第一部 走り出した少女と彷徨う青年編
第1話 捨てられた日
◆
私は通りの埃っぽい空気の中、一人で突っ立って目の前の商店を見ていた。
すでに昼近いのに店の表の戸は閉じられたままで、そこには「閉店しました」という短く、無情な言葉が書かれた張り紙がある。
私を三日はかかる使いに出している間に夜逃げとは、恐れ入るなぁ。
正直、怒るより前に、感心してしまった。
建物の裏手に回ってみてもいいけど、どうせ施錠されているだろうし、建物の中に価値があるものは残っているだろうか。
まぁ、何かはいただきましょうか。
意外に自分が衝撃を受けてないのが、可笑しくもある。
今の私が持っている一両ほどでは、ほとんど文無しだ。一両は一〇〇貫、普通の食事一回に一貫は必要になる。
隣の建物との隙間を抜けて、店主をしていた叔父夫婦の住居だった、建物の二階へ通じる階段の扉を開けようとする。
やっぱり開かない。錠がかけられている。
誰も見ていないのを確認して、足元に落ちていた大きめな石で、扉を破壊するのには、だいぶ時間が必要だった。それにすごい音がしたから、私は誰も路地に来ないか、不安から何度も確認せざるを得なかった。
鈍い音を立てて、ついに扉が薄く開く。
まったく、手が痛いなぁ、と思いながら、石を手放し、投げ捨てた。やっと室内に入ることができた。
中を探した結果、出てきたのはガラクタばかりだ。ボロボロの穴の空いた鉄鍋とか、古い蝋燭の束とか、たぶん、砥石だろう四角い石とか。
着物の一着でも、と思ったけど、あったのはボロ切れにしか見えない、薄汚れている上に虫にも喰われている、とても値段のつかないものだけ。
これはどうも、失敗だったわね。
変な期待を持つとは、私もお人好しだこと。
私の部屋は戸が開け放たれているので、たぶん、そこに何かあるとか、期待しても無駄だ。
こうなっては、ここにいても仕方ないと決めて、もう家を出ようかと階段へ向かおうとしたが、それより先に誰かが階段を上がってくる音がした。
ちょっとちょっと、これはさすがにまずいんじゃない?
とぼけてるとかよく言われていた私でも、それくらいは分かる。
も、物陰に隠れよう。残っている戸棚の影しかすぐには見えない。そこだ!
じっと観察していると、入り込んできたのは若い男の二人組で、服装こそ平凡だけど、視線には物騒な光り方がある。
しまったなぁ。
叔父夫婦と関係のあった金貸しか何かだろう。
私がここで何食わぬ顔で登場して、この建物でも差し上げます、で済めばいいけど、どこからどう見てもボロ屋なので、彼らがニコニコで去っていく未来は、……天地がひっくり返ってもないな。
でも、逃げ出さなくちゃ。
足跡を忍ばせて、戸棚の影を離れて、こちらを見るな、こちらを見るな、そう念じながら、階段へ向かう。
頭の中はもう、見るな! だけで、呼吸は無意識に止まった。
こういう時に限って軋むのが、床ってものなんだけど。
床はいい仕事をして、二人組がこちらを振り返り、私と彼らの視線がばっちり、ぶつかった。
「この家の娘か?」
私は答えなかった。
脱兎の如く階段へ走る。男たちが声を上げて追ってくる。転がるように段を駆け降りた。
地上へ降りて、路地とも言えない隙間から通りへ出る、その一瞬前に襟首を掴まれ、路地に逆戻りし、口元を押さえられていた。
「じっとしてろ、大声は出すな、聞きたいことがあるだけだ」
すぐ後ろで男の声がする。抱きすくめられたようになり、身動きが取れない。
息の生臭さに気づいた時、ここで私の貞操の清さも過去のものになるのね、と誰にともなく思考する私だった。
「お前、蒼華という娘だろう。渡すものがある」
渡すもの?
借金の証文だろう、としか思えない。
それで私は借金を理由にどこかの男の言いなりになって、まだ幼い(はずの)体をいいようにされて、最後にはなんか、いやらしい存在にされちゃうんだろうなぁ。
死んだ方がマシ、と思えない辺りは、私自身が現実を知らないからだろう。いや、男の慰み者になる未来は現実になって欲しくないのだけど。
「手紙だ」
目の前に封書が差し出される。
宛名は、私の名前だった。
男が拘束を解いてくれたので、それでも人が三人もいれば狭い空間で、私は封書の中身を確認した。やはり、借金の証書では、という予測を持ちながら。
そんな悲観を、わずかに和らげたのは、叔父の字で、お前とは縁を切った、と書いてあるのを見た時だ。
つまり借金は私に引き継がれない!
すぐそばにいる二人組を見ると、片方が「俺たちはあの夫婦から金をもらう約束だ、家の中を調べるぜ」と言った。
私は少し思案して、提案する気になった。
「一緒に手伝ったら、お小遣い、貰えますか?」
質問が質問だったからだろうけど、男の一人が面倒臭そうに、「家探しだぜ?」と言っただけだった。
「四貫くらい貰えると、嬉しいんですけど」
そんな風に言ってみると「三貫だ」と片方が答える。それに「兄貴、高すぎですよ」ともう片方が反論したが、それには答えはなかった。
こうして私は住むところも仕事も失って、ただ三貫で雇われる形で、自分の生活した家を家探ししたのだった。
案の定、叔父夫婦は、私の荷物からも高価なものは軒並み、持ち逃げしていた。大きさが合わなくてもう着れない着物も、履けない草履もだ。
さすがの私も壁を蹴り付け、そこには重い音を発して、大きな穴が空いた。
とにかく私は一両と三貫とここに残された細々したガラクタで、これから生きる必要がある。
この平和な国の最も栄える都市、中央天帝府の片隅で。
(続く)
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