第六話
15 : Believe in you - 01
始まりというのはいつも唐突にやって来る。いつの間にか始まっていて、過去を振り返ったときあの辺りが始まりだったのだろうなと推察することは出来ても、今、この瞬間にそうと知れることは殆どないだろう。
「私とテレジアもそうして時の流れに巻き込まれた、とでも言うのだろうな」
テレジアが――「マグノリア・リンナエウス」があのとき木の枝から降ってこなかったら。サイラスが魔術の実験をしたのがあの場所でなかったら。あの夜、雪が降らなかったら。無数の「もし」を積み重ねても決して現実とは重なり合わない。全ての「もし」を否定して存在するのが今だ。だから。サイラスは今、自分に出来ることを考えていた。
昔話の半分ほどを聞いたウィリアム・ハーディが先程からずっと手布で顔を拭っている。どうやら彼にとってサイラスとテレジアの身の上話は号泣の対象だったらしい。微苦笑して、それではまるでサイラスたちがソラネンの為に自己犠牲を払っていと認識されているみたいだ、だなんて否定して、まぁそれほど違いもないのではないか、と思うと苦笑に回帰した。
「おや? ボウヤのくせにあたしが道連れじゃ不服だって言うのかい?」
「いや。お前はいい旅連れだ。『マグノリア・リンナエウス』」
人の姿をしているテレジアはいわば末端で、本体は「グロリオサ・リンデリ」がいたあの地下道の空間で眠っている。学術都市ソラネンは気候に恵まれたわけでもなく、屈強な騎士ギルドを擁するでもなく、聖騎士団の駐屯地の一つでもない。ハンターたちが好みそうな狩場が近くにあるわけでもなく、輝石が産出されるわけでも、巡礼地でもなく、この街で暮らす殆ど全員が「次の知識」を求めている探求者だ。そんなソラネンの街に安寧を与えていたのが地下道のモンスターとその契約者だということを街に暮らすものは誰も知らない。他の街と同じように外壁に守られ、騎士ギルドがあり、乗合馬車が毎日、毎日行き来する。魔獣たちとシジェド国王との交渉がきちんとなされているのだと信じているだけの住人を守ってきたのは魔獣の契約者が施した魔術的結界であることを誰も知らないのだ。それでいい、とファルマード司祭は言った。褒められたくてやっていることではない。見返りが欲しいわけでもない。ただ、ソラネンの街を愛しているから司祭はこの影の役割を五十年近く担ってきた。その結果、グロリオサと司祭の魔力が限界に達しようとしていた。魔獣たちはその終焉の日を虎視眈々と狙い、司祭の結界が弱ればソラネンの街を蹂躙するつもりだった、と司祭から聞いたときにはサイラスの肝が冷えた。敢えて城壁に穴を開け、結界の一部を綻ばせ、そうしてグロリオサは適当な獲物が罠にかかるのを待っていた。次の守護者たる資質のある魔獣の襲撃を。その罠にかかった獲物というのがテレジアだ。彼女もまた一頭の魔獣――ダラスであり、十年前のあの夜、確かにソラネンを襲撃しようとした。
そんな過去をなかったことに出来るぐらい、サイラスとテレジアの中にはこの街への愛着がある。言うなればサイラスとテレジアは共謀者であり、この街の発展を誰よりも願っているのだから、当然と言えば当然のことだ。
「似たようなことを爺の司祭も言っていたねえ。あんたたちはもう少し女を見る目を養ったらどうだい」
「問題ない。お前は十分いい女だ」
「ボウヤ。言葉は正しく選びな。リアムのボウヤが大混乱しているじゃないのさ」
自虐的に呟かれたテレジアの言葉を一刀両断して否定するのを聞いたリアムが目を白黒させる。サイラスが女性のことを褒めるのを初めて聞いたからだろう。性別という概念がない、とまではリアムも思っていないだろうけれど、サイラスが女性を女性として褒めることは殆どない。恋愛に興味が薄いサイラスにとって性別という概念はそれほど重要ではない、以上の理由はないのだけれどリアムにとっては一大事だったらしい。混乱で顔中を染めてそうして彼は言う。
「いいなぁ、女将は。俺だってセイにそんなこと言われてみたい」
俺が女だったらよかったのかなぁ。そんなことを至極真面目な顔をして呟くものだから談話室の中には微笑みが充満した。
「あんたは十分特別だよ。この責任感の塊みたいな馬鹿なボウヤがあんたには話しても大丈夫だって信じてるんだから、それだけで相当なもんさね」
「そっかぁ。そんなものかなぁ」
得心したとは言い難いけれど、どこか温かみを感じる表情でリアムがぼんやりと返事をする。その複雑な横顔に映っているものが負の感情ではないという確信を持ったサイラスが半ば自虐的にフォローを入れた。
「リアム、私にはお前以外の友人がいないのは知っていると思っていたが?」
「マクニールの坊ちゃんがいるだろ」
「マクニールは私のことを毛嫌いしている。こちらがどう思おうがやつには伝わらんよ」
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