忘れじの由野縁
幣造さんの一件で、僕は縁との記憶を思い出していた。
確か、あれは中学一年生の頃だった。
*
落ちかけた日の光が教室に差し込む午後六時半。
教室に居残り、二人きりの勉強会をしていた僕らは、
最終下刻の鐘の音で別れを告げ合う。
「浪川くん、また明日」
「うん、また明日」
手を振り交わし、他愛もない約束をした。
交際もしていない男女が
二人きりの空間で過ごすというのは、
存外、緊張に包まれている。
手汗がびっしょりだったのが、
彼女にバレないことを願うばかりだ。
僕と由野さんは、付き合ってなんかいない。
きっと彼女も僕のことを異性としては見ていないだろう。
だからこそ、隙だらけの
こんな時間を過ごせるのかもしれないけれど、
それは歯痒さを伴っていた。
あぁ、「異性」として、意識してほしい。
そんなもどかしい日々を送っていたら何の前触れもなく、
由野さんが学校を休んだ。
つい昨日、勉強を教え合って、
また明日、と言ってくれたはずなのに。
僕は、由野さんのいない三日間、彼女のことで悩み続けた。
由野さんに何かあったのか、
それとも、僕が何かしてしまったのかをぐるぐると。
当然のことながら、
完全な正解なんて導き出せる訳もなく、
「僕が何かしてしまったなら謝るしかない」という
臨機応変なものに辿り着いた。
僕の心境とは裏腹に三日後、
由野さんは平然とした様子で教室にやってきた
――いや、裏腹は言い過ぎかもしれない。
何にせよ思い詰めて学校を休んだようではなかった。
それに、風邪を引いた風ですらない。
ずっと由野さんのことばかり考え込んでいた僕は、
登校してきたばかりの彼女へ開口一番に言ったんだ。
「どうして、三日も休んだの?」
「お祖母ちゃんが亡くなっちゃったんだ。
だから、そのお通夜とお葬式とかで色々ね」
結局、由野さんのお祖母さんが亡くなったせいだった。
それにしても、連絡くらい入れてほしかっただなんて、
彼氏でもないくせに偉そうなことを思ってみる。
「せめて、教えてくれればよかったのに」
思わず、口を吐いていた。
「あれ? おかしいな。先生には連絡入れたはずなのに」
先生に問い合わせてみると、確かに連絡はきていたらしい。
クラスメートにもその報告入れないといけないのでは……?
と、頭に疑問符を浮かべると共に、
先生へちょっとした恨みを覚えた。
「でも、お祖母さんが亡くなったなんて、大変だったね。
お祖母さんって、お父さんの方?
それとも、お母さんの方?」
こんなことまで訊く必要はないのかもしれない。
だけど、由野さんがいつもより
元気がなさそうに見えたから。
「うんとね、お母さんの方」
彼女の何でもないような笑顔が、
だんだんと萎んでいくのが分かった。
でも、その顔はとても自然体だった。
もしかしたら、辛いのを無理して、
平気を装っていただけかもしれない。
そう考えると、申し訳なさと同じくらい、
嬉しさも込み上げてきた。
自分は、由野さんにとって
素を晒してもいい存在なのかな、と思えるから。
「どんな人だった?」
だから、つい、調子に乗りすぎたのかな。
「……この話、また今度でもいい?」
由野さんの声のトーンが下がり、眉をひそめられた。
あぁ、拒絶されちゃった。どうしよう……?
「え、ぁ……うん」
何も考えられなくなるくらい、気持ちが沈む。
海に、溺れるみたいだ。
そんな最中、光が差し込んできた。
「今日、放課後時間ある?」
由野さんが僕の耳元でそう囁いた。
刺激的すぎて、
飛び跳ねそうになるのを必死に堪えて、頷いてみせる。
「う、うん」
「じゃあ、また放課後」
由野さんはは不敵に笑みを浮かべ、
そのまま席に着いてしまった。
あんなの……ズルいよ。
上げて落とすなんて、小悪魔みたいだ。
耳元に残った彼女の熱が、吐息が、
僕の身体を蝕んでいく。
回路をおかしくさせる。
「好き」が止まない。
結局、授業には集中できず、悶々としていた。
*
HR終了後、テスト勉強するという名目で、
放課後に教室を使う申告をすると、
あっさり許可を得てしまった。
テストが近いこともあり、
他のクラスメートは早々に帰ってしまい、
僕ら二人だけの空間が生まれる。
左斜め三つ前の席にいる由野さんがこちらに振り向き、
僕は席を立つ。
はやる気持ちを抑えながら、
普段を装った声で話し掛ける。
「由野さん、もういいかな?」
もういいって何だよ、馬鹿じゃないのか。
心の中で突っ込みを入れていると、
由野さんがふっと笑う。
「うん、いいよ。こっちこそ、
わざわざ放課後にまで引き延ばしちゃってごめんね」
どうして、朝じゃなく、
放課後に二人きりになる必要があったのか。
僕はそれが気になって、しょうがない。
「それはいいんだよ。
ただ、何か理由でもあったのか、教えてほしい」
由野さんは悩むように、目を伏せる。
言いにくいことなんだろうか。
でも、彼女は顔を上げた。
「人前で泣きたくなかったから」
由野さんはきっぱりと言い切った。
だけど、僕には意味が分からなかった。
「どういうこと?」
その質問は想定済みであったようで、
彼女はすらすらと述べてくれる。
「お祖母ちゃんの話をすると、泣きそうになったの。
でも、人前で涙を見せるのはよくないって思ったから、
放課後にしてって頼んだんだよ」
由野さんの言葉は理解できたけど、
腑に落ちない点が一つあった。
「僕の前で泣くのはいいの?」
それだって人前なのに。
矛盾していると感じたんだ。
「浪川くんはいいの。
信頼してる大事な友達だから」
でも、違った。
弱みを見せてもいい、
それだけ特別な相手だってことだった。
「そう、なんだ。ありがとう」
素直に、照れ臭かった。
「ありがとうって、何?」
由野さんがからかうように訊いてくる。
「いや、なんとなくだよ。
強いて言うなら、信頼してくれてることかな」
すると何故か、彼女が頬を赤く染めた。
「そ、そんなことよりも、本題に入らない?」
誤魔化すのが下手な子だ。
だけど、そこも可愛く思えてしまえるのだから、
恋って盲目だね。
「そうだね。じゃあ、もう一度訊き直すよ。
亡くなったお祖母さんって、どんな人だった?」
由野さんは、少し勿体ぶって言う。
「あのね、本当は放課後まで
残ってもらうほどのことじゃないの。
私の、気持ちの問題。
実を言うと、あんまり覚えてないんだ」
ある意味、衝撃的だった。
ロマンチックさとシリアスさが
一気に消え去った気がする。
「え……そう、なんだ」
下手に突っ込むと却って、
由野さんに傷を負わせてしまいそうだ。
困惑する僕に気付いてか、
彼女はすかさずフォローを入れる。
「い、いや、全く記憶がないほどじゃないの。
ただ、お祖母ちゃんは、
私が物心付くまではすごく面倒見てくれたらしい。
でも、私が小学生になる頃には隠居しちゃって、
あんまり会わなくなっちゃったんだ。
しかも、お母さんに話を聞いて、
うっすらと思い出せるくらいで。
ただ、私の名前を付けてくれたのが、
お祖母ちゃんって知って、胸が締め付けられた」
前半部分は、
あまり弁明の意味はないと感じかけたけれど、
最後の一文を持ってくるためだったんだろう。
それだけ、たった一つだけなのに、悲しくなる。
その感情をより引き出したくて。
もっと、彼女の話を聴いてあげたいし、訊きたい。
「そのことは、最近知ったの?」
「うん、お祖母ちゃんが死んでからだよ。
名前は大事なものだから、
親に付けてもらったって思わせておきなさい、
だって。お母さん、私に話しちゃったけどね。
ただ、私はそれを聴いても、がっかりしなかったの。
むしろ、お祖母ちゃんの存在を近く感じた」
由野さんは真っ直ぐな眼をしていた。
こんなに私的な話をしてもらえるのは珍しくて、
それこそ、特別なんだと感じさせられる。
「お祖母さんが名付けた理由とかあったの?」
僕がさらに踏み込むと、
由野さんは泣きそうに目を潤ませているのに、
微笑んでいた。
「うん、あるよ」
今朝よりも、よっぽど軽い声色だ。
もっと話を訊いてほしそうに、言葉を続けない。
「じゃあ、どんな話か聴かせて」
優しいトーンで語りかけると、
彼女は言葉をつらつらと並べる。
「お父さんとお母さんがね、
他に名前を考えていたらしいんだけど、
お父さんが〝麗子〟で、
お母さんが〝雅〟で、
二人とも譲らなかったんだって」
由野麗子、由野雅、どちらにしても悪くはないけれど、
なんだかしっくりこない名前だ。
美しさばかりを主張して、
苗字との相性が微妙な気がする。
その名前にしなかった理由は想像がつく。
「名前負けしたらどうするんだって言われたの?」
由野さんはくすっと笑って、朗らかに答えてくれる。
「うん、そんな感じ。
それを指摘されて、別の名前候補を考えていなくて、
二人とも困ったみたいで、
お祖母ちゃんが考えてくれたんだって」
確かに、どちらも羅列しなさそうな名前だ。
「意味は教えてもらった?」
恋しい君の名前に理由があるなら、それを知りたい。
好きな人の大事なことは知っておきたいから。
「うん。由野縁ってね、野を抜くと、〝由縁〟になるの。それに、由縁って、ゆかりって意味なんだよ。知ってた?」
問い返す彼女はすっかりいつも通りだったはずなのに……。
「由野さん、平気?」
潤んだ瞳から、涙が零れていた。
「あれ、おかしいな。
もう平気なはずなのに、どうしてだろうね……
お祖母ちゃんの話してたら、思い出しちゃった。
ごめんね、すぐ泣き止むから」
なおも、目からぽろぽろと涙を溢れさせている。
それを拭って、無理に引っ込めようとした。
「泣きたいときは、無理しなくていいよ。
泣きたいときの涙を引っ込めちゃったら、
泣き方を忘れちゃう」
「ありがとう、浪川くん」
そう言うと、
由野さんは俯きながら、泣きじゃくりだした。
手を伸ばせば触れられる距離。
僕なんかが、彼女に触れていいんだろうか。
でも、泣いている子の心にある涙は拭ってあげなきゃ。
由野さんの髪を撫でてみる。
一人じゃないって知ってほしいから。
嫌な思いをさせなければいいけど。
「それにさ、それが由野さんの良さだと思うよ。
痛みに敏感なのは、
優しい心を持っているからだよ。
人のために泣けることって、すごいことだからね」
「あったかいね」
ぼそっと、由野さんが呟いた。
「そうかな? 普通だと思うけど」
僕が答えると、
彼女は首を左右に振って、説明を補足する。
「あったかいっていうのはね、
熱とかじゃないよ。心の話」
さっきも思ったけど、由野さんは感受性というか、
そういうものが長けている。
感傷的といえば、聞こえは悪いが、そんな気さえした。
だからこそ、彼女は泣いているのだから。
どうにか、気分転換させてあげられないかな。
そこで、ふと思い付いた。
「ねえ、由野さん。これから雑貨屋に行かない?」
言った、言ってしまった。
これだけの台詞を捻出するのに、
一ヶ月分の勇気は使い果たしたはずだ。
由野さんは目を見張って、驚いているようだった。
あぁ、もう、穴に潜りたい……。
「うん、行こう!」
「よかった、じゃあ、今すぐ行こうよ!」
でも、そう答えてくれたから、
僕も思わず声を上げてしまった。
*
そして宣言通り、新しく開店した雑貨屋へ向かった。
僕らは中学生だから、
もちろん、道草なんてしちゃいけない。
だけど今は校則を守るより、
心に涙を溜めている
女の子の涙を止める方が重要だと思った。
新しくできた雑貨屋は、
オルゴールなどのアンティーク雑貨屋や
素朴なビー玉をモチーフにしたアクセサリーが
沢山陳列されていた。
奥ゆかしさと可憐な煌めきに包まれた店内は、
男の僕でさえ心を踊らされた。
そこで、由野さんがあるものに目を奪われていた。
七色が混ざり合ったビー玉のネックレスだった。
由野さんの誕生日は七月二十七日だったはず。
僕は、彼女が他のものに余所見をしているうちに、
こっそり購入しておいたのだった。
ほどよいリフレッシュをした僕らは、
帰り道いつもよりも会話が多かった。
「連れて行ってくれてありがとう、浪川くん。
すごく、楽しかった」
近いのに、呼び名という壁が
二人の邪魔をしているようでもどかしい。
「喜んでもらえて良かった。僕も楽しかったよ」
すると、由野さんがしなを作って、言い始めた。
「……私ね、嬉しかったんだ。
浪川くんが今日、声を掛けてくれて、踏み込んでくれて。
ちゃんと、私を見てくれてる気がしたの」
由野さんは頬を染めているのに、
真っ直ぐな眼差しで見つめてくるから、僕も照れてしまう。
「そ、そうかな。さっき言いそびれたけど、
由野さんの〝縁〟って名前、
すごく素敵だなって思うよ」
なんとか、恥を堪える方法が掴めてきた。
深く考えないことだ。
「ありがとう。私、自分の名前が好きだから、
すごく嬉しい……!
私もね、浪川くんの名前、素敵だなって思ってる。
透夜って、透明な夜って字で想像してみたら、
幻想的な綺麗さだから。
私も、浪川くんの名前、好きだよ」
由野さんは満面の笑みを僕にくれた。
好きなのは、僕の名前だって分かるけど、
胸は勝手に高鳴ってしまう。
「あのさ、良かったら、由野さんのこと
……名前で呼んでもいいかな?」
今度は、きょとんともせず、
笑顔を絶やさず答えてくれる。
「いいよ! その方が、私も嬉しいから。
それなら、私も透夜って、呼んでいい?」
それだけじゃなく、心躍る提案までされてしまった。
「も、もちろんだよ。むしろ、光栄です……!」
緊張で変なことまで言ってしまって。
「光栄って、大袈裟だよ」
だけど、由野さ――
いや、縁は楽しそうだったから、まぁいっか。
結局、この日は照れ臭くて、
お互いの名前を呼び合うことはなかった。
ただ、並んだ肩がぶつかるほど距離が近くて、
胸が高鳴りっぱなしだった。
これが、僕と縁の付き合う少し前の出来事。
さほど親しくない人でさえ、悲しくて涙を流すなら、
親密な間柄の人が亡くなれば、
どんなにか辛いことだろう。
幣造さんの奥さんは亡くなっているけれど、
もし、幣造さんを大事に思う人がいたなら、
胸が押し潰されそうだ
――そんな考え方をする僕は、
よっぽど夢籠なんかよりも、酷い奴だ。
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