第九話

24 : You are Different - 01

 学術都市ソラネンは林野を内包した姿をしている。

 街中に林立する樹木たちをそのまま生かしているため、石畳の街路はときに大きな迂回を強いられた。魔術師ギルドである尖塔からサイラスの寄宿舎までは直線距離にして五分程度だが、実際に街路を駆けていくと到底五分などでは到達出来ない。おそらく、街路のままに進めば二十分程度を要するだろう。その道を今朝のように歩いてきたのでは四十分以上かかることになる。そのぐらい、ソラネンの街路は複雑な様相をしていた。

 樹木の間は大地母神フェイグの息吹が眠る場所だ。ソラネンにおいて林野を蹂躙するということはフェイグ母神を冒涜するのと大差ない行為であると言える。だから、ソラネンの住人たちはよほどの理由がない限り、みだりに林野に立ち入ることはない。たとえそれが四十分の迂回を強いる道のりになったとしても。

 ただし、それは平和を享受しているからこその理想論であり、サイラスたちに現状、時間的余裕はない。

 騎士として母神を敬うと誓いを立てたシキ=Nマクニールが超法規的措置を提案するのもまた自然な流れだった。

 石畳の上を駆ける二つの足音が幾つめかの曲がり角に差し掛かり、減速する。速度というのは直線上でしか上げられないのにこの街は途方もない数の曲がり角が待ち受けている。減速、からの加速、を阻む減速の繰り返しにシキの焦りが募っていくのを彼の背でサイラスはひしひしと感じていた。道順も速度も今のサイラスに口を挟める余地はない。シキを信じて、寄宿舎に辿り着くのをじっと見守っているしかない自分が歯がゆかった。

 そんな折、シキが言う。


「トライスター、貴様の宿は林のすぐそばだったな」

「そうだ。寄宿舎街の南のはずれだ」

「で、あればだ。林を抜ける」


 林を抜けてはならない、と誰かが決めたわけではない。法律も戒律も決してそれを禁じていない。

 それでも、ソラネンのものは畏怖から母神の一部である林に立ち入るときは母神に祈るときだけだと暗黙の了解で生きている。シキは今、それを反故にしようとしている。母神を敬い、忠節を誓い、清廉潔白に生きていくことを宣言した騎士であるシキにとって、それは決して褒められる行為ではないだろう。

 それでも、シキは迷いなく真っ直ぐに前を見つめたまま言った。


「正気か、マクニール」

「トライスター、俺は信仰を棄てるとは言っていない。緊急事態であればフェイグ様の御前を駆け抜けることも許していただけようし、それに」

「それに?」

「命あっての物種だ。生きていなければフェイグ様に忠節を誓うことも出来ん」


 だから、サイラスの為に何かを犠牲にするのではなく、自らの意志で自らの為の行動を選ぶだけだ、とシキが言い切ったとき、後頭部しか見えない彼から強い輝きを感じた。

 人は自己満足の世界の生き物だ。生きている間に様々なことを認知するが全て自分の価値観を通してしか理解出来ない。共感も同情も全て主観の上に成り立っている。本来の意味で感情を共有することなど不可能で、それでも人は別の誰かの感情に沿おうとする。神から見れば無駄な努力なのだろう。無駄にしか見えないその自助努力を尊いと思う、と自覚したときサイラスは自らが他人という存在を貴んでいることを知った。

 人を呪い、人を蔑み、人を恨んで生きていくことも出来る。

 十年前のあの日、サイラスは全てを失った。その不幸を嘆き続けて生きていくことと別離出来たのが奇跡に近いことも知っている。サイラスが悲劇の主人公などではなく、ただのサイラス・ソールズベリ=セイなのだということをファルマード司祭が教えてくれなかったら。あの夜、マグノリア・リンナエウスと出会わなかったら。ソラネンの人柱としての役割を得なかったら。多分、サイラスの人生は多方面的な意味で終わっていただろう。

 だから。

 慈しみを慈しみと、思いやりを美徳と受け入れられるだけの優しさをくれたこの街を守りたい。そんなサイラスの気持ちと同じ方を向いているシキのことも信じたいと思う。


「坊ちゃんもたまにはいいこと言うよなー」

「傭兵。貴様、その上から目線でものを言うのを即刻やめろ」

「そういうことばっか言ってるから坊ちゃんは坊ちゃんなんだよ」


 シキは人を名前で呼ぶことが少ない。

 大体は肩書きで呼んでそれで終わりだ。同じ肩書きを持つものがいれば識別のために名を使うこともあるが、基本的に名を呼ぶということを神聖視しているきらいがある。よそよそしいのではない。シキなりの敬意の払い方なのだろうとサイラスは推測している。

 そのことをウィリアム・ハーディも知っているだろうに「傭兵」という呼称の向こうにあるものを照射しようとした。サイラスにとってみれば、ただの「名前で呼んでくれてもいいじゃないか」というじゃれあいの言葉にしか聞こえないのだが、シキにはその通りに届かなかったらしい。

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