第五話
12 : Little Friend - 01
サイラスがソラネンに来て最初の冬のことだ。シジェド王国において比較的北部に位置するソラネンの冬は凍てるような日が年に一度か二度あるのだということをサイラスは知識の上でだけ知っていた。知っているだけでは何にもならない、ということをこの数か月で何度経験したのか、もう両手の指などではとてもではないが数え切れないほどだ。今夜も情報を経験に置き換えて、極寒の夜がサイラスの指先から感覚を奪う。
寄宿舎に戻らなければならない。そのことは九つのサイラスにも判断が付いた。
サイラスは今、ソラネンの街を取り囲んだ森林の中にいる。日が沈んでから――街と森との別を保つ為に築き上げられた城壁の門が堅く閉ざされてからゆうに四時間は経過している。森の中でちょっとした魔術の実証実験をして、速やかに寄宿舎に戻る。それだけだった筈なのにサイラスの観察眼はそれを見つけてしまった。ソラネンの城壁に空いたサイラスぐらいの子供がどうにか通れるだけの穴と、今にも息絶えてしまいそうな手のひらの上に乗る大きさの蜘蛛の子を。好奇心の塊のような九つのサイラスに、見つけたが無視をしろというのがどれだけ不可能なことなのか、あるいは十年後のサイラスに問うても同じ行動を取る可能性すら濃厚に残す意味深長な展開に、指先の感覚はもう殆ど残っていなかったがサイラスの気持ちは逸っていた。
年に数度の大雪が森中を覆っている。日が昇っていれば美しい銀世界が姿を現わすだろう景色も今ではただの一面の闇だ。王立学院の入学試験の結果がソラネンの街中に流布された結果、魔術師ギルドはサイラスの身を引き受けたいと言ってきたが、学院がそれを断った。そういう回りくどいことをするのなら、なぜ最初にサイラスの素養を公言して回ったのか、大人たちの考えることは未だによくわからない部分が多い。よくわらないのだが、どちらからも好意的に情報を引き出せる状況もそれほど悪くないのではないか。学院の附属図書館で帯出を禁じられた書籍を借りられたり、尖塔の備品を使う権利があったりというのはサイラスにとってもまた利であり齢九つにしてサイラスは相互利益という概念を体得しようとしていた。
貴族の子弟として育ってきたサイラスには一般常識が欠如している部分が多々ある。
例えばどれだけ弱っていても魔力を帯びている生きものに同情してはならない、だとか、ましてやそれを街の中に持ち込んではならない、だとかいうことがサイラスの感情では割り切れない。
だから。
「ファルマード司祭! ご相談があります!」
サイラスは外套の下に蜘蛛の子を隠して城壁の穴から街の中へ戻った。学院の教授たちや尖塔の魔術師たちを頼るのは無理だということは流石にもう理解している。学院は蜘蛛の子を研究対象としようとするだろうし、尖塔は規律を破ったサイラスの魔力を封じる処分を下すだろう。そんな未来を回避する手段が一つだけある。教会だ。シジェド王国において教会は治外法権を得ている。神律を司る司祭が最上の存在であり、唯一の正義だ。教会の中でだけは貴賤も貧富も関係がない。正邪ですら司祭の判断で決まる。司祭が――ファルマード・フィレニアという名の老翁が許してくれさえすれば、サイラスと蜘蛛の子は助かる。許しと善後策を授けてほしくて、サイラスは教会の司祭館の扉を叩いた。もう既に眠りについているかもしれない、という絶望がサイラスを襲う。教会は市街地から少し離れた場所にある。だとしてもあまりにもノックを繰り返すと他の市民に見つかる可能性が全くないわけではない。躊躇いがちにもう三度ノックをした。まだ反応はない。あと五度。それで諦めよう。そんな風に腹を括ったサイラスを知ってか知らずか四度目のノックで扉が開いた。
逆光の中にファルマードの穏やかな表情が見えて、サイラスの不安が少し薄くなる。
「どうしたのだね、サイラス。君らしくもない」
「司祭、罰なら受けます。ですから、これを救ってやってはいただけませんか」
「これ、とは?」
緊張感を伴って、サイラスは告解した。サイラス自身が裁かれるのはある程度覚悟出来ている。それでも、そんなヒトの律でそれ以外の生きものも縛ろうというのは傲慢ではないのか。
そんな、ある種の父神への反抗もファルマードは平然と受け止めてサイラスの主張の先を促した。
「蜘蛛の子です。魔力を少し帯びているのでこの街の条例上、排斥する必要がありますが酷く弱っています。このまま他の魔獣の餌になれ、というのはこれに対して非情が過ぎます。調子が戻る頃には魔力も自然中和されるでしょう。それまでの間、これの面倒を見ることをお許しいただけないでしょうか」
「サイラス。わたしは君に一つ言わねばならん」
「――何でしょうか、司祭」
「そんな大切な相談は捲し立てるように言うものではない」
君と君の見つけた小さな友人についてもっと詳しい話を聞こう。入りなさい。そこは酷く冷えるだろう。
言ってファルマードが半身を開く。サイラスの視界に司祭館の中への道が示された。
ファルマードがサイラスの両肩から雪をはらう。司祭館の中は暖炉のぬくもりがほどよく充満していて、部屋に立ち入ったサイラスの指先が燃えるように熱を持ち始めた。暖かい。ここは暖かい。サイラスの心の中からまた少しだけ不安が薄れた。
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