過ぎゆく君の横顔

藤井 狐音

過ぎゆく君の横顔

「じゃ、今回もよろしくね」

松尾は足元にジャージを脱ぎ捨てて、小走りでトラックに向かった。


 ぴぃ、と笛の音が青空に上り、クラスメイトの女子たちがいっせいに走り出す。僕が目で追うのは、色の薄い髪を一つに縛って首筋に揺らす、赤い眼鏡をかけた横顔。この横顔を、三年追ってきた。

 年度はじめの体力テスト、女子の持久走は一キロメートル。トラック一周は二〇〇メートルだから、五周走る。その周回数を数えるのが、走っていない異性陣の役割だ。そのパートナーは出席番号で決まるのだが、僕の相手は偶然にも、高校三年間を通して変わらなかった。

 一周。

 松尾は肉の少ない華奢な身体で、文化部員ながらに鋭くも滑らかな走りをする。こうして走り出すと、運動部のエース格から遅れをとった一番目の集団あたりに属する。これも三年ずっとそうで、名前と顔があやふやな最初の年など、こと目で追うのが大変だった。もちろん今ではあの横顔が網膜と脳に焼き付いて、グラウンドの奥でも見紛うことはない。向こうを走る彼女を見ながら、より大人びた印象を帯びたものだなあと感慨深く思うことさえできた。

 二周。

 藝大に進路を固めたらしい。美術部の長を務める生粋の絵描きとして、松尾は校内でも名の知れた人だった。部の合宿では飽き足らず、自ら一人で旅行に出ては、大自然の中で写生に励んでいるという。彼女の絵などろくに見たことがないのに、そんなことだけは知っていた。意外と体力があるんだね、と彼女と話をしたとき、この生活のおかげかもね、と本人の口から聞いたのだった。

 彼女の生きざまを、素敵なものだと僕は思う。志があって、その道を邁進している人。積み重ねてきた努力があって、今もなお高みへ歩みを進めている人。そんな人生こそ、報われてほしいと僕は祈る。

 三周。

 の中で、乳房が幾対と揺れている。僕は、あれがあまり好きではなかった。痛そうだし、邪魔そうだし、重そうだからだ。

 そういう意味では、きっと女性というのは、世の中のいろいろな場面で乳房を持っている。身体的な問題はもちろんながら、くわえて未だに根深い家父長制の名残り、マンスプやトンポリに晒され、思うように身動きが取れない場面の多々あることは、異性からしても想像に難くない。

 松尾の胸は、気持ち程度に上下に揺れるくらいのものだ。彼女のこれからの人生において、〝乳房〟の重荷がどれほどの枷になるのか、僕は知る由もない。

 四周。

 横顔が通り過ぎてゆく。

 同じ学校に身を置いているこの時間も、彼女は三年をかけて僕の眼前を駆け抜けているようなものだ。その前も、その後も、彼女はどこかで走り続けているけれど、このトラックよりずっと広い世界で、そんな彼女を観測し続けることは、きっとかなわない。

 ……別に、追い続けたいとは思わないけれど。生き続ける人間の一場面に立ち会っていることを思うと、それが何だか、かけがえのないことのように思えてくる。

 ラストスパートが掛かった。踏み込む脚に力が込もって、彼女はぐっと加速する。

 五周目を、掌を掲げて松尾に伝える。松尾はその勢いを最後まで保ったまま、ゴールラインを越えた。


 徐々にペースを緩めながら、松尾はこちらに向かってきた。

「お疲れ」

そう言って、「5」を掲げたままの僕の手を軽くたたく。それから隣に腰を下ろして、水筒を七〇の角度でがぶがぶと飲んだ。

 汗ばんだ手の感触が、あとを引く。ひとつのことが終わったんだなあ、と、空を見上げながら漠然と思った。

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過ぎゆく君の横顔 藤井 狐音 @F-Kitsune

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