第2話 遊戯部

 誰一人生徒の声が聴こえない、静寂の保たれた山の中。そこにぽつんと建てられた寂れた別館の一室に二人は居た。


 退廃的に廃れた屋舎は、そこが学校施設の一部とは到底思えないような有様だ。錆びた手摺りに蜘蛛の巣が張られた廊下、老朽化のため二階への侵入を妨げる金属チェーン、独特の湿った木造建築物の匂い。いつ取り壊されてもおかしくはないように見える。


 山の麓に位置する五毛塚高校には敷地の七割を占める庭園があった。庭園とはいっても小さな噴水と小道が存在するだけで、人工的に整備された花壇とかがあるわけでは無く、その他の場所は天然の森だ。山の一部を五毛塚高校が庭園と呼んでいるのだった。

 

 その庭園のちょうど真ん中に存在する、今はもう使われない別館の一室に、周りの雰囲気とは合わない優雅な音楽が流れている。


「……ねえ先輩、何聴いているんですか?」


 大きな木製の机を挟んで向かい合う生徒の一人が、我慢しきれなくなったと言わんばかりに口を開く。


 彼女、葉月琴葉(はづきことは)は歴代の生徒が使ってきたであろう古びているがまだ壊れそうにない重い木製の椅子に、ちょこんと腰掛けていた。


「シューベルトのピアノ・ソナタ第16番」


 もう一人の外部から持ち込んできたと思われる、座り心地の良さそうな椅子に脱力して腰掛けている男、九条成亮(くじょうしげあき)が返答した。

 淹れたての紅茶をふーふーと息を掛けながら一口飲み、同じ調子で続ける。


「やはり、ピアノの音色が素晴らしいな。心の奥底まで響き渡ってくれる。紅茶との相性も抜群だ」


 いつもとは違う気取った台詞を口にする九条に、葉月は呆れたような目線を向けつつ言った。


「……先輩。どうせにわかの癖に、クラシック通のような雰囲気を出してイキるのは止めてください」

「なっ!?」


 九条が狼狽えたように姿勢を崩す。葉月の罵倒は止まらない。


「クラシック音楽聴いてる俺かっこいい! とか思ってるじゃないんですか。可愛い後輩の前で格好を付けようとするのは分かりますが、ぼっちの先輩が普段はボカロしか聴いてないのに、急にシューベルトを話題に出すのはキモいです」

「……ちょっ、おい! 開口一口目でそんな罵倒することないだろう!?」


 九条は明らかにショックを受けた様子で反論する。


「それにボカロだって最高の音楽なんだから! 人間では歌えない高音のメロディの曲が作れるようになったんだよ!」

「でも実際、既にボカロは全盛期に比べて、ニコニコ動画と共に廃れかけつつあるじゃないですか。それに今までボカロを作っていた人たちがボーカロイドではなく、他の人に歌ってもらうことでヒットしていますよね」

「ぐっ……! 確かに……!」


 超人気アーティストの米津玄師は元々ハチという名義でボカロを盛り上げてきた一人であるし、今話題のヨルシカやYOASOBIも元はボカロPだった人が楽曲を作っている。


「本当は人間でも歌えるのでは?」

「いや! しかし、ボカロの魅力はそれだけでは無くてだな――」


 負けじと応戦しようと、九条は矢継ぎ早に言葉を繰り出す。段々と早口になってきたところで葉月が指摘した。


「――というわけであって」

「先輩」


 葉月がニコッと笑って九条を見る。


「せっかくの紅茶が冷めちゃいますよ?」

「……ああ、そうだな」


 葉月の笑みに毒気を抜かれた九条は、もう熱くないのにも関わらず、ふーふーと息を吹き掛けて慎重に飲む。喋って喉が乾いたのか、そのままの勢いですべてを飲み干した。


「それでそのCDプレーヤーはどうしたんですか?」


 葉月が昨日までは置かれていなかった、高そうなCDプレーヤーを指で指しながら問う。


「祖父が新しい物に買い換えるということで貰ったんだ」

「ふーん、そうなんですか」

「ああ、この部屋を快適に過ごせるようにしないとな」

「ふふっ、まあそれも有ると思いますが。……本当のところは私に見せたかったんですよね」

「はっ!? 何訳のわからんことを……」


 九条がまたしても動揺する。


「可愛い女の子に見せびらかして自慢したいんでしょ」

「なわけあるか! クラシック音楽をここで聴きたかっただけだ!」

「あっ……」

「なに?」

「先輩がクラシック音楽を聴いている理由がやっと分かりました」

「いや、それは元からの趣味で聴いていたからで」

「そういえば最近また再放送でやっていますよね? のだめカンタービレ」

「ぐっ……!」

「昼に再放送しているのだめカンタービレを録画して見たらハマって、クラシック音楽を聴いているんでしょ。先輩」

「い、いや! それもあるはあるけど……」

「のだめでも掛かりますよね、シューベルトのピアノ・ソナタ第16番」

「……ど、どうして、そんなに分かるん……?」

「ふふふ、先輩のことなら全てお見通しです!」


 葉月が悪魔的な魅力を放つ笑みを浮かべる。九条は思わず、彼女から目を逸らした。

 

 至る所で埃の舞う別館で、唯一綺麗なこの部屋のドアに腐りかけの木の看板が打ち付けられている。赤と黒の文字でお洒落に装飾された看板には遊戯部と書かれていた。


「で、先輩。遊戯部のことなんですが」

「あ、うん」 


 九条が姿勢を正して、椅子に座り直す。


「私が入部してからもう二ヶ月が経つんですけど、私と先輩しかこの部室に来ませんよね。先輩の話では先輩の同級生と上級生が遊戯部に所属していて、アットホームな雰囲気で楽しいよ、という話でしたが」

「そ、そうだっけな……」

「それに、女の子もいるから安心だよって言っていましたよね」

「言ったような気も……」

「私はこの二ヶ月、放課後はずっとここに居て、まだ誰も見たことがないんですが。一度も無いんですよ」

「……それは、みんな幽霊部員で、なかなか来てくれなくて……く、来るようには言ってるんだけどね?」

「……先輩」


 葉月は鋭い目付きで九条を見る。疑わしいという様子を見せる葉月に九条の身体が少し震えた。


「もしかして、他に部員は存在してないんじゃないですか?」 

「ギクッ」


 固まる九条に対面しながら、葉月は唇を湿らせる。


「まあ存在してないということは無いですよね。最低でも部員は四名は必要だし」

「そうそう!」

「でも存在してないのと殆ど同じじゃないですか。名義を貸してもらってたなんて」

「な、何のことだか……」

「ふふふ、誤魔化したところで意味ないんですよ。私、顧問の先生にちゃんと確認したんです。部員の名前を教えてもらって、その人のところに聞きに行きました。何故部活に来ないのかと」

「……ごめん! 入部前に言ってたことは嘘でした。 本当にごめん! ……廃部を避けるためには部員を確保しなくてはならなくて!」

「それは先輩の事情であって、私とは関係無いですよね」

「うん……ごめん。……知らなかったら入って無かったよね。……遊戯部を辞めるなら俺から先生に――」

「いいえ、先輩。別に怒ってもいないし、辞める気もありません。ただ――」


 葉月はそこで一旦言葉を切って、椅子から立ち上がる。制服のスカートが一瞬ひらひらと舞って落ちた。


「――最初からそういうことは言ってくれたら良かったのに、とは思いましたけど」

「え?」

「先輩、他に誰もここに人が来ないのなら」


 葉月が恥ずかしげに言う。


「この部室で、えっちなことができますね」


 九条は童貞なので、自分の聞き間違えかと疑った。


「え、えっちなことって……!?」

「ふふ」


 葉月は笑って答えない。

 九条はその仕草に到底普通の高校生では醸し出すことの出来ないはずの大人の女のエロスを感じた。


「怒っていないと言っても、嘘を付くのは悪いことです」

「……反省します」

「ですので、そんな悪い先輩には罰を与えます。私の肩を揉んでください」

「肩? 別にいい、けど……」


 立っていた葉月が九条の方に向かって歩く。


「先輩の椅子に座ります」

「ん? ああ、いいよ」


 葉月の言葉を聞いて椅子から立ち上がろうとした九条は、彼女に制止される。


「その必要はありません」

「え、だってこの椅子に座るんじゃないのか」

「はい。それはそうですが、私は先輩の上から座りたいです」

「上から!?」

「なのでもっと脚を開いてください。この椅子は大きいから二人でも座れますよね?」

「座れるとは思うけど……」

「先輩の上から座ってはダメですか?」

「だ、ダメではないけど……」

「じゃあ座ります」


 葉月が九条の脚を広げた部分に腰を下ろす。小柄な体格の葉月はすっぽりと脚の間に挟まった。葉月と九条の距離は20cmも離れていない。


「では、肩を揉んで下さい」

「う、うん! いや、ちょっと近すぎない!?」


 九条は葉月の甘くて良い匂いを嗅いでしまい、彼女の存在を猛烈に意識し始める。


「そうですかー?」


 焦る九条とは対照的に、九条から見て葉月の方は落ち着いているように感じた。葉月が頬を朱色に染めているのには気付かない。

 九条は少しの間で覚悟を決め、そっと葉月の肩に触れる。


「こ、こんな感じ?」

「はい……良い感じです。……んっ……」

「痛かった!?」

「いえ……気持ちいいので続けてください」

「わ、分かった」


 九条は葉月のことをあまり意識し過ぎないように、肩を揉むことだけに集中する。集中するとは言っても、特別人の肩を揉んだりするような経験は無いので、手探り状態で揉む力の強弱をコントロールしようとした。


「……どう? 痛い?」

「少し……」

「……こんくらい?」

「…………はい……んっ……」


 部屋には音楽と二人の息遣いだけが響く。至近距離で肩を揉んでいる九条は、どうしても無駄な力が掛けてしまう。


「……あの、揉みにくいから、もう少し離れた方がいいと思うけど」

「……じゃあ、もう肩を揉むのは終わりでいいですよ」


 九条は力を抜いて、肩から手を放す。肩を揉むのは終わりなはずだが、葉月はそこから動こうとはしなかった。


「ぼっちの先輩がこんなに可愛い女の子の肩を揉むような機会は、今後はそうそうありません」

「そ、そうかな」

「ええ、そうです。なので逆に感謝して欲しいぐらいです」

「なんで揉んだ方が!?」

「ふふ、これは先輩の罰だからです」


 葉月が笑って振り返る。とても近い距離で二人の目が合った。

 葉月琴葉。入学してからまだ二ヶ月の新入生で、九条の勧誘により遊戯部に入った。大きな目に整った顔立ち、長くて艶のある黒髪と魅力的な笑みで、学年の中でもトップクラスの人気を誇る美少女だ。


 それ比べて九条成彰の容姿は平凡だ。遊戯部の部長であり、クラスメイトとは距離を取っているので、一人ぼっちでいることが多い。それを葉月はぼっちとからかう時がある。

 九条が間近で葉月の顔を見る。綺麗な白い肌が少し火照っていることに気付いた。


「もしかして、熱い?」

「ええ、少し熱いです。多分、血行が良くなったからだと思いますが」


 今日は六月中旬の晴れの日。この別館が森の中にあるということもあり、気温的にはそんなに高くはない。

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