公園玉のゆうこさん

カピバラ

公園玉のゆうこさん

 001


 私はこの公園が好き。

 大した遊具もなければ広くもない、この小さな公園で読書を嗜むのが私の些細な楽しみなの。陽が傾き始める頃合から暗くなるまでの数時間、私はここに来るわ。

 そして今日も、夏も終わりを告げる九月の下旬、例外なくいつもの公園玉に腰掛ける。

 けれども、一つだけいつもと違う事柄が起きたわ。私の前で、大きな瞳を瞬かせる少女。見た目は小学生低学年といったところかしら。


「こんばんは、もう暗くなるわよ? 帰らなくていいの?」


 少女は口をへの字にして首を横に振った。大事そうに両手で抱えた茶色い鞄には、脚の解れた兎のキーホルダーが揺れているのだけれど、なるほど、塾の帰りなのね。


「帰りたくないのかしら?」


 少女は小さく頷いたわ。私はなるべく優しく微笑み、——あまり得意ではない笑顔を作り、少女の話を聞くことにしたの。


 少女は無口で、普段人と会話しない私が話さなければいけない空気になったの。私は出来るだけ楽しい話題をと思考を巡らせながら語るのだけれど、少女の一言、——「お姉さん、話すの下手くそだね」の一言で一蹴されてしまったわ。失礼ね。事実だけれど、それを面と向かって言うところ、まだまだ子供ね。けれど、その代わり、笑顔が見れた。


「またね、えっと……」

「ゆうこ」

「ふふっ、またね、ゆうこちゃんっ!」


 ゆうこ、ちゃん……まぁ、いっか。と、ちゃん付けに戸惑いを隠せずにいると、少女は思い出したように言った。


「わたしはなぎ

「……なぎ」

「うん、凪! 凪ちゃんって呼んで!」

「なぎ、ちゃん」


 よく出来ました! と、少女はそう言って振り返り私に背を向けたと思うと、スタタタ、と小走りで去ってしまったわ。忙しない子。

 でも、元気になって良かったわ。


 002


「こんばんは、また来ちゃった」

「あら、こんばんは、凪」

「なーぎー、ちゃー、ん!」


 膨れちゃったわね。そんな表情も、ムスッとした顔よりはずっといいわ。

 そんな日々は数週間続き、少し肌寒い季節がやって来たわけだけれど、それでも凪は毎日私の元に来ては、家が厳しいだの、学校で打ち解けられないだの、本当は塾になんて行きたくないだのと、愚痴をこぼしてはスッキリした表情で帰って行くの。

 私はそんな日々を、日常を、いつしか心待ちにしていたわ。誰にも相手されない私に声をかけてくる子なんて、そうは居ないから。そう、あの人くらいね。私に手を差し伸べてくれたのは。


 003


「凪、寒くないの?」

「寒くないよ? でもね、今日塾サボっちゃった。もう、嫌なの……行きたくないの」

「そう。それは親御さんに伝えられないの?」

「無理だよ……わかってくれないよ」


 可哀想に。そんな一言で、——ましてや赤の他人である私が言っていいのかも悩ましいくらいの一言で、この子を救うことなんて、出来ない。

 何もしてあげられないの。


「ねぇ、ゆうこちゃん?」

「何かしら?」

「ゆうこちゃんは、幽霊って信じる?」

「幽霊ね。どうかしら?」


 どうやら、どうしても家に帰りたくないみたいね。きっと家には塾からの連絡が入っているでしょうし、つまり、帰宅すると親御さんからキツく叱られるのは目に見えているわけで。


「凪、私はお家に帰って、ちゃんと気持ちを伝えるべきだと思うわ。叱られるかも知れないけれど、きっとわかってくれるわよ」

「出来ないよ……ママもパパも、お勉強お勉強って、それしか言わないもの。わたしのことなんて、見てくれてないんだもの! きっと、わたしのことなんて可愛くないんだ」


 涙が、——絵に描いたような大粒の涙が砂の上に落ちる。けれども、変わらぬ砂の色を見て、私は悟ったの。この子はやっぱり。


「きっと悲しんでいるわ、凪が、凪ちゃんがお家に帰って来ないから、二人は悲しんでいる」


 こんなこと、私が言うことじゃない。


「きっと凪ちゃんのママもパパも、二人も上手なやり方を知らないだけよ。凪ちゃんが嫌いで意地悪しているわけじゃないわ?」


 私が言うことじゃ、ない。


「きっと、愛してくれているわ」


 小さな身体を抱きしめると、微かに震えていたの。怯えているのね、未知に。


「ほんとに?」

「えぇ、私が保証するわ」


 首元から垣間見える、白き柔肌を蝕まむ戦慄と狂気の爪痕から目を背けずに、私は凪を抱いた。

 頭を撫でてあげた。


 よく頑張ったね、すごいね、偉かったね、と。


「……ゆうこちゃん、ありがと。お家、帰るよ」

「そう」


 私は多分、嘘をついた。大嘘をついた。

 酷い嘘を、凪についた。けれども、それでいい。

 泣き腫らした顔で健気に笑顔を作り私に手を振る凪。私は小さく手をふり返した。

 ——さようなら、凪ちゃん。

 きっともう、会うことはないわ。いいえ、会わない方がいいのよ。きっと、そう。


 凪はもう、————


 004


 帰宅すると、すぐに優しい声が私を出迎える。私の愛おしい日常が迎えてくれる。


「どうだった?」優しい声色が問いかける。その問いに私は、自信を持って答えたの。

 ——「元気に旅立ったわ」と。

 彼は、そんな私の頬に流れる雨粒を、何も言わずに拭ってくれたの。




 私は幸せね。




 公園玉のゆうこさん   完

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