第8話 胡散臭い誘いと現実
◆
俺は道場の奥にある狭い座敷で初老の男と向かい合っていた。
「まさかあなたのような方が、策州におられるとは」
男の名前は、範・ザッカーという。
何度か天帝府で顔を見かけたのは俺も覚えている。もちろん、妓楼でではなく、その前にいた場所でだ。
どこかの有名な流派の剣の使い手だったが、隠居したと人伝に聞いた。隠居している、というのは今もその時と変わらない。
つい数日前、策州の路上でぼんやりと安く買った小さい砥石を前に座っている俺に、声をかけてきたのが彼だった。驚いた様子だったが、道場をやっているから、ぜひに、と言われたのだ。
一日、じっくりと考えたが、今は剣術を誰かに教えて日銭を稼ぐのも、悪くないかもしれない。
ただ今日、実際に道場を見てみると、何かが違うと思った。
範は俺に道場の様子を見せ、こうして座敷に招き入れたが、今でも道場では門下生が稽古を続けている。チラッと見た様子では、中年の体格のいい男が師範か師範代らしい。
さすがに範が師範という立場ではないのは、こうして座して対面してもわかる。
以前はそうとは思わなかったが、向き合ってみると、剣術家が発する独特な威圧感はない。
今あるのは、どこか小狡そうな光り方の眼と、愛想であることを隠そうともしない口元の作り物めいた笑いだけだ。
剣などもう、彼には必要ないのだろう。
「どうです、一日でも二日でも、稽古をつけていただけませんか」
「俺のようなものには、荷が重いかと」
謙遜ではなく、本気で逃げたかったが、範は意に介さずニコニコと笑っている。どこか明るい表情でも、その奥に濁ったものの気配がする。
「一日に、一両でどうかな」
いえ、と俺は応じるも、どうにも声に力が入らない。
つい今朝も、蒼華の奴に嫌味を言われた。
一両あれば、蒼華を少しは楽させてやれるだろう。
ただ、俺は剣術を売り物にするのは何か違うと、この時は思った。妓楼の用心棒も似たようなものだ。実際に剣を抜く機会も稀だった。
つまりどこが違うかと言えば、用心棒はそこにいるだけで良かった。剣術など、見せる必要も使う必要もない。
しかし道場では、剣術を売っているようなものだ。
もっとも、蒼華の前で追っ手の剣を切ったりもしたのだけど。
範はまだ表面上は嬉しそうに笑っている。
「では、二両でどうです」
どう応じるか、いよいよ進退が窮まった。
それでも最後の一線で、ご辞退します、ということができた。範は落胆した様子だが、何かあればこちらに来てくださいね、とまた例の笑みを見せた。悪意のないこと、むしろ善意しか見えないはずが、やはりどこかに澱んだものがある。
気のせいだろうか。
「道場を見ていってください。これでも策州では三本の指に入る、と自負しています」
範が立ち上がったので、俺は立ち上がり、一礼して道場の方へ戻った。
門人は今は十人ほどで、乱取りの最中だ。持っているのは竹刀で、防具をつけている。
そんな作法はどちらかといえば、町人の習い事にありそうなことだ。
天帝府では、というか、剣聖府では、ある程度に達すると真剣を使った稽古しかしなかった。
殺されるかもしれない、殺すかもしれない、そういうギリギリの精神状態の先に何かがある。
そういうどこか狂った志向だったし、怪我人も出れば、死者さえも出た。
しかし後になってみると、あの稽古ほど意味を持つものはない。
剣術とは人を斬る技で、それは生死がかからないところでは磨かれないのかもしれない。
道場の奥の一段高い場所に座っている、例の師範か師範代らしい男が、こちらをじっと見ている。こちらはそれとなく、彼を意識した。
身体は出来上がっている。年齢からすれば、あるいは経験も十分か。
そのはずなのに、範と同様、どこか何かが足りない。
威圧感、というしかない。
それは今、俺が潜めているものでもある。きっと彼からすれば、俺の実力は測りづらいだろう。そういうところから剣術家の駆け引きは始まるものだ。
俺は範に断って、そっと道場を出た。
通りへ出て、歩きながら懐に手を差し込み、財布の様子を確認した。
ほんの六貫か七貫しかない。公衆浴場へ行くくらいの余裕はあるが、あまり贅沢もできない。
腰の刀の位置を調整しながら、もう一度、道場のことを考えた。考えながら、策州の街を歩いて、何か仕事を探した。
結論としては、俺には剣術以外、何もないということだ。
だが、範の道場はどこかが違う。あそこで銭をもらうべきではない。
しかし、うーん、どこかが違っても、こうなっては、銭のために考えを改めるべきなのか。
夕方に大衆浴場で汗を流し、饅頭屋へ戻った。裏手に回り、納屋の立て付けの悪い引き戸を開ける。
中では蒼華が座り込み、饅頭を食べていた。
表情は明らかに険悪で、睨むというより、射殺すような視線が向かってくる。
「儲かった?」
ぶっきらぼうな言葉は低く、攻める色しかない。
俺が懐に砥石はあるが、実際に研ぎ屋などやっていないのは知っているだろう。遊んでいる、フラフラしている、と見ているのもわかる。
それが事実だから、何も言えない。
やはり剣術道場での仕事をするべきか。
俺は黙って納屋に入り、戸を閉めた。
座り込んだ俺の手元に、硬くなった饅頭が二つ、飛んできた。
「珍しいな、二つとは」
反射的にそう言うと、蒼華の眼の中で火花が散ったような気がした。
「それだけ売れなかった、ってことよ!」
「すまん、失言だった」
蒼華がその一言で、さすがに怒りを爆発させた。意図しているわけではないが、どうも俺はこういうところで、いつも間違える。
「あんたねぇ、あんたは一日、自由に過ごして、私は一日中、街中を饅頭背負って歩き回って、それで対等なつもり? どこからどう見ても、誰が見ても、あんたは私に養われているのよ! 別にあんたに養ってほしいわけじゃないけど、対等じゃないわよね? 違う?」
「違わない」
「で、銭が手に入る可能性は?」
どう答えることもできない俺に鼻を鳴らし、すっくと蒼華が立ち上がった。
「出かけてくる」
ボソッとそう言うと、蒼華は荷物を手に納屋を足音たかく出て行った。戸が激しく閉められる。大衆浴場へ行ったのだろう。毎日、この時間に彼女は出かける。
まだ、身綺麗にするだけの心、最後の矜持を失っていないと、俺に示すみたいに。
俺は思わずため息をつき、手元にある冷たい饅頭を見た。
やはり、仕事か……。
(続く)
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