第4話 二人の関係
◆
なんであの女の子が目の前にいるのか、混乱したのは一瞬だった。
気づくと手を引いて走り、路地の奥で息をひそめることになった。
「ちょっと、手を離してよ!」
「黙ってろ」
小さな声でそう言いながら、俺はそっと細い手首を離した。
通りを人が駆け抜け、その気配も消えた。あるのは普通の往来の、夜を楽しむ人々の発散する空気だけだ。
どうやら追っ手は撒けたらしい。夜だから、闇をうまく味方にできたということか。
「あんた、ちょっと、どういうつもり?」
すぐ横に座り込んでいる少女、名前は、そう、蒼華だ、そいつが非難がましく言う。
「これじゃあ私も天帝府に居づらくなるじゃない。別に知らん顔できるし、天帝府は広いからどうにかなるかもしれないけど、こうなったらきっとあなたのせいで普通じゃいられないし」
「それは」
視線を向けると、夜の闇の中、通りから差し込むわずかな光の中で、真っ赤な瞳が美しい。
その美しさというか、気迫の強さに、珍しく俺は答えに詰まった。
「それは、何よ?」
「あんたが、俺に剣を切らせた」
やっとそう、朴訥に答えるしかない俺は、どうやら普段と少し違うようだ。
それでも俺の言葉に、俺のことを何も知らない蒼華でも、少し思うところがあるらしい。彼女はささやかな困惑を強気で塗りつぶし、こちらを睨みつけている。
「普通、剣で剣を切る人なんて、いないわよ」
「俺にはできた」
「それがでたらめだってこと! まぁ、あの場で三人が死体になるよりは良かったし、腕の一本か二本が転がることになるのも、大変だったでしょうけど」
その程度の観察力とまともさはあるらしい。
まぁ、この少女が俺の実力を正確に把握していると思えないけど。
とにかく、俺はさっさと逃げることにしよう。
天帝府に留まっていたのは気まぐれで、実際にはいない方がいいのだ。
蒼華がどうなるかは、彼女に任せるしかない。
俺はしゃがんでいた姿勢から立ち上がり、刀の位置を直した。
そうして初めて、蒼華がいつの間にか不安そのものの視線になり、俺を見上げた。彼女はまだしゃがみこんでいる。
「じゃ、俺は城門が開くのと同時にこっそり逃げるから」
心は痛むが、仕方あるまい。
ただ蒼華は食い下がってきた。
「城門が開くまで、まだ十刻はあるわよ」
「別にどこかに隠れていればいいさ」
何かを考える雰囲気になり、そしてすっくとやおら蒼華が立ち上がった。
「私も天帝府を出たい、と言ったら、どうする?」
「別に、好きにしてくれ、と言うかな」
「あなたが私を巻き込んで、私の生活をめちゃくちゃにしたのに?」
まず第一に、俺が巻き込んだかは微妙なところだ。蒼華の方でも俺を巻き込んだ部分がある。
次に、彼女の生活という奴は、研ぎ屋のことだとしたら、はっきり言って大した生活ではない。路上生活者か物乞いに毛が生えたようなものだろう。
俺がじっと見据えると、唐突に蒼華はニコニコし始めた。吹っ切れたというか、やけっぱちの表情。
「私にはとりあえずの銭がある。だからあなたの逃亡生活を支えられる。それにあなたは私の用心棒ということにすれば、それほど目立たずに旅ができる」
「あんた、それ、本気で言っているのか?」
言葉が口をつく、とはまさにこのことだ。
この少女は何か、タガが外れたのか。
しかし笑っている表情には、不安定なものは何もない。
ただ、怒りは滲んでいる。笑いながら怒るとは、器用なことだ。
「私はどこかの商家の一人娘で、商売で身を立てようとする。あなたは私の空想の両親がそばにつけた、護衛。そういうの、どう?」
全くないことではないが、どう見ても二十歳にすらなっていない娘が、商売で身を立てようとする、などということがありえないのでは?
じっと視線を注ぎ続けると、蒼華は少しずつ無表情になっていき、そしてついには俯いてしまった。
ぽつぽつと彼女がこぼすように言う。
「私、住む家はあるけど、家族はいないし、親戚には白い目で見られ始めているし、とにかく、商売で身を立てたいのよ。商売なら、自分の才覚で、どうとでもできる」
嘘か真かはともかく、急に懐かしさがやってくるのは、俺自身の過去を振り返ったからだ。
幼い時、俺に剣術を教えてくれた男が言ったものだ。
剣術は才覚よりも運だ。
どれだけの稽古を積み、どれだけの経験を積み、どれだけの技を身につけても、最後の一瞬に運が背を向ければ、敗れることもある。
そして敗れるということは、すなわち死なのだ。
剣術と商売は、対極にあるのか。
商売にも運はありそうだが、あるいはそれは、剣術よりも緩い縛りなのかもしれない。
ただ、この少女にどういう運があるのかを見てみたい自分が、急に心の片隅に生まれていた。
ちょっと助けてやるくらいは、いいかもしれない。
「荷物は?」
俺の言葉に、すっと蒼華が顔を上げた。
顔には今までになかった、さっきまでとは違う不安げな表情がある。
それを直視できず、今度は俺がそっぽを向いた。
「荷物があるなら、すぐに持ってこいよ。俺はここで城門が開くまで、身を潜めている」
「一緒に連れて行ってくれるの?」
さすがに俺は蒼華の方を見ていた。自分が渋面なのが鏡を見ずとも分かるが、仕方あるまい。
「俺が連れて行くんじゃない。あんたが連れて行くんだ」
一言で、パッと蒼華の表情が花が開くような笑みに変わったのは、薄明かりでもよく見えた。
「すぐに荷物を用意するわ。ここで待ってて。逃げちゃダメよ。私、これでも執念深いから」
「わかっているよ。さっさと行け。十刻は待つ」
「大して時間はかからないから、すぐ戻るね。本当に逃げちゃダメよ。追いかけるからね。そうじゃなければ、天帝府の遊郭の全部にあなたについて通報するから」
何も言わないでいると、勢いよく蒼華が俺の両肩をつかみ、渾身の力で座らせようとしてくる。渋々、俺は座った。
その様子に安堵したのか、「待ってて!」とやや大きい声を発し、蒼華は路地を飛び出して行った。
この先、どうしたらいいのやら、と思いながら、俺は座り込んで、少し邪魔になる刀を腰から外し、抱えるようにした。
通りでは、人が行き交い、時折、声が聞こえてきた。
それ以外は、比較的静かな夜だった。
(続く)
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