41 : Bless you - 05
「聖水が蒸発する方が早いのじゃないかい」
「それはやってみねばわからんだろう」
そう、言うとテレジアはサイラスの決意が固いことを察したらしい。あたしは何を手伝えばいいんだい、と俯いて問うてきた。
その問いに答える前に、一つ確認しておきたいことがあった。まだ半泣きのテレジアの背をあやすように何度か叩き、そしてサイラスは泉の淵に立った。いつもなら、ここからは美しい青空が見える。ダラスが覆ったその中空を見上げながら、姿の見えない相手に向かってサイラスが問う。
「ウィステリア、まだ私の声が聞こえているだろう」
今のサイラスに映像を紡ぐだけの余力はもうない。音声だけをどうにか伝えると、通信魔術の向こうで大きな溜息が漏れた。
「――何のご用かしら、死にたがりの新しいあるじどの」
「まぁそう邪険にするな。お前に頼みがある」
「自爆以外の選択肢なら考えてもよくてよ」
「それはお前の主観に委ねる」
嘘を吐いて取り繕うことも出来た。それでも、サイラスが誠実を貫いたのは何か打算があったからではない。
ただ、信じる気持ちに偽りの言葉を返したくはなかった。ウィステリアの声が優しさを帯びる。
「――馬鹿なヒトね。そこは嘘でもいいからわたしの言葉を否定なさい」
「信じたヒトに裏切られる痛みなど知らない方がよいだろう」
「信じたヒトを目の前で失う痛みも味わいたくないわ」
誠実を貫きたいのなら生きて戻ってこい、とウィステリアは言う。その切なる響きの美しさは彼女が奏でるエレレンの調べをも超越していた。
だから。
「ウィステリア。私が合図をしたらテレジアを泉の中央に放り出してほしいのだ」
「それで、あなたはどうするの」
「名を呼ぶ」
神気を湛えた泉の上空でサイラスが魔術結界を解除する。ダラスに飛行能力はない。足場を失えば重力がダラスを水面へ叩きつけてくれるだろう。
部分欠損などで泉から這い出ることは許さない。名を呼ばれた魔獣は一時的にだが身体の制御を失う。その状態で聖水に浸かるとどうなるか。当然、泉の水が絶えるまでダラスを蒸発させ続けるだろう。
ただ。
「無理よ、あなたの身体はその圧に耐えられない」
「そうだな。私の身がもたないかもしれない」
「だったら――」
「それでも、もう手段を選んでいる場合ではないだろう」
サイラスの目にはダラスの名が視えている。ただ、それを音にするのには想像を絶するほどの負荷が伴うだろう。魔獣は自らの名を呼ぶに値しないものを拒絶する。その反発がないとは思っていないが、どの道全滅の運命しか待っていないのなら、試せることは全て試してみたいではないか。
そう、言えば。声しか聞こえない筈なのにウィステリアが酷く傷付いている様子が手に取るようにわかった。
「ウィステリア。呪うのだろう、この私を」
「ええ、呪っているわ。今も、この後もずっと、ずっと」
「ならばそのまま呪い続けてくれ。私が帰るべき場所がどこなのかを、お前たちの呪いで示してくれ。そうだろう、ウィリアム・ハーディ」
束の間の沈黙の後に、リアムの返答があった。
「セイ、俺、お前に話したいことがたくさんある」
「奇遇だな、私もそうだ」
「帰ってこい。絶対に、帰ってこいよ、セイ」
「おかしなことを言うやつだ」
「何が」
「ここが――私の今いるこのソラネンこそが帰るべき場所、だろう」
サイラスは既に帰るべき場所にいる。あとはその場所を守り抜くだけだ。
そう、告げるとリアムが言葉を失った。言葉を失って、息を呑んで、そうしてそれでも彼はサイラスの決意を受け入れた。
「ウィステリア、頼んだぞ」
「安心して任せていただけないかしら? わたしの呪いは神の悪戯さえも超越するのだから」
その言葉を受け取って、サイラスは上空を見上げる。サイラスに残された勝機はたった一度しかない。泉の中央に放り出されて浮かぶテレジアにダラスが接触をする瞬間。その刹那を見誤れば全てが終わる。緊張感と責任感と恐怖と不安で潰れそうになる心の臓をぐっと掴むようにして、そうして深く息を吸った。
瞼を伏せる。虹彩を閉じてなお網膜に照射されるダラスの名を間違いなく読み取って、そうしてサイラスは再び瞳を開けた。
「ウィステリア!」
今だ、と叫ぶ。半球状の魔術結界を完全に解くとダラスの巨躯は落下を始める。その標的を他に逃さないように泉の中央でテレジアが隠されていた魔力を放出する。「マグノリア!」鈍い声が低く響いて、ダラスの複眼は完全にテレジアを捉えた。獲物を見つけたダラスの降下速度が増す。水面から気化した神力がダラスの外殻を撫でては溶かしていく。水面までの残りの高さを必死に演算して、その瞬間を待った。
そして。
ダラスの牙がテレジアを捉える。その瞬間、サイラスは腹の底から、今まで出したこともないような大声でダラスの名を紡ぐ。
「『ユーレニア・リンナエウス』! その名に命ずる、消失せよ!」
ユーレニアというのは木蓮の別称だ。国や地方によってはそれぞれが同じものを意味している場合もある。その名が意味するのはユーレニアがマグノリア――テレジアと関わり合いがある個体だということだ。同じ属名を持ち、同じ植物の別の名を持つ。多分、テレジアが言っていた「かか様」という言葉が真実なのだろう。テレジアはユーレニアから分化した存在だ。
その、母体が消失したとき、テレジアに何の影響があるのかはわからない。
それでも、血反吐を吐いてでもサイラスは名を呼ばれた魔獣からの反発に耐えた。
サイラスが注いだ魔力とユーレニアの魔力とが拮抗して宙に浮かんでいたユーレニアの躯体が少しずつ水面に沈み始める。まだだ。まだサイラスは意識を手放すわけにはいかない。沈め、沈めと繰り返し念じるサイラスの臓腑はもう限界を迎えようとしている。
その耳に、サイラスの名を呼ぶ声が幾つも響く。トライスター、サイラス、教授。色んな声がサイラスの中に流れ込んできて、その度に折れそうになるサイラスの心を支えた。
一人ではない。サイラスは今、ソラネンの全員の気持ちを背負ってここにいる。
だから、膝を付くわけにはいかないのだ。人の願いを現実のものにする。その願いを背負って立つものだけがトライスターの名を冠するに相応しい。
聖水の泉に沈みゆくユーレニアが最後の抵抗と憤怒を掲げる。
「貴様ごときに呼ばせる名ではない!」
「では今一度復唱しよう。消失せよ、ユーレニア!」
その名を呼んだ瞬間、サイラスの身にかかる圧が急激に上昇する。精神力を根こそぎ持っていかれそうなのを踏み止まって、睨みつけた水面が水柱となり、せり上がる「奇跡」をサイラスはその目で見た。
ユーレニアの断末魔が響く。
そうして。
意識が薄れゆく中、吹きあがる水が収まった後の泉に巨大な輝石と化したユーレリアの姿をみとめてそうしてサイラスは生まれて初めて本当に神がいるのだということを知った。
「神というのも、満更、捨てたものでもない、な」
「坊や! 坊や! しっかりおし! 坊や!」
泉の中を泳いで、テレジアが必死に岸辺に戻ってくる。その姿を捉えないまま、サイラスは意識を手放した。
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