第7話

「このリア充め!! 爆ぜろっ!!」

「……だからお前と来るの嫌だったんだよ」

 ただいま、わたしは狼狽しながら二人の青年を交互に見ている。

 ひとりは、わたしがお付き合いしている結城昴さん。肩を落とし、右手で顔を覆い、見事なまでに脱力しきっている。

 昴さんを指差しながらギャイギャイと叫んでいるもうひとりの男性。この人とは初対面だ。

 ……初対面、の、はず。でもわたし、この人のこと、知っているような気がする……。

 胸の中をぐるぐると周回するモヤモヤ。パズルのピースがはまりそうではまらない、あのもどかしい感覚にどこか似ている。

 二人が友人同士であることは容易に想像できるが、なぜこんなことになってしまっているのか……実は、わたしにもよくわからない。

 毎年九月の第四土曜日と日曜日に開催されている、皇条学園高校文化祭。連日外部に向けて公開されており、今年度の入場者数は、延べ二千人にのぼると予想されている。

 二日目の本日も、昨日に引き続いて朝から大盛況だった。

 三学年二十一クラスそれぞれが、喫茶店やお化け屋敷といった、さまざまな催し物を開いている。校舎内は人で溢れ返り、それぞれのクラスの入り口には長蛇の列ができていた。大方が在校生の身内だが、地域の住民や他校の生徒なども、相当数見受けられた。

 そんな中、ゆっくりとお昼の休憩を済ませたわたしは、少しだけクラスの様子を見に行こうと廊下を歩いていた。

 その途中、わざわざ足を運んでくれた昴さんを発見し、彼に近づいたところで、冒頭に戻るというわけなのである。

「いーなー、こんな可愛い子と付き合えて。JKじゃん、JK。羨ましすぎんよ、結城」

「べつに高校生だからって理由で付き合ってないっつの。余計なこと言うな。……ったく。勝手についてきやがって」

「いいじゃん、べつに。どうせお前来るつもりだったんだろ?」

「つもりはつもりだったけど、お前と一緒に来るつもりなんか一ミクロンたりともなかったよ」

「ひっで!」

「お前の目当ては星だろ? 動機が不純なんだよ」

「だって気になるじゃん。お前がどんな子と付き合ってるのかさー」

 口を尖らせながら、肩をつんつんとつつく友人の指を、昴さんは鬱陶しそうに手で払い除けていた。

 どうしよう……何言えばいいのかな。

「ほら、お前のせいで固まっちまっただろ。……ごめんな、変なモン見せちゃって。用事あったんだろ? 俺たちのことは気にしなくていいから、そっち行って」

「変なモンって、お前……。 オレ、一条いちじょうれん。結城と同じ法学部の四年で、天文サークルに所属してんだ。よろしく!」

 そう言って、彼——一条さんは、わたしに自己紹介をしてくれた。

 吊り目に、口角の上がった猫のような口。癖毛をアレンジした黒髪に、前髪にはひと筋赤くメッシュが入っている。昴さんよりも若干低いものの、並んでいるのを見るかぎり、身長は百八十センチを余裕で超えていそうだ。

 彼のこの人懐こい笑顔に感化され、わたしも挨拶をすることができた。

「天宮星です。よろしくお願いします」

「いいよ、そんな丁寧に頭下げなくても」

「何っ!? せっかく星ちゃんがオレに言ってくれてるのに!!」

「うるさい。だいたい馴れ馴れしすぎんだよ、お前は」

 吊り目をさらに吊り上げてプンスカしている一条さんを、目も合わせずに冷たくあしらう昴さん。彼が、同世代の人とこんなふうにやり取りしているところを見るのは初めてなので、なんだか新鮮だ。

 それと同時に、わたしの中で、何かがストンとはまった。

 ……ああ、この人だ。教育実習中の昴さんに電話かけてきた人。きっとそう。だって、あのときの昴さんのスマホとおんなじ動きしてるもの。あらぶってるもの。

 ……などと妙に納得していると、

「あれ? 結城先生じゃないですか~」

「わっ!」

 ちょうどこの場を通りかかった結花に、突然背後から思い切り抱きつかれてしまった。思わず前につんのめったが、なんとか踏みとどまる。

「おっ、青野。久しぶりだな」

「お久しぶりです。……そちらは? 先生のお友達ですか?」

「非常に不本意だけどな」

「か、可愛いっ……!! あとで連絡先教え——てっ!!」

「お前いい加減にしないとマジで殴るからな」

「もう殴ってんじゃねーかっ!!」

 昴さんにはたかれた頭を両手で押さえ、一条さんは若干涙目になっていた。

 不謹慎と承知で、心の中で「ナイスサウンド」と感嘆する。

「先生、今来たんですか?」

 大学生二人のやり取りをケラケラと笑い、わたしからぺりっと剥がれると、結花は昴さんにこう問いかけた。

「ああ。十分くらい前にな」

「あ〜……残念だね、星。結城先生に聞かせらんなくて。すっごいカッコいいステージだったのに」

「え? あ、うん」

 結花が言っているのは、わたしが所属する吹奏楽部の定期演奏会のことだ。毎年、一日目の午後と、二日目の午後に、体育館で開催している。

 七月に行われた都内の吹奏楽コンクールで、残念ながら金賞には届かなかったものの、それに次ぐ銀賞を受賞したわたしたち。そのおかげもあってか、今年は例年に比べ、外部からのオーディエンスも多かった。

「聞いてはいたんだけどな。どうしても来られなくて」

「こいつのトコのゼミの先生、超熱心でさ。今の時期に合宿なんて入れちゃって……昨日丸一日と、今日半日潰れちゃったんだよね」

 教育実習でお世話になったからと、文化祭に顔を出すために日程の調整を試みてくれた昴さん。結局、都合で両日とも演奏会に出席することはできなかった。一条さんの言うとおり、ゼミ合宿なるものがこの土日は予定として入っていたらしい。

 昴さんは、基本的に〝焦る〟とか〟騒ぐ〟といった行動とは無縁の人なので、はたから見ているだけではわかりづらいが、きっと時間に追われているはずだ。

 だから、こうして時間を見つけて来てくれただけで、十分ありがたい。

「でも、集まりっていう集まりはこれで終わったから。あとはもう卒論書き上げたらいいだけだ」

 十月に入ったら、いよいよ大学生活最後の半期が始まる。あとは、卒業論文さえ仕上げれば、卒業するのに必要な単位の目途が立つそうだ。

「で、星は何か用事があったんじゃないのか? だいぶ足止めしちゃったけど」

「ううん。クラスの様子見に行こうと思ってただけだから」

「あっ、先生たち時間大丈夫なんだったらウチのクラス来てくださいよ~。すっごく楽しいですよ! ねっ、星!」

 ここで、結花が、昴さんと一条さんをわたしたちのクラスへ勧誘した。結花の言葉に同意して、こくりとひとつ頷く。

「へー、何やってるんだ?」

 わたしと結花の自信ありげな態度に、昴さんが興味を示した。彼の目を真っ直ぐに見つめて、この問いに答える。

「プラネタリウム。クラスみんなで作ったんだよ」

「え……」

 わたしたちのクラスの催し物は、手作りのプラネタリウムによる星空上映会。

 一学期のすえ、文化祭を議題にしたホームルームの中で、ものの五分で即決した。

「前に、プラネタリウム作ったって話してくれたことあったでしょ? あの話、みんな覚えてて」

 以前、彼の授業中に、なぜか自作のプラネタリウムの話になったことがあった。

 サークル活動の一環で、軽い気持ちから制作をスタートさせたものの、あまりのハードワークに部員全員が音を上げそうになったとのこと。けれど、それを成し遂げたときの感動は、今でも忘れることができないのだと、そう教えてくれた。

 世界史からは脱線した、まったく関係のない内容だったが、クラスじゅうが彼のこの話の虜となった。

「昴さんの影響だよ」

 プラネタリウムは、夏休み中から制作に取りかかり、先週ようやく完成したばかり。

 彼の実体験を聞いて、一筋縄ではいかないということはわかっていたが、その想像をはるかに超えるほどに作業は難航を極めた。

「でき上がったときのあの感動はひとしおでしたよ、先生!」

 途中、何度か心折れそうになったこともあったけど、わたしたちは諦めなかった……諦めたくなかった。

 昴さんが味わったのと同じ感動を、わたしたちも味わってみたいと思ったから。

「そう、か……ありがとな」

 協力することの意義、諦めない意思、そして星空への憧憬——彼の伝えたかったことは、わたしたちにちゃんと伝わっている。

「……お前、立派に先生やってたんじゃん」

「なんだよ、急に」

「いんや。……んじゃあ、二人のクラスに行こーぜ!」

「あっ、おい。お前教室知らないだろ」

 奇跡的に方向があっている一条さんを、まるで保護者のように昴さんは追いかけていった。その後ろを、わたしと結花もついていく。

 ……気のせいだろうか? 一条さんの表情が、一瞬穏やかに見えたのは。

 道中、昴さんの存在に気がついた生徒たちが彼を取り巻く場面が何度かあり、彼が生徒——とくに女子生徒——から黄色い声を浴びせられるたびに、一条さんはブーブーと文句を言っていた。

 通常の三倍の時間をかけてやっとのことで教室に辿りつくと、その前で、二学期の学級委員である城田しろた繭子まゆこちゃんに会った。

「あっ、結城先生だ!」

 黒髪のポニーテールに、赤い縁のおしゃれな眼鏡がトレードマークの繭ちゃん。話し方はフランクだが、とてもしっかり者だ。どうやら、現在の接客担当は彼女らしい。

「元気そうだな、城田」

「えへへっ、おかげさまで。……そっちの人、先生の友達?」

「……まあな」

「毎度毎度嫌そうに言うんじゃねーよ!」

 昴さんと一条さんのこのやり取りには、繭ちゃんも声を出して笑っていた。

「ちょうど良かった。今、人途切れちゃったとこなんですよ。よかったら、中にどうぞ」

「いいのか?」

「もちろん。先生来てくれるって思わなかったけど、来てくれたんなら絶対見てもらいたいもん。天宮ちゃんと青野っちも一緒に入んなよ」

 繭ちゃんにこう促され、暗くなった教室の中央に設置した段ボール製のドームの中へと入っていく。

「わっ! すげーな、このピンホール式プラネタリウム!」

 その中心に置いてある投影機を見た一条さんが、飛びつくようにして興奮していた。

「これ、作ったのか?」

 昴さんも、わたしたちのこの傑作に感心してくれている様子だった。

「先生が言ってたみたいに頑張りましたよ!」

「星座の位置とか正確にプロットするのも大変だったけど、それをもとに細かく穴開けていくのが苦労したよね」

 仕組み自体は単純明快で、投影機の中に電球を置き、その光を投影機の表面に開けた小さな穴に内側から通して、ドームに反映させているだけなのだ。

 しかし、これを完成させるまでに一ヶ月あまりかかってしまった。いいものを作ろうと思えば思うほど、進度は遅れた。

「それじゃあ、点けますよー」

 ドームの縁に沿って並べられた椅子にわたしたちが座ったのを確認すると、繭ちゃんは投影機のスイッチをオンにした。

 頭上に映し出される夏の星空。何度も見たけど、何度見てもけっして飽きることはない。

「うおーっ、すっげー!」

 わたしたちがこのクラスで〝先生〟と過ごした証。

「……綺麗だな」

 それを、こうして形にすることができたから。


 ❈


 来場者も少なくなり、しだいに閑散とする校舎内。そろそろ片づけに取りかかる時間だ。

 結花は、美術部の展示ブースを撤収するとのことで、さきほどそちらへ行ってしまった。それが終わりしだい、クラスのほうに合流するらしい。

「まあ、予想はしてたけど……にしても、あいつの周りは人が絶えねーな」

「結局、この辺から動けませんでしたね」

 廊下の壁に凭れ、隣のクラスの子がくれた売れ残りのトロピカルジュースを飲みながら、わたしと一条さんは一点を見つめていた。視線の先には、あいかわらず人気者の昴さん。いつの間にやら、百合ちゃん先生まで来ている。

 プラネタリウムの上映が終わり、教室の外へ出ると、昴さんを出待ちしていた子たちに囲まれてしまった。それから一時間少々、ようやく落ち着いてはきたものの、まだあんな感じだ。

「星ちゃんさ、あいつがあんなふうに女の子たちに囲まれるの、嫌じゃないの?」

 急に一条さんにこんなことを聞かれてしまった。キョトンとして、彼のほうを見上げる。

「今日、何回もあんな場面あったのに、星ちゃん顔色ひとつ変えなかったじゃん? 妬いたりとかしないの?」

 あ、そういうことか。

 一条さんの質問の意図がわかったわたしは、再度昴さんのほうに目を向けながら、今の自分の率直な気持ちを話した。

「……妬いてないって言ったら、嘘になりますけど。彼、本当に素敵な人だから、人が集まるのもモテるのも無理ないし……彼と話して、それで元気がもらえたり勇気づけられたりする人がいるのも事実だし。だから、全然嫌ではないです」

 彼への独占欲がないわけではない。だけど、その気持ちと、彼の魅力に触れてもらいたいという気持ちを天秤にかけると、後者のほうが圧倒的に重い。

「それに、彼を信じてるから」

 わたしは、どんなことがあっても昴さんを信じている。いろいろ思うことはあるけれど、きっとこれに尽きるだろう。

「なるほど。どうりで結城が星ちゃんにご執心なわけだ」

「えっ? いや、そんな……」

 これには、思わずふるふるとかぶりを振ってしまった。確かに良くしてくれてはいるけど、その表現はちょっとオーバーな気がする。

「だけど、ほんと良かったよ。あいつがこの学校で実習できて、星ちゃんみたいな子と一緒になれて」

 このとき、一条さんがわたしに見せてくれたのは、ここに来る直前の、あの穏やかな表情だった。

「法学部で教免取るなんて、イレギュラーもイレギュラーだからさ。単位も人より多く取んなきゃなんないし。かと言って、専門疎かにするわけにもいかないし。それでも、あいつはやり遂げたから……ほんと、オレも尊敬してんだよね」

 先日、昴さんは、都内のある私立高校から採用の内定をもらった。

 そこは、普通科一本のハイレベルな進学校で、教師に要求されることももちろん多いのだが、彼は見事に合格した(……ちなみに、皇条高校を受けなかった理由を尋ねると、即答で「さすがに同じ学校はマズいからな」と返ってきた)。

 彼のことを、いつもそばで見ているからこその一条さんのこの評価。

 大学での昴さんを、わたしは知らない。彼が忙しくしていることは理解できる。でも、具体的に教えてもらえたことで、彼のその実行力とバイタリティを、改めて実感することができた。

「あいつ、二年のとき大学サボってたって話聞いた?」

「あ、はい。でも、水無瀬教授のおかげで、教師目指すことに決めたって」

 この話は、実習期間中に彼から直接聞いていたので、迷うことなく頷いた。

「……事故のことは、聞いた?」

「事故?」

 しかし、こちらの話はまったくと言っていいほど見当もつかなかったので、首を傾げてしまった。一条さんの声音は、明らかに翳っている。

 そして、次に彼から告げられた事実に、わたしは一瞬息をすることができなかった。

「実は……水無瀬教授、亡くなってんだよね。今年の三月に」

「…………え?」

 今、なんて……?

「春休みに入ってすぐ、学会で海外に行ってて、そこで乗ってたバスが事故に遭ってさ……」

 嘘……だって彼はそんなこと一言も……。

「サークルのメンバー全員で告別式に参列したんだけど……そんときの結城は、マジで見てらんなかった」

 一条さんの話によると、学会の会場から滞在先のホテルへと戻る際、教授の乗っていたバスが、対向車線からはみ出してきたトラックと正面衝突したらしい。事故の規模は、かなり大きなものだったそうだ。

「オレ、実家が北海道だからさ。告別式のあとすぐ帰省してたんだけど、そのあいだ、あいつのことずっと気にかかってて……。連絡取っても、口では大丈夫だって言ってたけど、やっぱ顔見ないと心配でさ……」

 帰省中、昴さんに毎日連絡を入れていたという一条さん。普段通りに振る舞っていたという昴さんだが、無理をしていることは明白だったらしい。

 これらの話を集約すると、水無瀬教授が亡くなったのは、わたしがあの公園で昴さんと雪に出会う一週間ほど前のことだ。

 あのとき、雨に打たれながら雪を撫でていた彼は、いったいどんな気持ちだったのだろう。それを考えただけで、胸の抉られる思いがした。

 何を言えばいいのか。どう反応すればいいのか。

 正解を見つけられず、項垂れていると、一条さんはこう言葉を続けた。

「でも、こっち帰って会ってみたら、完全にとは言わないけど、浮上しててビックリした。そんときすでに、星ちゃんに出会ってたんだな」

 項垂れた頭を持ち上げる。

 彼は、まるで高く澄んだ星空のように、凛とした目をしていた。

「ネコの話も聞いたよ。写真も見せてもらった」

 わたしがあげた雪の写真を、昴さんは一条さんにも見せていたらしい。雪のことを話す昴さんは、それはそれはデレデレだったそうで、「あいつには間違いなく親バカの素質がある」と、一条さんは笑っていた。

「星ちゃん。結城のこと、頼むね」

 曇りのない彼の顔を見据え、ゆっくりと首を縦に振る。

 水無瀬教授の死をいまだ受け止めきれていない今のわたしには、これが精一杯だったけれど、彼がわたしに託してくれた想いは十分に伝わった。

 それからすぐに、わたしたちのもとへ昴さんが戻ってきた。女子に囲まれていたことをニヤニヤしながら茶化す一条さんに、彼は冷ややかな視線を浴びせていた。

 時間も時間だったので、わたしは片づけをするため、二人と別れて教室の中へ。

 わたしが下校できるようになるまで、昴さんは一条さんと外で待っていてくれるとのことなので、この日は一緒に帰ることに。

 文化祭の片づけは、準備段階とはうってかわり、虚しいくらいあっという間に終わった。

 ドームは解体せざるを得なかったが、投影機はクラスで大切に保管しておこうという話にまとまった。

 片づけを開始してから、およそ一時間。

 無事にすべての行程を終え、解散となったわたしは、昴さんたちが待っている場所へと駆け足で向かった。

「お待たせしました!」

 学校近くの小さな交差点。歩道に設置された街路用の防護柵に、二人は腰を下ろすように寄りかかっていた。

「急がなくていいよ。お疲れ」

 柵から腰を持ち上げた昴さんは、息を切らしたわたしを優しくねぎらってくれた。体を動かすのは嫌いではないが、文化部ゆえのスタミナ不足が身に沁みる。

 続いて一条さんも立ち上がり、両手を天に突き出して、背伸びをしながらこう言った。

「ほんじゃあ、オレはぼちぼちバイト行くわ」

「ああ、またな」

「おう! じゃあね、星ちゃん。今日はありがと」

「こちらこそ、本当にありがとうございました」

「すっごい楽しかったよ。またね」

「はい」

 あの人懐こい笑顔でブンブンと手を振って、一条さんはわたしたちとは反対方向へと歩いて行った。昴さん曰く、彼は居酒屋でバイトをしているとのことで、シフトが入っている日の帰宅はいつも深夜になるのだそうだ。

 つくづく思う。大学生は大変だ。

 いつもの帰り道を、いつものように並んで帰る。

 そして、いつものようにわたしに歩幅を合わせ、昴さんはゆっくりと歩いてくれていた。

 けれど、考え事をしてしまっているために足もとのおぼつかないわたしは、そのペースにすらついていけなかった。

「星……?」

 すぐに離れてしまった彼との距離。

 そんなわたしの様子を不思議に思ったのだろう。彼は立ち止まり、わたしのほうを振り返った。

「えっ!! ちょっ……どうした!?」

 目を見開き、狼狽えながら、慌ててわたしのところまで戻ってきてくれた彼。

 それというのも……

「水無瀬教授のこと、聞いた……」

「え……?」

 わたしが、泣いてしまっていたせいだ。

「一条さんが、教えてくれ、た……」

「……あのお喋り」

 昴さんは言っていた。水無瀬教授は、自分の恩師なのだと。今の自分があるのは、教授のおかげなのだと。それなのに、それほどまでに慕っていた人を失って、つらくないわけがない。

 大切な人を亡くす悲しみは、痛いほど知っている。それを悼むのに、血縁なんかはきっと関係ない。

 頭に思っていたことを口にしたことで、水無瀬教授の死というものを現実のものとして認識したわたしは、まるでダムが決壊するように咽び泣いてしまった。

 彼を困らせたくはない。困らせたくはないのに、自分の意思に反して、涙が溢れてくる。

「……黙ってたわけじゃないんだ。なんとなく、言うタイミングがなかっただけで」

 そんなわたしを落ち着かせようと、彼は右手をそっとわたしの頭に当てると、そのまま自分の胸の中にポスンとうずめた。同時に、左手はわたしの背中へと回し、優しく上下に撫でてくれている。

「教授が亡くなったことは、今でもつらいよ。この気持ちはきっと、一生消えることはないと思う。……でもあの雨の日、星に出会って、一目惚れして、俺ほんとに救われたんだ」

 昴さんの穏やかな声が、頭の上から降り注ぐ。

「あのときは、〝死〟に対して過敏になってたから、雪を連れて帰るって星が言ってくれて、心の底から安心した。星にも雪にも、もう二度と会えないかもしれないけど、そのときはそれでもいいって思えたんだ。つかの間でも、出会えたことを大切にしていこうって……。なのに、まさか実習先で再会できるなんて、想像すらしてなかった」

 静かな熱とともに、彼はこう語ってくれた。

 初めて耳にする彼の心情に、大きな喜びと、ほんの少しの戸惑いが、わたしの中で交錯する。

「ありがとう、星。教師になることを躊躇ってた俺の背中を押してくれて。教授が亡くなって虚無感に苛まれてた俺は、もしかしたらまた逃げてたかもしれない。……これで、水無瀬教授にちゃんと顔向けできるよ」

「……っ——」

 わたしがこの人のためにしてあげられることなんて、たかが知れている。与えられるものなんか、たいして何もない。そう思っていた。救われたのは、感謝しなければならないのは、わたしのほうだって。

 そう、思っていたのに——。

「あーもー、ほら泣くなって。俺は大丈夫だから」

 肩を震わせ、胸元にしがみついたわたしを、彼は両腕で力強く抱き締めてくれた。

「……ほんと、に?」

「ほんとだよ。お前がいてくれるから平気」

 自分の頭に、彼の口元が触れているのを感じる。

 彼に包まれ、温もりと鼓動を感じながら、わたしはしばらくのあいだ、彼に自分の身体を預けていた。沸々と湧き上がってくる愛おしいという想いで、胸がいっぱいだ。

 ようやく涙が止まり、彼と顔を見合わせて笑みを交わすと、わたしたちは手を繋いで再び帰途についた。

 昴さんは、わたしを家まで送り届けると、いつもそのまま帰ってしまう。してもらってばかりで申し訳ないと思いつつも、今までは何も言い出せなかった。

 付き合い始めて約三ヶ月。今日こそはと、勇気を出して彼に申し出た。

「あの……上がって、お茶でも……」

 本当はご飯でも食べていってもらいたいくらいなのだが、それだと気を遣わせてしまうかもしれないと思い、こちらを提案した。

「……ありがとう。でも、遠慮するよ」

 が、丁重に断られてしまった。

「どうして……?」

 もしかして、何か癇に障ることでもあったのだろうか。

 おそるおそる彼に問いかけると、彼からの返答は、わたしのまったく予期しないものだった。

「女の子の、それもひとり暮らししてる子の家には、上がれない」

「え……?」

「星はまだ高校生だから……あっ、誤解するなよ? それを責めてるわけじゃないからな。でもやっぱり、こういうとこちゃんとしないと。星の伯父さんにも心配かけられないし」

 高校生だと伯父さんに心配かける……?

 そういうものなのだろうかと首をひねったが、彼がそう言うのなら仕方がないのかもしれないと、一応納得する。

「じゃあ、いつになったらいいの?」

 いつになったら、お茶飲んでくれますか?

「うーん……星が高校卒業したら、かな?」

「そんなに……」

 お茶飲むだけで、そんなに待たなきゃいけませんか……。

「大事にしたいんだ。星との関係」

 大人っぽい彼の表情を見るかぎり、おそらく彼とわたしの思うところは、どこか噛み合っていない部分があるのだろう。それが何かは不明だったが、この件に関して、これ以上わたしは何も聞かなかった。

 彼がわたしのことを一番に考え、出した最上の答えが、きっとこれなのだ。

「わかった」

 それに、わたしが高校を卒業しても一緒にいると言ってくれた、彼のその気持ちに誠実に向き合いたい……そう思った。

「じゃあ、またな」

「うん。もう夏休み終わっちゃうけど、大学頑張ってね」

「ありがとう。また連絡する」

「うん、待ってる」

 別れ際、そっと口づけを交わして、わたしたちはお互いに手を振った。

 大学が始まれば、また会える時間は減ってしまうけれど、今自分にできることを見つけて精一杯やろう。そう心に誓い、わたしは彼の背中を見送った。

 この日ともに過ごせた貴重なひとときを胸に滲ませる。……だが、その余韻に浸っていられたのも、ほんの一瞬だった。

 家に入る前。

 門柱に備えつけてある埋め込み式のポストを何気なく確認したその瞬間、自分の中で抑え込んでいたはずの、あの夜の記憶が蘇ってきた。

 入っていたのは、一通のエアメール。

 差出人は、もちろん——


 Eleanor Angela Wilson(エレノア・アンジェラ・ウィルソン)


 ——母だ。

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