決断の日
退友会の所属している人間は皆、『加護』を身に着けている。身につけている加護はいくつかあるが、吸血鬼に対して有効なのはバチカン市国で清められたロザリオだ。彼らは肌見放さずロザリオをどこかに身に着けており、その加護があるうちは吸血鬼からのあらゆる攻撃を受け付けない。
全の明かした作戦は、全の吸血鬼としての能力を最大限に利用したものになる。つまり、安藤のロザリオを奪って加護を剥がさなくてはいけない。俺の役割はそこだった。
女に姿を変えて安藤に接近する。どこにロザリオがあるのかを突き止め、どうにかして安藤から取り上げる。どうにか成功すれば後は全に任せれば万事うまくいくという筋書きだ。
再び女になることに抵抗がなかったわけじゃない。だが知られていない顔の方が警戒されないというのはわかるし、女の方が油断されやすいというのも納得はできた。ロザリオをうばう程度なら攻撃対象にはならないだろうという読みは甘すぎるのではないかと思いはするけれど。
「ああ、大丈夫。ありがとう」
家の近くで張り込みを続けていたらしく、すぐに見つけることができた。彼にさりげなく声をかける。第一関門はクリアできたと言っていいだろう。疑われている様子もない。
手を差し伸べれば素直にその手を取ってくれる。本当に警戒されてはいないらしい。さて、ロザリオを身に着けているとすればどこだろうか。怪しまれない程度にその全身を見回す。ちゃり、と音がして視線がそちらに引っ張られた。
音がしたのは繋いだ手の首。細い銀色のチェーンに同じく銀のロザリオがぶら下がっている。これだろう。これをどうにかして奪えば、後は全に任せればいい。目の前に、目当てのものがある。今が最大のチャンスではないだろうか。
手を伸ばす。警戒はされていない。細いとはいえチェーンを引きちぎれるかどうかという不安はあった。指先が触れる。
「いたっ」
触れた途端に小さな雷が生じて痛みが走る。静電気だ。この時期に起きるのは珍しい。たいした痛みでもなかったが、思わず手を引いた。それがよくなかった。
「……吸血鬼か!」
これまで全くなかったはずの警戒が噴出する。たしか、吸血鬼である全はロザリオに弾かれるため、物理的に触れることができないのだと言っていた。今の事故を、吸血鬼であるから起こった必然であると判断されたんだろう。まずい誤解だ。今すぐに解かなくてはいけないが、俺が一般人ならロザリオの加護など知らないので反応すべきじゃない。どうする。このパターンは想定していなかった。
安藤は俺を吸血鬼とみなした。退友会の人間は狩るべき異物と判定を下せば問答無用で攻撃してくる。そう説明は受けてはいたが、実際に殺意を向けられると身体が竦んだ。怖い。恐怖で頭が回らない。
ロザリオを提げた手がこちらに延びてくる。ぴんと伸ばされた指。その手の下に、何か忍ばせているように見えたがそれがどんなものなのかまで判別することはできなかった。避けるか防ぐか。何かしなくてはいけないのに何もできずにいた。
安藤の手が迫ってくる。眼前にーーそして弾かれた。
「え」
俺は何もしていない。だがこちらに真っ直ぐ向かっていた手は上に弾かれて勢いを失った。それを呆然と眺めているとぐいと身体を後ろに引かれる。
「全!?」
全はこの近くに潜んでいた。俺がうまくいった場合、こっそりと忍び寄って吸血鬼の能力を行使する。それまでは出てこないはずだった。ロザリオによる加護が働いている以上、全からは手出しができない。ロザリオを身に着けている部位を切り離してしまえば加護は無効化できるが、安藤は五体満足でいられなくなる。本当にどうしようもなくなった時の最終手段だと言っていた。まだそんな段階ではないだろう。
「しくじったな。作戦失敗だ」
「ごめん」
「気にするな。素人には無茶な作戦ではあった」
もう忍ぶ必要もないせいか、全は見慣れた男性の姿でいる。最近はその姿でいることが多く、一番動きやすいらしい。暗くなってきた外に紛れるためか、上下ともに黒い服で固めている。
「吸血鬼!!」
「そう、俺が吸血鬼だ。一応言っておくが、こいつは人間だぞ」
「人間でも吸血鬼に加担するなら敵だよ、残念だけど」
全の言っていた通りだ。人間であることである程度の安全は保証されるが度を超えると人間でも容赦はない。俺の安全を思って伝えてくれたんだろうが効果はなかったらしい。
「もう一人、同じくらいの年の男の子を飼ってるだろう。人間を育てて食べるなんて悪趣味だ。それも二人も」
安藤が全を侮辱していることはわかる。吸血鬼は皆等しく悪だと考えているのだとすればそういう発想に至るのが自然だろう。
男の俺と今の俺。どうやら同一人物だとは思われていないようだった。この姿で警戒されることを防ぐという点ではやはりクリアできていた。その後にしくじっていては意味がないが。……いや、でもあれは不可抗力だった。
全は俺を抱えたまま後退して距離を取る。それから俺を解放した。
「離れて待機。安全にロザリオが奪えそうなら実行しろ。無理はするな」
無茶苦茶だ。既に敵は警戒心をむき出しにしている。この分だとロザリオを奪うことは愚か、接近すら難しいだろう。勘づかれた時点でこの作戦は失敗したと言っていい。
「わかった。だけどどうするの」
「なんとかする」
具体性がない。つまりノープランということだ。吸血鬼はたいていのことはできると何度も豪語している。その言葉が正しければ手出しができないからといってすぐにやられたりはしないだろう。反撃ができない以上、このままではやられるのが早いか遅いかというだけの話になるんだろうが。
安藤は袖の内に、何か小さな武器を仕込んでいる。素早くそれを取り出し、手の内に留め、腕を振る勢いでこちらに投擲してくる。全はその投擲武器が接触する部分だけ蝶や蝙蝠といった小さな生き物に姿を変えて攻撃を躱す。防戦一方だ。反撃はしない。
チャンスがあればロザリオを奪えと言われた。できることならそうするつもりではあるが、とてもそんな隙があるようには思えない。
安藤が攻撃し、全はそれをすべて躱す。そんなことを何度か繰り返して、不意に安藤の手が止まった。
「弾が尽きたか」
安藤が何を投擲しているのかまではわからない。何か、小さなものだ。あらかじめ大量に仕込んでいたんだろう。だがスーツにそこまで収納性があるとは思えないし、いくら小さくて携帯しやすくても限りはある。こうも連続して攻撃し続けていればいずれ武器は切れる。
攻撃が止んだのなら接近する隙もできるかもしれない。じっと、二人の様子をうかがう。
「その程度の備えじゃ俺は倒せない」
「そうみたいだ。もっと備えが必要だった」
「現状を素直に認めるのがいいことだ。素直に降伏すれば命までは取らないでいてやる」
「吸血鬼の言うことなんて信じられるわけないだろ」
対話は難しそうだ。こうなるとどちらかが勝つまで決着はつかない。だが膠着している。安藤の武器は尽きたようだし、全の方はロザリオのせいで攻撃に移れない。どうしようもない。だがこのままの状態が長く続けば第三者が通り掛かるかもしれない。この時間帯は人通りがあまりないとはいえ、皆無であるとは保証できない。第三者に見られるのはどちらも困るだろう。早期に決着をつけたいはずだ。そのためにロザリオごと腕を分断するか。全の気はそこまで短くないと思いたい。
「……さっきからあの子のことをちらちら見てる。そんなに大事なペット?」
「ペットじゃねえ」
全は交戦の流れ弾がこっちに流れてこないように注意を払ってくれていた。吸血鬼が人間を養育しているなんて考えもしないんだろう。
下手な挑発だ。全はそれに乗らない。だが安藤が動揺する素振りはない。それどころか至って冷静に、懐に手を差し込んだ。そして迷いなく何かを掴んで戻ってくる。
「残弾はたしかにもうない。だけど奥の手くらいは残ってる」
取り出したのはガラス片だ。手のひらにすっぽりおさまる大きさの緑のガラス片。尖っていて刺さると痛そうではあったが、それだけで致命傷を与えるというのは難しいだろう。もしかすると吸血鬼に対してよく効くアイテムなんだろうか。吸血鬼の弱点はたくさんあるし、書籍によっても異なっていたりする。調べはしたが短期間ですべてを把握できたと確信を持っては言えない。奥の手とまで言うものがただのはったりであるとは考えにくい。
安藤はそのまま投擲の姿勢に入る。だが投擲先は全ではなかった。何故か、こちらを向いているように見える。いいや、間違いなく狙いはこっちだ。全との距離はそれなりにあり、勘違いは有りえない。
なんで。どうして。そんなガラス片を投げられたとkろおで、切り傷くらいはできるだろうが致命傷には遠い。苦し紛れの嫌がらせとしては成立するだろうが、そんな自棄な様子には見えない。
「避けろ!」
「え」
全の声が鋭く刺さる。だけど逆効果だった。身体が強ばる。言葉通りに避けるための行動を取るのが正解だとわかっている。それでも咄嗟のことに身体が追いつかない。何もできずにその場に固まっている。その間にもガラス片は安藤の手から離れ、ぐるぐると向きを変えながらこちらに向かってくる。ガラス片がばちばちと火花のようなものを帯びた。ただのガラス片ではない。
固まって動けないでいる俺の前に全が躍り出た。だがさっきのように庇いながら攻撃を避けるには間に合わなかった。ガラス片は、全の左肩あたりにぶつかった。
途端、小さく爆ぜる。爆竹でも破裂させたかのようなけたたましい音。それが全の左肩から。その威力は音以上のものだったらしい。全の左腕がアスファルトに叩きつけられる。爆発によって肩が抉れて、左腕が切断された。
「全!?」
「落ち着け。吸血鬼はこれくらいじゃ死なん」
「そう。吸血鬼はもっと念入りに殺さなくちゃ死なない」
両サイドから同じ証言があったが、だからといって安心は当然できない。至近距離で爆発を受けて腕がなくなったのだ。人なら迅速に適切な処置を受けないと死ぬ。吸血鬼がどの程度の傷が致死量になるのかなんて知らない以上、心配だ。
「大切にしているようだったから子供を狙えば当たるかもしれないと思ってね」
どうやら全に確実に攻撃を当てるために利用されたらしい。腹立たしいが、それ以上に悔しい。最初から足手まといになってばかりいる。そもそも、安藤に見つかった時点ですぐにこの街から出るのが正しい選択だっただろう。だが全は留まった。俺がいるからだ。俺の生活を思って留まった。その時点から足手まといになり続けている。
死なないとは言うが、平気なわけではないだろう。全はその場に蹲っていて動き出す気配はない。痛いのだろう。表情は苦痛で歪んでいる。すぐに手当をするべきだ。吸血鬼の手当なんてどうすればいいのかわからないけど。
全はすぐには動けそうもない。つまり俺がなんとかこの場を切り抜けなくてはいけない。どうすればいい。考えてみるが明暗は浮かばない。
「君、その男といると危険だ。君のことは責任を持って保護すると約束しよう。さあ、こっちに来て」
どうやら安藤は俺に危害を加える気はないらしい。つい十分ほど前まで俺にも攻撃を加えようとしていた。
「お……わ、私も殺す気だった」
「あれは吸血鬼だと誤解してたんだ。交戦中の様子から見て君も吸血鬼だとは思えない。人間なら、可能な限りは助けたい」
本当だろうか。油断させることが目的ではないのか。だがさっきまでの様子を見ていたのなら俺に戦闘能力がないことはわかっているだろう。だまし討ちする必要があるとは思えない。それに、全との交戦中は俺を狙ってくることはなかった。ひとまず信じてみてもいいのかもしれない。
「助けるって、どうするの」
「組織で保護する。しばらくの生活は保証する。君が望むなら親族の元へ戻れるように尽力することも約束する」
それは、俺にとって良い提案ではなかった。全の元と母の元。どちらが人間として健康で文化的な生活ができるのかと問われると間違いなく前者だ。あの人が今どうしているのかはわからないが、十数年で改心しているとは思えない。母に愛着がないわけではないが、望んで戻りたいとは思わなかった。それほどまでに全はこれまで俺をまっとうに育ててくれた。
「全は、どうするの」
「このまま滅殺する」
「殺すってこと」
「そうなる。……ああ、長く一緒に居過ぎて情がわいてるんだね。そういうことなら特別に封印処理にしてもいい。もう会うことはできなくなるけど、死ぬわけじゃない。譲歩できるのはここまでだ」
「聖、でたらめだ。聞くな」
左肩の断面からもうもうと煙が上がっている。吸血鬼は怪我をするとその部位から煙が出るようになっているんだろうか。誰もそれについて気をやる様子はないので吸血鬼としておかしなことではないだろう、多分。
「聖? それ、君の名前」
「……はい」
安藤が首を傾げた。家にどんな人間が住んでいるのか。外見だけでなく名前や所属といったものまで把握されているのなら男の姿と結び付けられたかもしれない。吸血鬼だから姿を変えているのだと誤解されただろうか。いや、吸血鬼を追っているのならその能力も把握しているはずだ。他人の姿も変えることができることを知らないとは考えにくい。
嫌な汗が背中を伝う。どんな意図で質問をされたのかがわからない。それがわからないまま否定をすれば事態が悪化するかもしれない。だから素直に答えた。すると安藤は更に不可解そうな顔をする。
「その名前はいつから?」
「? 生まれた時からですけど」
「この男がつけた?」
「いえ、多分、両親のどちらかが」
自分の名前はどうやってつけられたのかなんて和やかに聞ける家庭ではなかったので確かなことはわからない。だが俺の知る限り親族との付き合いはなかったようだし、両親のどちらかが考えたと思うのが自然だろう。父親に至っては顔も知らないが。
「それは妙だ。吸血鬼は聖なるものの名前が苦手だ。例えば教祖たるイエス・キリスト。その名前を口にするだけで舌は焼けただれてしばらく使い物にならない」
そうなのか。それは初めて知った。やはり本で得られる情報だけがすべてというわけじゃないらしい。まだ知らないことは多そうだ。
「そして聖という名は書くとそのまま、聖なるものという意味合いを持つ。口にしたところで焼けただれはしないだろうけど、軽い火傷くらいはするんじゃないか?」
問いは全へと向けられていた。見れば、口から薄っすらと煙が立ち上っている。左腕から生じているそれと同じように見えた。怪我をすると煙が発生するんだろう。つまり、口の中に怪我がある。ついさっきまでそんなものはなかった。聖と口にするその瞬間までは。
「俺がこいつを拾った時、もうそれを自分の名前だと認識してた。だからそのままにしただけの話だ」
「すぐに食べるから名前が不都合なものでも構わなかったってことか」
「はっ、好きに解釈しろ」
聖と、そう呼ぶ度に怪我をしていたのか。だけどそんな様子はなかったし、名前を呼ぶことを躊躇っている様子もなかった。俺を呼びつける時には聖と、時には何度もしつこく呼んですぐに来るようにと催促したりもした。そんな事情があったなんて考えもしなかった。
「これでわかっただろう。こいつは君を長く生かす気はなかった。だから不都合な名前でもそのまま放置した」
違う。それならもっとうまい振る舞い方があったはずだ。これまで一緒に過ごしたからわかる。
「このままだといつ食べられるかわからない。君を助けたい。さあ、早くこっちに」
安藤の中では俺は疑いようもない被害者となった。助けたいと思っているのは本心だと思う。攻撃される心配は多分ない。だからおそるおそる近づいていった。
安藤との距離が縮まる。何かおかしな挙動があればすぐにでも距離を取り直すつもりだった。だけど何もなく、手が届く距離まで歩み寄れた。だから手を伸ばす。安藤の右手首。ロザリオへと。
安藤はその時になった気づいたが間に合わなかった。ロザリオを掴み、力任せに引きちぎる。細いチェーンは思ったよりも軟弱で、すぐに千切れてロザリオを奪うことができた。
これで安藤は加護を失った。全の話が正しければこれで吸血鬼の能力が効く。
「でかした」
辛いのだろう。絞り出すような声。ロザリオを取り戻そうと手が伸びてくる。全の方に気を取られていて逃げ遅れた。そこで聞こえる、咆哮。
いいや、咆哮というよりは鳴き声だ。犬のように小さく短く、ばう、と吠える。その途端に安藤の身体が大きく傾いだ。ぐらりとバランスを崩し、そのまま地面に倒れ込む。
「うわ、頭からいったけど大丈夫かな……?」
「退友会の奴らは鍛えてるから大丈夫だろ」
「いや、いくら鍛えてても頭を強く打つのは人間だとまずいんじゃないかな」
安藤が起き上がってくる様子はない。気絶している。
「なにしたの」
「まだ気絶させただけだ。言っただろ、吸血鬼はたいていのことはできる」
ロザリオの加護さえなければこうしてひと吠えで気絶させることも可能、ということか。近くにいた俺は平気なあたり指向性があるのか。本当に、吸血鬼というのはなんでもあり過ぎじゃないか。
「でも気絶させただけじゃまた来るでしょ。……殺さないよね?」
「殺さない。ちょっと記憶を弄る」
もうもうと煙を立てながら、全は安藤へと近寄る。目前前やってくると膝をつけ、その耳元に口を寄せた。
「 」
何か、囁いている。内容まではわからない。ぼそぼそととても小さな声で二分ほど囁き続けていた。それが急に止んで顔を上げる。
「これでいい。帰るぞ」
「え、終わったの? 記憶を弄るとか……」
「ああ、終わった。俺を見つけてから今までの記憶を全部それらしく作り変えた。だからもう追って来ない」
転がっていた左腕を手に取ると服の下にしまいこむ。腹部が不自然に膨らんでいるがそれで隠しているつもりなんだろうか。いやまあ、剥き出しで持ち歩くよりはマシだとは思うが。
「この人、ここに放っておいて大丈夫なの?」
「そのうち誰かが見つけるだろう。車が気づかずに通るかもしれんが」
「それは駄目でしょ」
親切に通報までするつもりはないが、この後轢かれでもしたら後味が悪い。脱力しきった身体を引きずって道の端へと寄せる。これでひとまず車に轢かれることはないだろう。
「……じゃあ、帰ろうか」
全の手当をしなくてはいけない。どうすればいいのかはわからないが、それは帰ってから教えてもらうことにしよう。
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