32 : Defensive defense - 03
知っている。ヒトというのは傲慢の権化だ。飽くことなく世界を消費するだけ消費して世界に有益な生産は微々たる量しかしない。知っている。それでもサイラスはヒトに生まれてしまった。人生という道を歩き出して、そのうえで必死に戦っている。貴賤も貧富も清濁併せ持つヒトに生まれたことを決して悔いてはいない。
それでも。
「おぬしはヒトとして真っ当であろうとしておる。であれば、我はおぬしに望むのよ。そのまま、その茨の道を歩んでくれぬか」
つらいことが多いかもしれない。挫けそうになるかもしれない。
それでも、サイラスの選んだ「美しい理想」を描き続ける姿は誰か――具体的な例を挙げるならクラハドに勇気を与えるだろう。そう出来るだけの強さを持ったサイラスのことを受け入れ、敬い、目指す。そんな偶像になってくれ、とクラハドは言った。
「カーバッハ師。私は諍いごとがあまり好きではない」
クラハドが降らせた魔術の水はもう消えた。もともと空気中に気体として存在していたものを魔力を介して液体に変えただけなのだから、当然と言えば当然だ。
濡れていた筈の床にすらもう名残は見えない。
その、石造りの床を注視したままサイラスはぽつり、うわ言のように呟いた。
「知っておるとも」
「ダラスというのは理論の通ずる相手か」
「おそらくは不可能であろう」
ダラスにはダラスの理論がある。そして、それは決してお互い歩み寄ることなどない、とクラハドは断言した。
それでも。サイラスは知っている。テレジア――マグノリア・リンナエウスはサイラスのことをあるじだと言いながら、その実家族のように感じていることを。
「ならばなにゆえ私とテレジアは友好の情を互いに持っている」
「おぬしがそのように育てたのであろう」
「――えっ?」
「感情のないはずのダラスに感情を与えたのはおぬしだ、サイラス・ソールズベリ=セイ」
先代の人柱――ファルマード司祭と契約した魔獣には感情などなかった、とクラハドは至極真面目な顔をして言った。グロリオサ・リンデリはファルマード司祭に使役されているだけで、二者の間に友好の情はなかった、とはっきりと断言されるのをサイラスはどこか遠くの出来ごとのように聞く。
「古来、奇跡を起こせるものが天才と呼び称されるものよ。トライスター。おぬしの背負った荷がどこまで届くのか、我にも最期まで見届けさせてはくれまいか」
天才というのはそれだけの荷を背負ったもののことだ、とクラハドは言っている。
自らの道を自らの意思で歩き、その轍がいつか輝きを放つ。生きている間に評価を受けるものも、死んだあとに評価されるものもいる。サイラスがどちらになるのかは十九年ではまだ判別に足りない。
ただ。
クラハドはサイラスを――ひいてはサイラスの戦いを心の底から応援している。そんな風に言われて、最終的に勝利を得られるのなら手段がどれだけ暴虐でも構わない、などと言えるほどサイラスは荒んでいなかった。
「師はそれでよいのか」
「トライスター。知っておろう。この街に所領の拡充を願うものも、悪逆を望むものもおらん」
「皆、平和と平穏を愛し、その前提の上で勝ち得る最上の名誉を求めている、か?」
「それが出来ぬものはもうこの街を去った。そうであろう?」
そうだ。そうだとも。ソラネンの街はただ探求だけで成り立っている。昨日より今日、今日より明日、明日より十年、二十年先のことを追い求めるものだけがこの街には残った。今、ソラネンの街にいるのはそういう探求者たちだけだ。
だから。
「一個都市がダラスの襲来に打ち勝つ、というのはこの街において最上の名誉だと言いたいのだな」
「そうだとも。撃退、それだけでよい。それがおぬしの本来の戦い方ではないのか?」
「随分と買い被られたものだ」
それでも、過大評価を受け取ったことでサイラスの中で渦を巻いていたどす黒い感情が少しずつ霧散していくのを感じる。
戦いの姿は千差万別だ。誰が何をどう思うのかで幾万幾億の結論が変わる。
誰かを否定したいのではない。だから、誰かを否定してまで自らを肯定するのは分が過ぎていると言えよう。サイラスは今、自らを守る為に何かを否定しようとした。クラハドが婉曲な言葉でそれを指摘する。彼もまた指摘に留まり、サイラスに何かを強要することはない。なるほど、これが尖塔の指導者か、と思うとサイラスの中でクラハドへの畏敬の念が高まったのを感じた。
「カーバッハ師。この街を守りきってあなたに示そう。私の青い正義感があなたの思う奇跡を描き続けていくのだ、と」
「そう大言壮語するものではない。有言不実行ほど無様なものもないでな」
「いや、問題ない。私は必ず有言実行する」
なぜなら、サイラスは三年連続その称号を保持し続けている史上最年少のトライスターなのだから。
その場所に立ち返って目の前にあるものを正視する。サイラスにはまだまだすべきことがあるのをようやく思い出した。
「旅籠に行ってくる」
「トライスター。おぬしはまだ十九年しか生きておらぬ小僧だ。思ったことを先のようにぶつける相手が必要であれば壁打ちをしろとは言わん。またここに来るがよい」
「精神問答の講義もないのに?」
「おぬしは我の不出来な弟子の一人であるからな。特別に聞いてやらんでもない」
微笑んでクラハドが言う。その微笑の何と心強いことか。
「なるほど、私はよい師を得た、ということか」
「さぁ行け、トライスター。ソラネンの街は皆、おぬしの味方よ」
クラハドの言葉を信じ、尖塔を出ていく。旅籠にはスティーヴ・リーンたちがいる筈だ。彼女たちと協力することで実現可能な対策を実行することがソラネンの街にとって最上であると信じ、サイラスは露店商たちの消えた中央市場を駆けた。
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