隠密の早朝
土曜日の朝、朝食を終えるなり荷物がぱんぱんに詰め込まれたリュックを背負わされて外へと出た。
「いつまで母さんの姿なわけ?」
「一度この姿で見られたからな。入った様子もないのに違う奴が家から出てきたらおかしいだろ」
「家が知られてて見張られてたらそうだね」
叔父は未だに母の姿をしている。振る舞いや言動が母とは似つかない上に、母の記憶は既に薄い。そのおかげで別人と認識するのはそう難しくはなかった。それでも人の母親に扮しているのは悪趣味だと思うのでできればやめてほしいとは思う。
どこに向かっているのか。着けばわかると、行き先を教えてくれない。先日は下着を買いに行くと言った。それなら適しているのは複数のテナントが営業しているデパートだろう。だが向かっている方向にはない。こちらに下着を売っている店はあっただろうか。あまり意識して生活をしてこなかったので絶対にないとは言えない。
聞いても何も答えてはくれないだろう。背を覆うほどのリュックはめいっぱい詰め込まれているわりにそこまで重くない。中身についても叔父は教えてくれない。すぐにわかるらしい。
「……ねえ、叔父さんは実は叔父さんじゃないんだろ」
「そうだな」
「じゃあ叔父さんって呼ぶのはおかしいんじゃないかと思うんだけど」
不自由なく育ててもらった。裏があってのことだとしてもそれ自体は感謝しているし、吸血鬼なのだと言われても接し方が変わるわけじゃない。だけど叔父ではなかったし、なんなら戸籍上は父だったというのであれば叔父さんと呼ぶのはおかしいだろう。これを機に呼称を改めるべきだ。
叔父さんと呼び始めたのは俺の方からだ。叔父の方から名乗られて、叔父にあたると言われて。どう呼んでほしいと要求はされなかった。そして迷った末に叔父さん呼びに落ち着いた。
「なんでも好きに呼べばいい」
「じゃあ全さん、とか」
「いいんじゃねえの」
最初に叔父さんと呼んだ時にもたいしたリアクションはなかったように思う。あの時から全さんと呼んでいたとしても反応は同じだったんだろう。そうあっさりと流されると呼び方を変えるだけでやけに緊張していた自分が馬鹿らしく思えてくる。
「じゃあ、それで」
「おう」
身構えているわりにあっさり終わってしまった。会話が終わった。呼称になどこだわる人じゃないのはなんとなくわかっていたのでこの反応そのものは意外でもない。単に俺が気負い過ぎていただけだ。
用意していた話題はこれだけだ。元々二人揃って饒舌な方でもないので話はあっさりと途絶える。普段なら互いに何も話していなかったところでなんとも思わない。だが今は状況が状況だ。全が何を考えているのかわからないが、聞いたところでそれに関しては答えてくれないだろう。
「全さんは、長く生きてる?」
「それなりにな」
「これまでも俺と同じように子供を育ててた?」
「そうだな」
話題によってはあっさり答えてくれるらしい。だが詳細には教えてくれない。あくまで質問に是非のみで応じるといったスタイルだ。意図的に答えないのではなく単に詳しく説明しようという発想にならないだけだろう。この人は昔から言葉が足りない。
「俺が協力すれば全さんを狙ってる人を殺さなくて済むって話とこの外出は関係あるの?」
「ああ」
「なんで下着?」
「行けばわかる」
やはり今日の目的については話してくれないらしい。今できるのはひたすらに全の後をついていくだけだ。女性の姿になっているおかげで全の歩幅は狭くなっている。おかげで配慮もなく突き進まれても容易に追いつくことができる。
それでも迷いがなかったため、目的地までの到着時間は短い。そもそも目的地までそれほど距離がなかったというのもある。
自宅から出て歩いて十五分ほど。駅の近くのビジネスホテル。結構有名な会社が運営しているホテルで、何個か先の駅の近くにも同じように建てられている。そこへ、全は迷いなく入っていく。こんな近場のホテルに何の用があるのか。
全は入口の自動ドアを潜り、カウンターへと真っ直ぐ進む。あれから吸血鬼に関していくらか調べてみたが、数多くある弱点のうちに招かれなければ屋内に入れないというものがあった。だが全は平気らしい。そもそもそれを言うなら昼間に出歩いても灰にならない時点でフィクション上の吸血鬼とは違うのかもしれない。
何も言われていないということは、そのままついて来いということだろう。ホテルなんてこれまで利用したことがない。つい挙動不審に周りを見回してしまう。掃除の行き届いた無機質なカウンターに、髪の毛一本も乱れていない従業員。目が合うとにこりと笑みを向けられる。
「今日、二人で予約していた瀬上です」
「瀬上様ですね。少々お待ちください」
どうやら予約をしていたらしい。ということはつまり計画的にここを利用するつもりでいたということになる。だがたしか今日は下着を買いに行くと言っていた。それなのにどうしてホテルに来る必要がある。
「お待たせしました。お二人、素泊まりでよろしかったですか」
「ええ、それで」
「お部屋は三階の三〇三室になります。ごゆっくりどうぞ」
カウンターからカードキーを受け取る。取っている部屋はひとつだけ。まさか本当に泊まるつもりなんだろうか。全はカードキーを手にエレベーターの方へと向かっていく。ここのエレベーターは自分が知っているものとは少し違っている。上昇・下降のボタンの上に細い溝がある。ちょうど、カードが入るような形状だ。そこに全が受け取ったカードキーを差し込む。するとそれまで点灯していなかったボタンに明かりが灯る。それを確認してから上昇のボタンを押す。すると上の方で待機していたであろうエレベーターがゆっくり降りてくるのが階数表示ランプでわかった。
一分も待ってないうちにエレベーターが一階に降りてくる。ちん、と軽快な音を立てて扉が開く。エレベーターの中には誰もいない。全がそこに乗り込んで、向かいの壁に背を預ける形で落ち着く。遅れて、俺も同じようにエレベーターに乗り込んだ。ボタンの前に陣取って、扉を閉じるボタンを押す。緩やかに扉が閉じて、エレベーターが上昇を始めた。
目指す先は三階だ。雑談をする暇もなく目的の階へと到達する。扉が開くと全が先行する。その後に続いた。
「ホテル自体に用があるわけじゃない。追手の目を撒けるならどこだってよかった」
「追っ手?」
「十中八九家はバレてる。俺たちが出かける度に尾行はされてると思った方がいい。尻尾を掴まれない限りは放っておいてもいいが、今日ついて来られるのはまずい」
「たしかに個室に入ればそこまでは追ってこられないだろうけど、ホテルからどうやって気づかれずに出るの。従業員用の非常口でも使う?」
口で言うのは簡単だが、従業員用の出入口は客が簡単に出入りできるような場所にはないだろう。よほどうまくやらないとまず従業員に見つかるだろうし、鍵がかかっているかもしれない。鍵の入手もとなると難易度は跳ね上がる。まず無理だろう。
「いいや」
首を横に振り、三〇三号室の差込口にカードを差し込む。ぴぴ、と電子音。それに続いて内部の金属が動いて解錠されたのが音でわかった。それを聞いて、全がドアを押し開ける。そして中へ。俺も続いた。
「出るのは正面玄関からだ」
「……尾行されてるならまず正面玄関は見張られてるでしょ」
折角尾行から一旦逃れられたのに、正面玄関から出ればまた見つかる。それじゃ意味がない。だがそう言うからには何か策があるんだろう。背後でドアが閉まる。そこで背負っているリュックの重みを思い出す。ぱんぱんに膨らんでいるわりにはそれほど重くはない。中身については教えてくれなかったし、確認する暇もなかった。
「もしかして、変装でもするの?」
「そうだ。でもお前が思っているようなものじゃない」
変装に種類なんてあるものだろうか。
「吸血鬼はたいていのことはできる」
部屋の半ばまで進んだところで足を止め、くるりと回ってこちらに向き直る。それからおもむろにシャツを捲り上げた。
「えっ!?」
動揺している間にシャツを脱ぎ捨て、プラジャーが剥き出しになる。赤い、レース
のあしらわれた派手なものだ。それに目を奪われて、目を逸らすのが遅れた。流れる手つきで、そのままブラジャーにも手をかける。気づいて、慌てて目を逸らした。中身が全であっても外見は完璧に妙齢の女性そのものだ。見てはいけないものだという意識からは逃れられない。
必死に目を逸らしている間にも布擦れの音が絶え間なく聞こえてくる。視界の端にスラックスやパンツが映り込んでくる。どうやら全部脱ぎ捨てて全裸になっているらしかった。なんで急にそんなことを始めたのかわからない。裸でいることを好む、なんてことは俺の知る限りはなかったはずだ。
「聖」
「な、なに」
「こっちを見ろ」
「それより先に服着てよ」
いくら中身が伴っていないと言っても女体はみだりに見ていいものではない。それくらいの常識はある。たとえ本人が気にしていないとしても、回避できるのならできる限り見るべきじゃないと思う。
この状況で全へ顔を向ければ裸体を正面から目にしてしまうのは間違いない。そんな状況ではいくら言われようと目を向けることはできない。
「聖」
「だから、服着てって」
自分の方に向けたがる全と頑なに拒む俺。その間で同じ問答が何度か繰り返されたが、折れたのは全の方だった。
深々と溜息を吐いて、脱ぎ捨てた服をいくらか拾い上げたのが目を逸らしていてもなんとなくわかった。服を着る気になったのか。服を着てくれるのならと視線を上げる。
「げ。まだ服着て、な……?」
全は服を拾い上げはしたものの、着てはいなかった。ただ譲歩してはくれていたようで拾った服で身体の重要な部分を隠してはくれていた。際どい姿ではあるが、ぎりぎり直視できるラインではある。
それよりもだ。それ以上の問題に気を取られて文句を言うどころではなくなってしまった。全は、また姿を変えていた。これまで見慣れて馴染んでいる成人男性の姿ではなく、先ほどまでの母の姿でもない。女性だ。母と同じくらいの背格好のベリーショートの女性。両の頬に散らばるそばかすが印象的で、二十代中頃くらいの歳に見える。口を歪め、不機嫌そうにこちらを見ている。
「吸血鬼はたいていのことはできる。こんな風に姿を変えることもできる」
「それは、知ってるけど」
「そうか? だがすべてじゃない。俺が姿を変えることができるのは自分だけじゃない」
そう言って一歩踏み出す。真っ直ぐ、こちらに向かってくる。足が止まる気配はない。
姿を変えられるのは自分だけじゃない。それはつまり、他のものの姿を変えることもできるということだ。この場でその事実を口にするということは、何か意味があるんだろう。この場合、どういう意味になるのか。少し考えれば想像くらいはつく。そしてこの場合、無抵抗でいるのはまずい気がする。
だが逃げたところでどうなる。そもそも吸血鬼だと言う全から逃げ切ることなどできるのか。うまく逃げたとして、それからはどうする。一人になったところを全の追っ手だと言うあの男に狙われないとは限らない。全のやることならば取り返しのつかないようなことにはならないんじゃないか。育ての親だ。そう信じたい。だからよくないとわかっていても動けなかった。
みるみるうちに距離が詰まって、手が伸びてくる。そして肩に軽く手を置かれた。ーーその途端、視界が歪んだ。
目眩を起こした時の感覚と似ている。平衡感覚をなくして真っ直ぐ立っていることが難しくなる。よろよろと左によろめいて、踏みとどまる。ぐるぐると回る視界に耐えていると次第に落ち着いてくる。
「ちょっと……なに、したの……」
感覚が元に戻って、文句を言う余裕もできてくる。吸血鬼は人に目眩を起こさせることもできるのか。すごいのかそうでもないのか判断しかねる能力だ。少なくともそうされて愉快な気持ちにはならない。文句を言う権利はあるはずだ。
顔を上げる。そうすることで服が肩からずり落ちた。
「……は?」
着ていた服は身体にフィットしたちょうどいいサイズのもので、激しく動いたところでずり落ちたりはしない。だが実際は服は肩からずるりと落ちた。服が大きくなったのか、もしくは俺が小さくなったのか。おかしいのはそれだけじゃない。声が、おかしい。自分の声にしては妙に高い。まるで女性のそれのようだ。
「こんな感じで、他人の姿を変えることもできる」
「……は!?」
言われてみれば視点がいつもより低い気がする。声が高い、服が大きい。手もひと回り小さいように思う。嫌な予感がする。認めたくはない。だがそれゆえに確認せずにはいられない。
ベッドの横に化粧台。それに向き合うようにして確認をする。そこには顔を青くした女性が映り込んでいた。
「二人共姿を変えれば尾行は撒ける」
「………だからって……せめてこう、事前に言うとか……」
「言ったら嫌がるだろ」
「そりゃまあ……」
いきなり女にすると言われて簡単に受け入れられる気はしない。でもだからっていきなり実力行使は乱暴過ぎるだろう。
「お前が持ってきたリュックの中に下着以外の着替えが入ってる。それに着替えろ」
「……着替えてどうするの」
自分の身体なのになにもかもが自分のものじゃないように思う。自分で発した声のはずなのに他人のもののように聞こえる。
「言ったろ。お前のその姿に合った下着を買いに行く」
ツッコミどころは色々とある。だが当然のことのように言い切るのに結局は何も言えなくなってしまった。
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