第5話

 好きな人とお互いに両想いだと知った昨日。

 念願叶って実に幸せ……なのだが、今朝のわたしはというと、ふとした拍子にあの情景が脳内再生され、さんざんな始末だった。

 部屋のドアを開け損ねてゴンッと頭を打ちつけたり、歯磨き粉と洗顔料を間違えたり、料理をこんがり焦がしたり。

 ちなみに朝食は、トーストとサラダ、フルーツジュースに、焦げた目玉焼きだ。

 いい加減このままではいけないと、自身の頬を両手でパンッと叩き、気持ちの入れ替えを試みた。しかし、叩いた頬の痛みで現実を再認識し、また浮かれそうになるのをどうにかこらえる。

 わたしはいったい何をしてるんだ……。

 自分で自分に辟易しながら、朝食の片づけをして、身支度を済ませる。そして、朝の日課となっている父への挨拶をするため、仏間へと向かった。

 八畳の和室。かすかに漂っているのは白檀の香りだ。部屋のすみにある仏壇の前に正座すると、りんを鳴らし、手を合わせた。

 昨夜、久々に夢の中で父と会った。

 何か伝えたかったことでもあったのだろうか。そんなことを考えながら、父の遺影を見つめる。そこに映った父の笑顔を見ていると、おのずと笑みがこぼれた。

「よし!」

 今度こそ気持ちを切り替え、いざ学校へ。

 玄関の壁にかけてある鏡に自分の姿を映しながら、胸元のブルーのリボンを整え、軽く髪を撫でる。これも、登校前に欠かすことのない日課だ。

「じゃあね、雪。行ってきます!」

「ニャー!」

 いつも通り見送りにきてくれた雪に手を振って、わたしは扉を開けた。


 ついにこの日がやってきた。

 とうとう、一ヶ月に及んだ結城先生の教育実習期間が終わりを迎える。

 先生を拝める最終日だというだけあって、その周りには普段以上に人が集まっていた。今日に限っては、先生に休み時間なんてなかったように思う。

 先生を取り囲んだ生徒たちは、口を揃えて「まだいてほしい」と伝えていた。

 その輪の中にわたしが入っていくことはもちろんなかったけれど、同じく先生を慕う者として、名残惜しく思うみんなの気持ちは十分に理解できる。

 生徒の心を惹きつけてやまない、あの世界史の授業を、もっともっと受けていたかった。

 そして、一日の終わり。

 いよいよ、最後のホームルームの時間が訪れた。

「えー、今日で結城先生の教育実習期間はおしまいだ。先生はよく働いてくれるから、私の負担が半減して助かっていたんだが、非常に残念だ」

 結城先生が来てからは、先生の担当となっていたホームルームだが、今日は担任の百合ちゃん先生が、これを一月ぶりに仕切っていた。結城先生のお別れ会を兼ねたホームルームにするつもりなのだろう。

「ほとんど荷物運びでしたけどね」

「まあそう言うな。私も残念だが、もっと残念なのは生徒のほうだろうな。なんせ結城先生の人気は異常だったからな。……ささやかではあるが、私たちからの餞別だ。 天宮。クラスを代表して、例のものを先生に渡してくれ」

 百合ちゃん先生の言う〝例のもの〟とは、結城先生をイメージしてコーディネートしてもらった大きな花束と、一緒に映ったクラス写真を真ん中に載せ、全員がコメントを書いた色紙だ。この日のために、結城先生には内緒で準備を進めていた。

 わたしは席を立ち、その二つを持って、先生のもとへ。

「結城先生、一ヶ月間ありがとうございました。これ、クラスのみんなからです」

 昨日のことがあるから少し恥ずかしいけれど、わたし自身の、いや、クラス全員の精一杯の感謝の気持ちを込めて、先生に手渡した。

「……ありがとう。大切にするよ」

 先生は、わたしの手からそれらを受け取ると、目を細めてとても嬉しそうな顔をしていた。

 当初は長いと思っていた一ヶ月。だけど、振り返ってみれば本当にあっという間だった。

 一ヶ月前、結花との会話の中で、「どうでもいい」などと言った自分にほとほと呆れる。できることなら、一発しばいてやりたい。

 先生と過ごせたおかげで、わたしは、こんなにも救われたのだから。

「結城先生、最後にこいつらに何か話してやってくれないか?」

 ホームルームも佳境を迎え、刻一刻と別れの時間が近づいてくる。

「そう、ですね。……じゃあ、少しだけ」

 教卓の上に色紙と花束をそっと置くと、結城先生は、静かに教壇へと上がった。

 その姿は、まさに教師のそれだった。

「昨日の質問にも答える約束だったしな」

「……質問?」

 不思議そうに疑問符を飛ばした百合ちゃん先生とは対照的に、生徒たちは、みな一様に結城先生の顔を真剣に見つめていた。

 昨日の夜、先生はわたしに話してくれた。教師を目指すことに決めた、と。

 ということは、質問を受けた時点では、まだそのことを決心していなかったということになる。

 先生は、まず質問をした当の男子生徒に柔らかく微笑みかけると、ゆっくり視線を全体へと移し、飾ることなく、その思いの丈を語ってくれた。

「教育実習生として来た初日に、神崎先生からも紹介がありましたが、僕はボランティアとして海外のいろいろな土地へ足を運び、そこでたくさんの人たちに出会いました。言葉も文化も、何もかもが自分たちとは違っていて……頭では理解していたけれど、実際に触れてみると本当に新鮮で……。当時、単調な大学生活に飽き飽きしていた僕は、大学を中退して、海外で生活を送ろうかと考えたこともありました。……だけどそんなとき、ひとりの教授に出会ったんです。教授は、現実から逃げてばかりだった僕に、学ぶことや人と接するということの本当の大切さを、教えてくれました」

 おそらく〝教授〟とは、以前話してくれた水無瀬教授のことだ。

 ひとつひとつ丁寧に紡がれる先生の言葉を、その場にいる全員が聞き澄ます。

「教授のおかげで、僕は自分の考えの幼稚さに気づきました。そして目標を持つことができた。教師になろうという。……だけど、正直迷っていました。教師になりたいと願う心のどこかで、自分にそれを決断する自信が持てなかったんだと思う」

 初めて語られる先生の胸中。それは、いつも明るい先生からは想像もできないほどの、苦悩と葛藤だった。

 このとき、わたしは、ちらりと百合ちゃん先生の様子をうかがってみた。すると、百合ちゃん先生もまた、結城先生をまっすぐに見据え、その話に耳を向けていた。

「けど、今回この教育実習を通してみんなに出会い、僕は教師になることに決めました。ひとりの人間として、何かを残すことができたら、伝えることができたらいいな、と。そして、生徒とともに、自分も成長していけたらいいな、と……そう思います。一ヶ月という短い期間でしたけど、この学校で、このクラスで、みんなとともに生活することができて本当に良かったです。本当に、ありがとうございました」

 言い終わり、ゆっくりと一礼してくれた結城先生に向けて、わたしたちは心の底から大きな拍手を贈っていた。それも、自然と。

 きっと、クラスじゅうの誰もが、先生のこの話に感動しているはずだ。周りを見渡してみると、涙を流しながら拍手をしている子もいた。

 やっぱり、先生は教師になるべき人なのだ。

「……今日の結城先生のこの話、お前らよーく覚えとけよ」

 ここで、今まで黙っていた百合ちゃん先生が、静かにその口を開いた。いつにもまして、鋭い表情をしている。

「お前らも、これから成長していく過程で、悩み、でかい壁にぶち当たるときが必ず来るだろう。そんなときは、先生のこの話を思い出せ。先生が大学で恩師と呼べる人に出会ったように、お前らにも、いつかそういう人に出会えるときが来る。支えてくれる人ってのは、必ずどこかにいるもんだ。……しっかしお前らついてるな。今のこの若い時期に、こんな貴重な話、なかなか聞けないぞ」

 最後は、いつものようにニヤリと笑って、こう話してくれた。

 結城先生は、初めてのホームルームのとき同様「評価しすぎだ」とこれに抗議していたが、けっしてそんなことはないと思う。

「結城先生には、ぜひ頑張ってほしい。一緒に仕事ができる日が来ること、楽しみにしているよ」

「ありがとうございます」

 わたしたちは、きっと忘れない。

 先生からもらった心揺さぶられるほどの感動と、ともに過ごしたこの一ヶ月を。


 ❈


「ちょっと!! どういうことなんですか、結城先生!!」

「お……落ち着け、青野」

「落ち着いてなんからんないですよ!! いつの間にそんなことになっちゃってたんですかっ!?」

 テーブルをバンッと叩き、体を前のめりにすると、眉をハの字にしながら、結花は結城先生を問い詰めた。

 事の始まりは、十五分ほど前に遡る。

 放課後、部活を終えたわたしと先生が一緒にいるところを、偶然結花に見られてしまった。なにやらいつもとは違うわたしたちの雰囲気を本能的に察知した結花に「白状しろぃ!」と迫られてしまったため、二人で白状した。その結果、興奮し、校内で騒ぎ始めた結花を鎮めるために、例のジェラート専門店まで連れ出したというわけである。

 繊細なオルゴールサウンドが流れる中、屋内にある四人用のテーブル席に陣取る。

 結花は、先生に奢ってもらったアイスを一気に食べ終え、丁寧に「ご馳走様でした」と挨拶すると、隣に座っているわたしにいきなり抱きついてきた。

「うぅ……星が巣立っていく~」

「ちょっ……わたしのこと雛鳥みたいに言わないでよ! ってか、付く! アイス付くから!」

 わたし、まだ半分しか食べられてないんだってば!

 結花の制服に付かないよう、左手に持っているアイスを体から離すようにして持ち上げた。……この体勢、なかなかきつい。

 だが、腕をプルプルさせているわたしのことなんてお構いなしに、結花はこう続けた。

「あたしにとって星は雛鳥みたいなもんだよ。中学のときから、ずっと一緒だったんだからさ~」

 そりゃ確かに中一のときからずっと一緒にいるけど、雛鳥はないでしょうよ!

 ひととおり喚いたあと、ここへ来てようやくわたしのことを解放してくれた結花は、一瞬伏し目がちに柔和な表情をしたかと思うと、ソファに座り直し、対面している結城先生のほうをまっすぐ見つめた。

「でも、結城先生になら星を任せられるな。今日の先生の話、すごく感動しました。……それに、この前あたしの話を聞いて星の家に駆けつけてくれたこと、ほんとに感謝してます」

 わたしが母と口論したあの夜のことについて、結花は先生に謝意を示した。彼女の改まった態度に多少驚いたりしたけれど、この姿を見て、さきほどの〝雛鳥〟の例えが自分にしっくり当てはまるのではないかと思ったり。

 そしてこのあと、これを裏づける思いもよらない事実が、結花の口から語られることとなる。

「とんでもない。こちらこそ、ありがとう。親友の青野にそう言ってもらえると、なんだか励みになるな。二人は、中学のときから一緒なんだ?」

 先生は、結花の言葉に少々照れくさそうに顔を綻ばせると、今度はわたしたちの関係の起点について尋ねてきた。

「あ、はい。中学入学する前に、わたしが今の家に引っ越してきて……。それまでは、隣町に住んでたんですけど」

 アメリカから帰国した直後。わたしは、隣町にある小学校に通っていた。

 そこは、帰国子女を受け入れてくれる小学校で、それまで日本で生活したことがなかったわたしでも、あまり大きなギャップを感じることなく、すぐに馴染むことができた。

 その後、小学校卒業を機に今の家へと移り住み、父の母校でもあるその中学校に進学したのである。

「あたしと星、中一のときも同じクラスだったんですよ。入学してしばらくは席が前後だったから、それで話するようになって……っていうか、あたしが一方的にガンガン喋ってたんですけど」

 中学入学当初。クラス内の席順は、男女別に五十音順で並べられており、女子で二番目のわたしは、女子で一番目の結花の後ろの席だった。

 その当時から、人見知りを存分に発揮していたわたし。進んで友人を作ろうとするわけでもなく、ただただ無難に学校生活を送っていただけだった。

 そんな中、積極的にアプローチをかけてきてくれた初めての人物が、結花だったのだ。

「……先生もいるこの際だから言っちゃうけどさ。最近ほんと明るくなったよ、星」

「え?」

「いや、違うな。『明るくなった』っていうか、『感情豊かになった』よね」

 どうして急にこんな話題になってしまったのか? しかも、「先生もいるこの際だから」ってどういう意味だ?

 結花の言わんとしていることがいまいちよくわからず、キョトンとしてしまう。それに、言われている内容も、自分のことなのにあまりピンとこなかった。

 やっと食べ終わったアイスのコーン紙を折り畳み、あとで捨てようと、テーブルのはしにそっと寄せたりしてみる。そんな地味な動きを繰り返しながら、わたしは結花の二の句を待った。

 一方の結城先生は、真剣な面持ちで、この話に耳を傾けていた。

「あたしね、最初星に声かけたのは、単純に星に興味があったからなんだよね」

「?」

「……初めて星見たときさ、『こんな人形みたいに可愛い子、ほんとにいるんだ!』って思った。それで近づきたくて、話しかけたんだ」

 どこか後ろめたさを感じているかのようにわたしから視線を逸らすと、結花はわたしに声をかけた理由について、自嘲気味にこう話した。

 何か言わなきゃ。このときそう思ったけど、わたしは何も言えなかった。

 すぐに言葉が見つからなかったということもあるが、もう少し結花の話を聞いていたいと……聞かなければいけないと思ったからだ。

「よく話すようになって、仲良くなって……それで気づいた。『もっといろんな表情したらもっと可愛いのになんてもったいないんだ、この子はっ!!』ってさ。感情を百パーセント表に出せば、もっともっと星が魅力的になれることはわかってた。……だけど、お母さんとのこと聞いて、男手ひとつで育ててくれてるおじさんに心配かけないように頑張ってるの知ったから……だから、せめてあたしの前だけでも、素の星でいてほしかったんだ」

「……!!」

 結花がわたしに行ってきた数々の過激なスキンシップ。それは、単なるスキンシップではなかった。

 結花に言われて初めて、今まで自分が無意識のうちに感情を押し殺していたということに気づく。できるだけ父に苦労をかけないように、周りを煩わせないように、常に背伸びをした結果が〝欲張らない聞き分けのいい自分〟だった。

 そんなわたしの肩の力を抜くために、結花は心を砕いてくれていたのだ。

 少しでも、わたしが〝わたしらしく〟いられるように。

「でも、結城先生が学校に来てから雰囲気が変わった。よく笑うようになったし、口数も多くなった。……あたし、びっくりしたんだよ? 先生と雪ちゃんのこと話してるときの、星のすっごい嬉しそうな顔。それ見たとき、安心した。……だから今度は、あたしや先生はもちろんだけど、ほかの人にも、気を遣わないでちゃんと自分の意見を言えるようになってほしい。もっと甘えなきゃダメだよ」

 結花の真摯な眼差しが、揺れ動くわたしの瞳を捉える。

 この瞬間、自分で分厚くしてしまっていた殻が剥がれ落ち、抑えていた感情が徐々に解放されていくのを感じた。

 結花の言葉が心の琴線に触れ、優しく広がっていくのがわかる。

 きっと今、自分はものすごく情けない顔をしているに違いない。

「今の星、めっっっちゃ可愛いよ。先生に出会えてほんと良かったね、星!」

「結花……!!」

 今度は、思わずわたしのほうから結花に抱きついてしまった。目頭が熱くなり、流れた涙が頬を伝う。

 正直、結花がわたしに近づいた理由なんてどうでもよかった。こんなわたしに興味を持ってくれ、あまつさえそばにいてくれた。

 それだけで、十分だ。


 わたしは結花に、ずっとずっと守られていたんだ。


 この一ヶ月で、いったいわたしは何度泣いただろう。

 今まで生きてきた中で、人目をはばからず、これほどまで感情を顕わにしたのは、おそらく初めてのことだ。

 結城先生は、わたしたちのこのやり取りを、黙ったまま愛おしそうに見守ってくれていた。


 わたしの近くには、こんなにも大きな愛が、こんなにもたくさん、溢れていたんだ——。


 ❈


「いやはや、あたしにはそんな野暮な真似できぬのだよ! 二人で仲良く帰りたまえ!」

 かれこれ一時間ほど滞在した後。

 三人とも方角が同じため、送り届けると言ってくれた結城先生の提案を、結花はこのように断った。

 そしてそのまま、「コンビニに寄って帰ります!」と宣言し、大きく手をブンブンと振って、笑いながら行ってしまったのだ。

「気を遣わせてしまったな」

 先生は、結花の背中を見送りながら、申し訳なさそうにこう言った。これに対し、青野結花という人物について、少しレクチャーして差し上げる。

「そうですね。でも、コンビニに用事があるのはほんとだと思います。『明日の朝飲むバナナ・オレがない!』ってお昼ぐらいに嘆いてたから」

「……バナナなんだ?」

「今バナナ味にはまってるって言ってた、三日ぐらい前に。だから今日も、バナナジェラート頼んでたでしょ?」

「なるほど。確かに」

 この場にいないのに、こんなふうにネタにされてしまうあの強烈なキャラクターは、本当にすごいと思う。でも、結花のそんなところにわたしはずっと惹かれていた。今思えば、〝ないものねだり〟だったのかもしれない。自分にはない、独特でパワフルな雰囲気が、きっと羨ましかったのだ。

 改めて思う。結花はわたしにとって憧れであり、自慢の親友だ。

「あ……雨降ってきたな」

「え? ……あ、ほんとだ」

 店の軒先に立っているときはわからなかったが、そこから一歩出て空を見上げると、小さな雨粒が鼻の頭に当たって弾けた。

「今日は天気もたなかったな。折り畳み傘、持ってる?」

「あ、はい。持ってま……せんっ! ……家に置いてきちゃった」

 ここ何日かずっと雨の降る気配がなかったので、折り畳み傘を携帯するのも確認するのも怠ってしまっていた。

 やらかした……。

「珍しいな。……じゃあ、これに一緒に入って帰ろ」

 そんなわたしに差し出してくれたのは、あの紺色の傘。実習期間中も、この傘を使用しているところを何度か見かけたことがある。

 あのときの傘が、今こうして自分に向けられていることが、なんだかこそばゆい。

「ありがとうございます。……でも先生、荷物大変そう」

 ありがたくその中へお邪魔させてもらおうと思ったのだが、先生の腕の中を一見し、少々躊躇してしまった。

 とっさにこんな的外れな申し出をしてしまう。

「傘、わたしが……」

「腕だるくなるよ」

「……あ、そっか」

 先生との身長差という、一番考慮しなければならない部分を考慮し忘れていた。なんてお馬鹿。

 気を取り直し、今度はちゃんと傘以外で、自分が持てるものを告げる。

「花束持ちます」

「ん。じゃあ、お願いしようかな」

 先生から受け取ったこの花束は、クラスみんなからの例のプレゼントだ。手渡された瞬間、向日葵やオレンジローズの芳香が、ふわりと鼻翼に触れた。

 右手で傘を持つ先生の右隣に立つ。すると、左肩から右下にかけていたビジネスショルダーをくいっと後ろに回して、隣を歩きやすくしてくれた。

 先生のこういうさり気ないところが、とても心地好い。

「じゃあ、帰ろっか」

「はい」

 しだいに強まる雨の中、わたしたちは帰路についた。

 そういえば、今まで何度か先生と一緒に帰ったけど、雨が降ったのは今日が初めてだ。

 全身に湿気を感じ、傘に雨粒が当たる音や、歩くたびに水が跳ねる音を聞くと、今は梅雨なのだと改めて実感する。

「先生、明日からはどうするんですか?」

 ぴしゃん、ぱしゃんと足下で水を遊ばせながら、教育実習が終わった先生に、今後のことについて質問してみた。

「ああ。とりあえず明日は職員寮の片づけをして、明後日下宿先のマンションに帰るよ」

「……そう、なんだ」

 明後日になったら、先生は今まで通りの学生生活へと戻ってしまう。そうなれば、今みたいにはもう会えなくなる。当たり前だけど。

「大丈夫、またすぐ会いにくるから」

 わたしのこの心情を察知したのだろう先生は、柔らかく微笑むと、優しくこう言ってくれた。この笑顔で、心が満たされていくのがわかる。

 ああ……わたしは、この人が本当に大好きだ。

 いまだに信じられない。こんなに素敵な人が、自分のことを想ってくれているだなんて。

 そこで、昨日告白してくれた中での、とあるフレーズが引っかかっていたわたしは、思い切って先生に聞いてみることにした。

「ねえ、先生」

「ん?」

「わたし、気になってることがあるんですけど」

「何?」

「昨日の先生の言葉……『初めて会ったときから』って、あれってどういうこと?」

「え? そのまんまだけど」

「……」

 またこの人はいけしゃあしゃあと! ちゃんと教えてください、ちゃんと!

 声に出してはいないが、おそらく顔に出ていたのだろう。「ごめん、ごめん」と、申し訳程度の申し訳なさでわたしに謝った先生は、一変、甘く切なそうな表情で説明してくれた。

「……俺が最初にこの傘断ったとき、無意気に突きつけてきただろ? そのとき思ったんだ。『ああ、この子はほんとに優しい子なんだな』って。それからずっと、その健気な姿が目に焼きついて離れなかった。……でも、今思えば、初対面の俺にあんなふうに自己主張してきたの、すごい貴重だったんだな」

 前を向いたままの先生。その横顔を見つめながら、先生の言ってくれたあのときの自分を振り返ってみた。

 見ず知らずの人に傘を差し出すなんて、それまでの自分からは考えられないようなことだが、さらに驚くべきは、断られてなおも折れなかったことだ。

 あんな自分、初めてだった。

「それがわかって、俺嬉しいんだ。……だから、青野も言ってたけど、これからはもっと自分の意思を伝えて欲しい。甘えていいし、嫌なことは嫌だって、欲しいものは欲しいって、はっきりそう言っていいんだ。大丈夫。誰も離れていったりしないから」

「先生……」

 鬱陶しがられる、離れていかれる。だから、甘えないし、頼らない。

 先生に出会ってから、わたしの中の意気地ない自分が持っていたこの言い分は、すべてひっくり返されてしまった。

「……わかった。ありがとう、先生」

 この人が言うのなら、きっと間違いない。

 暗い暗い闇の中から、わたしの手を引き、陽の光の当たる場所へと連れ出してくれたこの人が言うのなら、きっと大丈夫だ。

「ところで、星さん」

「え? ……な、なんですか?」

 唐突にわたしのことを〝さん〟付けで呼び、急にその場に立ち止まってしまった先生に、思わずたじろぐ。

 かしこまったりなんかして、いったいどうしたというのだろう?

「俺もう先生じゃないんだけど」

「……あ、はい」

 そうですよね。実習期間終わりましたもんね。

 でも、わざわざ確認しなくても……などと思っているわたしに対し、先生が放った次の言葉に、超弩級で度肝を抜かれた。

「名前」

「な、名前……?」

「名前で呼んでよ」

「…………えぇっ!?」

 突然何を言い出すんだ、この人はっ!?

 あまりの急展開に頭がついていかず、しばらく口をぱくぱくとさせることしかできなかったが、期待に胸を膨らませ、じっとわたしのことを見つめてくるその綺麗な瞳を見ていると、逃げることも断ることもできなかった。

 腕の中の花束を、キュッと抱き締める。

 覚悟を決めたわたしは、顔を下に向け、グッと目を瞑り、全身に力を込めた。

「す……」

「ん?」

「すっ……」

「頑張れ!」

「昴さんっ!!」

 やった!! 言えたっ!!

 …………あ、あれ?

 漂う沈黙。反応がまったくない。

 不思議に思い、おそるおそる目を開ける。

 と、そこには、左手で口を覆い、照れくさそうに顔を横に背けた、彼の姿があった。

「ちょっ……何か言ってください!!」

「いや、なんて言うか……想像以上だった。いろいろ」

「……っ!!」

 そんな彼の胸元を、ついポカポカと殴ってしまった。あまりの恥ずかしさに、顔から蒸気が噴き出しそうだ。

 だけど、この言動とは裏腹に、今この瞬間が最高に幸せだと思う自分がいる。


 わたしたちは、再び一歩を踏み出した。


 雨は好きじゃない。

 けれど、大切な人とこんなふうに並んで歩けるのなら、滲んだ景色も、そんなに悪いものじゃないと思えた。


 あまつ空から降り注ぐ。

 渇いた世界を潤す、甘く、美しく、優しい雫——。

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