第3話 再会
そういえば、と九条は何か思い出したらしく、横にあった鞄を手に取る。
「――あったあった、これこれ」
「何ですかこれ?」
九条は鞄から袋を取り出し、袋の中に手を入れる。肌色のボールらしきものが出てきた。
「これは、おっぱいボールだ!」
九条はボールを掴んで、首を捻って後ろを向いている葉月に見せつける。
「ゴールデンウィークに東京に行ったんだが、なんかお土産を渡そうと思ってな。雑貨屋さんで見つけたから買ってきたんだ」
「なるほど。先輩はぼっちだから、お土産を渡せる接点のある人は私しか居ないんですね」
「別にそれはいいだろう!?」
おっぱいボールを受け取る葉月だったが、貰って嬉しいという表情はそこには無い。冷ややかな目線を九条に向ける。
「で、お土産がこれですか」
「ああ! 乳首までも精巧に再現されており、中にシリコンが入っているので揉み応えは抜群! 本物のおっぱいを揉める気になれるし、それに手の平の握力も鍛えることができるという素晴らしいジョークグッズなんだ!!」
しばらくは黙って説明を聞いていた葉月だったが、九条がおっぱいボールについて熱く語っている途中に、無言でそれを投げた。
おっぱいボールは開けていた窓から外に消える。
「――あっ!」
九条は綺麗な放物線を描いて窓から外に飛び出すおっぱいボールを目で追いかけた。
「マイ・オッパっーーーイイイ!!」
九条は涙を流して鳴いた。
「先輩はあんまりおっぱいが大きくない私に喧嘩を売っているんですか」
「そんなつもりは無かったんです……。ただおっぱいボール愛好会会員として普及活動をしようと思っただけなんです……」
九条はおっぱいボール愛好会の会員だった。
「はぁ……」
「すいません」
葉月は溜め息を吐いた。
「でも先輩、そんな偽物の乳なんか買わなくても本物がここにあるじゃないですか」
「んんッ!?」
葉月は九条の手を掴み、上目遣いで九条を挑発するように言う。
「ほら、すぐ手を伸ばせば届く位置にありますよ?」
「まじか!?」
葉月は小ぶりな胸を張りながら、九条の手を自分の方へ引っ張っていく。顔には妖艶な微笑みを浮かんでいる。
もうあと数cm伸ばせば、その膨らみに触れてしまいそうだ。九条は思わず唾を飲み込む。おっぱいボールをこよなく愛する九条にとって、本物のおっぱいは格が違った。
あ、当たる――と九条が思ったとこで、葉月はもう片方の手も合わせ、両手で九条の手を包み込んだ。そして、その手を遠退ける。
「ふふ、冗談ですよ。もしかして、本当に触れると思いました?」
「だ、だよねっ! やっぱりそうだと思いました! ……ちくしょう!」
九条はまんまと葉月の手に踊らされている。そこには先輩の威厳はなかった。
「あ、でも」
葉月が何かを言おうとするが、ドアが開く音がそれを阻む。
古い木のドアから現れたのは茶髪の軽薄そうな男だった。
「ちわーすっ! おお、ここが部室っすか。廊下とかボロボロだったんで心配したけど、この部屋は綺麗っすね」
「おい、部外者は出ていけ」
九条はその男に命令口調で言った。
「それは無いっすよ部長さん。俺も遊戯部の部員なんすから」
「お前は名義上の部員っていうだけで、今まで来なかっただろうが」
「急にやる気が出たんすよ」
軽い口調で男、茶利鶏鳴(ちゃりけいめい)が言う。茶利は部活の存続のために名義を遊戯部に登録していただけで、一度も遊戯部の活動はしたことがない幽霊部員だ。
「何が目的だ?」
九条は茶利に警戒しながら問う。茶利は所謂イケメンで、常に女子生徒を侍らして行動しているが、性格が最悪だという噂がある。
「それはもちろん、新たなレディがこの部活に入ると聞いたからっすよ」
「葉月のことか」
「イエス!! 今日の昼休みぶりすね、琴葉ちゃん」
「そうですね茶利先輩」
「ノウ、ノウ! 俺のことは鶏鳴と呼んでくれ!」
「それはもっと仲良くなってからお願いします」
「オゥ! そのガードの固さも素晴らしい! 流石プリティレディ!」
葉月は昼休みに何時まで経っても姿を見せない遊戯部の部員を訪ねた。その時に茶利と会ったのだろうと九条は推測する。
九条は携帯電話を取り出し、何処かへ電話を繋げた。
『……もしもし』
『あ、川田先輩。不審者が現れたので直ぐに来てください』
『不審者?』
『茶利です。茶利鶏鳴』
『すぐ行く』
「あの先輩、誰に電話したんですか?」
「茶利の天敵さ」
茶利は急に汗をかいて、そわそわと動き始める。
「じゃ、じゃあ俺、今日はもう帰るので、また明日っす、プリティレディ」
「今から帰っても、もう遅いと思うぞ」
上からダッダッダッと、階段を二段飛ばしで降りてくる音が聞こえてくる。
「川田先輩は二階の部屋に居るんだ」
「えっ、二階って立ち入り禁止じゃ……」
「最強の格闘技は何かッ!?」
「ひぃぃいい!」
空手の道着を着た厳つい男が部室のドアを乱暴に開ける。その男を視界に捉えた茶利は小さく悲鳴を上げた。
「多種ある格闘技がルール無しで戦った時……」
一歩、その男はこの部室に踏み入る。
「スポーツではなく、目突き・金的ありの『喧嘩』で戦った時……」
もう一歩進んで、茶利を逃さないと言わんばかりに強くドアを閉める。
「最強の格闘技は何かッッ!?」
葉月が俺に小声で話しかけてくる。
「あれは何を言ってるんですか?」
「あの人は喧嘩稼●っていう格闘漫画の大ファンで、それに影響を受けて空手を始めた人なんだ。さっきのはその漫画に度々出てくる言葉だよ」
男、川田は一歩ずつ茶利と距離を詰めていく。茶利が川田の間合いに入った瞬間、川田は茶利のボディを殴りに掛かった。
それは、その漫画に出てくる空手の連続技で、受けた相手は逃れる術はなく倒れることも許されない。その名は――
「『煉獄』」
川田は茶利に少しも躊躇せずに技を放っていく。
「……あれは?」
「煉獄っていう、その漫画に出てくる必殺技みたいなものでね、川田先輩は再現できるまで練習したらしい」
一発一発を受けるたびに茶利は声を上げる。
「あ、あん時はグッウッッ! ……ほ、本当にすいまガハッ! ……せんでしたっ! ぐふッ」
「止めなくていいんですか先輩?」
「あれは自業自得だよ。茶利は川田先輩の最愛の彼女を奪ったんだ」
「……そうなんですか」
一分経たずにボロボロになった茶利を見て、川田は攻撃を辞める。茶利の脚を掴んでズルズルと廊下に引っ張り出した。
「迷惑かけたな九条」
「いえいえ。川田先輩もほどほどにしてくださいね」
「フッ。ではまた」
川田はドアを閉めて去っていった。
「最後なんか鼻で笑ったんですけど! え、怖っ! ……茶利死んだな」
「茶利先輩、南無です」
葉月は両手を合わせて南無阿弥陀仏を唱えた。
「ところで先輩」
「ん、何だ?」
「音楽が止まってますよ」
「ほんとだ。何か聴きたい曲ある?」
「私はクラシック音楽のことはあまり知らないんですが、じゃあラフマニノフのピアノ協奏曲で」
「有名なやつだね。第二番?」
「はい」
ピアノの演奏が響き始める。やがて、うっとりするような美しくて切ないメロディが部屋の雰囲気を変えた。
九条は電気ポットに余っていた沸騰した水をもう一回沸かして、葉月に紅茶を作る。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます、先輩」
「どういたしまして」
「……ん。美味しい」
「良かった」
九条はにっこりと笑った。葉月はその笑みに惹きつけられる。
「……先輩」
「ん?」
葉月は唐突に言った。静かに部屋に響く。
「サッカー辞めたんですね」
あまりにも前触れなかったので、九条の思考が一瞬固まった。
「……誰かから聞いた?」
「いえ、聞いてません」
「じゃあ、どうして……?」
「私と先輩が再会してもう二ヶ月も経つのに、まだ気付かないんですか」
「え」
葉月は泣きそうな顔をする。
「それとも、もう覚えてはいませんか?」
九条はその泣きそうな顔に、ある女の子を思い浮かべた。
夏の日に出会った、今にも泣き出しそうな小さな女の子を――。
「……葉月琴葉。……ことはちゃん?」
「そうですよ九条君」
葉月は立ち上がって、九条に駆け寄り抱き着いた。
「お、おい葉月」
葉月は言葉を返さない。
九条は首を捻って葉月を見ると、涙が頬を流れるのが見えた。
「……葉月、少し苦しいかな」
「葉月じゃありません」
「えっと、琴葉、ちゃん?」
「琴葉でいいですよ」
「琴葉、少し腕の力を緩めてくれる?」
「分かりました」
九条も立ち上がって、葉月の背中に手を回した。
くらくらしそうなほど甘い匂いに、心臓が痛いくらい鼓動する音。
「もう忘れられたのかと思いました」
「全然、忘れてないよ」
「じゃあどうして、気付かなかったんですか」
「……もう会えないと思ってたから」
「約束、したじゃないですか。同じ高校に入るって」
「そ、そうだった」
「忘れてたんですか?」
「……ごめん」
「私は忘れずに入りましたよ五毛塚高校」
「ご、ごめんって。首の皮を捻るのはやめて」
「ふん。九条君が悪いんです」
「……その言い方」
「……先輩の方がいいですか」
「いや、昔の呼び方の方がなんかいい」
「私のことも琴葉って、これからは呼んでください」
「ああ、分かったよ琴葉」
抱きしめ合った手は解けない。
お互いの熱が制服を突き破って伝わる。
「それにさ、琴葉がこんなにも可愛くなってるとは思わなかったんだ」
「えっ!」
葉月はビクッと震えて手を解こうとするが、九条は逃さなかった。
「ちょ、ちょっと熱くなってきたんで、離してください」
「ほんとだ。顔が紅くなってる」
「ッ! 先輩のせいです!」
葉月は顔を背けた。
「どうせ、先輩は私の身体の感触を味わってるんでしょ! 先輩のえっち! スケベ!」
「いや、そりゃ少しはそうだけど! って、最初に抱きついてきたのは琴葉じゃん!」
「私じゃありません! 先輩です!」
「ええ! 俺に変わってんの!? というか先輩って……」
「えっちな先輩は先輩で良いんです。もう! 熱いから離してください!」
「分かったから」
ようやく解放した九条は改めて葉月を見た。
ことはちゃんは小さな女の子と思っていた九条だったが、葉月は女子の平均身長くらいはあった。小さいと思っていたのは一つ歳が離れていたからだろう。
大きな目に整った顔立ちの美少女だ。昔はショートだった髪の毛も長くなっている。こんなにも可愛かったんだ、と九条は思った。
お互い紅くなった顔を見て沈黙の続く室内に、チャイムの音が鳴った。
「……もう下校時間だね。そろそろ帰ろっか」
「分かりました」
「一緒に帰らない?」
「良いですよ」
葉月は九条の側に近づく。
そして、笑みを浮かべて言った。
「一緒に帰ると言っても、私の家はまだ入っちゃダメですからね! 今日はそんな準備はしてないので。あ、九条くんの家に行くのは別に良いですけど、えっちなことはまだ早いですよ!」
「いや、何の話だよ――」
葉月が九条に向き合って、背を伸ばす。
葉月の顔が九条に急接近して、お互いの唇が一瞬触れた。
「ッ! 今のってキス」
「先輩。早く来ないと置いてっちゃいますよー!!」
葉月は顔を隠しながら言った。そして、外へ駆けていく。
九条はぼそりと呟いた。
「……初恋の女の子がえっちな後輩になった」
そうして、二人の青春が始まった。
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