第三話

06 : Bad Joke - 01

 エレレンという楽器のルーツは大陸の東部を占める農業大国マスハールにまでさかのぼる。農耕に必要な牛馬たちの手入れをした際、副次的に得られた素材を用いて三弦を張ったものを指先で弾いたものがおそらく最古のエレレンであると現代には伝わっている。マスハールに発祥した最古のエレレンは時代と共に姿を変え、奏でられる音曲の種類を増やし、シジェドの建国に先んじて当地にも伝来する。農楽、大衆音楽という色合いも強く残っていたが、とある音楽家によって紡がれた音律のあまりの美しさにシジェド建国後、王室は宮廷音楽にエレレンを用いることを許した。

 現代のエレレンは一弦増え、四弦の楽器として知られる。北国では馬の尾を張った弓で弦を弾くのが一般的だそうだが、シジェドでは今日でも爪弾かれることが殆どだ。

 酒場には不定期的に旅の楽士が訪れては投げ銭を得て次の街へと渡っていく。

 学術都市ソラネンの酒場においては三週間ぶりの楽士の到来に街中が湧いた。

 シジェド国内を旅する楽士で当代随一の肩書きを争うものは三人いる。そのうちの一人が女楽士で名をスティーヴ・リーンという。彼女がソラネンの街を訪うのは今回が初めてで、街中の誰もが彼女の到来を歓迎した。大陸中を旅するスティーヴのことは風の便りでよく耳にする。神曲だろうが、歌謡曲だろうがそれに相応しい雰囲気と音律を奏でられる百年に一人の逸材だと名高い。

 サイラスもその評判を知っている。幼い頃から親しんだシジェドの宮廷音楽は繊細でなのに不思議と柔らかく耳に響く。美しいのに切なさは伴わず、慈しみの感情を人に与える。フェイグ母神とデューリ父神がこの世界を構築した神代をモチーフとした戯曲。シジェド建国の英雄譚。始祖王から続くシジェドの叙事詩を謳わせては右にでるものは存在しないとすら言われれていた。

 その高潔さに相反しながら大衆音楽を奏でることにも秀でている、という。シジェドでは音楽は学問であり、娯楽であった。今宵のように旅の楽士が街の酒場の舞台に上がっては市井で流行する大衆的な音楽を歌うこともしばしばある。

 ただ、サイラスは生まれついての下戸で酒を飲むことが出来ない。だから、スティーヴの演奏を聴くのを断念すべきだと思っていたところにウィリアム・ハーディがやってきた。リアムは二十一にしてめっぽう酒に強い。彼にとっては酒など水と同義なのだろう。そのぐらい、リアムは酒豪だったから、彼がソラネンに訪れると酒場に出向くか、でなければサイラスの寄宿舎の女主人に依頼して酒を取り寄せるかの二択になる。好機だとサイラスは思った。

 シジェドでの成人の定義は有職である、ということに尽きる。

 職を得てさえいれば、酒、煙草、賭博などへの制約がなくなり、一人前と認識される。だから、十五にして研究者になり、十六にして史上最年少のトライスターと称されるサイラスは現在時点で十九だが一人前の大人だ。それに対して、王立学院の学生たちはサイラスより幾つも年上だが、職を得ていないという一点において子供の扱いを受ける。学生たちからすれば、一人前の大人であるのに酒も煙草も賭博も嗜もうとしないサイラスは不思議に映るらしい。大人らしくない年下の教授のことを素直に先生と呼ぶものは少なく、サイラスは概ね学生たちからはトライスターと呼び称された。そんな彼らのことをサイラスもまた不出来な弟のように感じ、不器用に捻くれた人間関係が成立している。

 尖塔と呼ばれる魔術師ギルドの在所での報告が完了した頃にはすっかり日が暮れていた。ハンターギルド、騎士ギルドと協力のうえ調査を行う、という結論に至り二人は尖塔を後にした。市街地に戻り、件の酒場に入るとサイラスの講義を受けている学生の先客がいる。円卓の上を見た。当然のように麦酒が並んでいる。サイラスは風紀や規律など自己解釈の問題だと認識しているから、学生たちが子供にも関わらず飲酒していた、などという些事を学院に報告するつもりがない。というより、親の金で飲む麦酒で心地よく酔えるのであれば、それはどこからどう見ても子供の為せるわざであり、到底大人には程遠く、早晩いずれ自ずと身を滅ぼすのは自明だから何の忠告もしない、というのが最も適切な回答だろう。


「あれ? トライスター? ジューススタンドならもうとっくに閉まりましたよ?」


 学生の一人がそんな軽口を投げてよこす。知っている。酒場の向かいで露店をしているジューススタンドは昼時から夕暮れまでの間しか開いていない。この時間はもう閉まっているのはソラネンの住人にとっては一般常識のようなもので、要するに下戸のくせに酒場に来るのか、という揶揄いだ。

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