狭いが庭があり、子どもたちが遊んでいた。
一人が私に気づき、声を上げた。全員がこちらを見て、駆け寄ってくる。
子どもたちがいっぺんにまくし立てるのに、全部、答えてやりながら、私は子どもたちを引き連れるようにして庭を抜け、建物に入った。
騒ぎに気付いたのだろう、孤児院を任せている老婆が待っていた。
「今回はまた、大荷物ですね、蒼華さん」
老婆の名前は葉留という。元は貴族の侍女だった女性で、偶然、私と知り合い、ここを任せている。
「着物が余っていてね、仕立て直して、子供たちに新しいものでも作ってあげて」
早速、葉留がかばんを開き、着物を確かめている。
「子どもたちも喜ぶでしょう」
「こんなことくらいしか、できないけどね」
私はそう言って、庭の方を見た。
子どもたちはもう冬も近いというのに、元気に駆け回っている。
少年二人が、細い木の枝を持って、剣士の真似事をしている。
「緑州に赴任することになった」
私がそう言うと、着物を畳み直していた葉留がこちらを向くのが視線で分かった。私も彼女の方を見ている。
「緑州といえば、役人じゃなくて、バッザ公爵家の人間になるってことですね」
「そういうこと。まぁ、この孤児院の経営は、役人だろうと公爵家の人間だろうと、何の影響もない。経営と言っても、もうほとんど手を離れているしね」
私が団州で溜め込んだ二〇〇〇両近い銭は、ほとんどすべてがこの孤児院の設立に当てられた。
銭の大半は土地を確保すること、建物を整備することで消えて、残りで当座の運営資金とした。同時に天帝府や他の州に広く寄付を求めることもした。
はっきり言って、あまりあてにはしていなかったけど、貴族家の幾つかが趣旨に賛同し、支援してくれた。それもあって、今では孤児院は私の資産どころか、指図も必要としない。
独立、と言ってもいい。
私は形の上での持ち主、というだけだ。
「というわけで、葉留さんの方で、うまく私の仕事を引き継げる人を見繕っておいて」
「わかりましたが、難しいですよ。蒼華さんの理念は、誰もが掲げられるものではありませんから」
そんな立派でもないよ、と私は笑っていた。
私は視線を葉留から子どもたちの方へもう一度、向けた。
明るい世界だ。
太陽の明るさ、笑顔の眩しさ、生き生きとした精神の発散する爽やかさ。
幸福の一つの形。
しばらく私は黙って、子どもたちを見ていた。
「蒼華さん?」
建物の中で声がして、そちらを見ると部屋着を着た女の子が二人、立っていた。孤児院にいる子の中でも病弱な子は、特別な部屋を与えられ、また医者や薬師の援助を受けている。
二人のことは知っていた。私が笑みを見せると、二人もどこかおどおどと笑みを見せ、持っている本を少し持ち上げた。
何かの書物のようだ。
「蒼華さん、あの、本を読んでもらえますか?」
理由を訊ねることはしなかった。
子どもたちには子どもたちの世界がある。
子どもたちにしか見えない未来があって、そこへ向かっていくのが子どもというものだろう。
「良いわよ」
私は二人の方へ向かった。葉留は畳み終わった着物をかばんに入れ直し。どこかへ運んでいった。
二人の女の子が私を挟み込むようにして、それぞれに私の右手と左手をとって、嬉しそうに歩いていく。
私がやってきたことは、間違っていないだろうか。
私は彼女たちに、子どもたちに、何を与えることができたのか。
何かを与えるなんて、傲慢だろうか。
ここにいる子たちが、自分の足で立ち、自分の力で何かをつかめれば、それが一番の喜びだろう。
私はきっと、ただの杖なのだから。
(続く)
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