嵐前の放課後

 非日常的なことが起こったところでそうそう日常が崩れることはない。叔父が血だらけで帰ってきたとして、叔父が実は叔父ではなくそれどころか吸血鬼であったとしても生活は変わらない。家まで特定されていた場合、生活リズムが変わるのはいよいよ怪しまれるということでこれまで通り学校に通うようにと言付けられていた。

 好き好んで学校を休みたいとは思わない。普段通りにした方がいいとまで言われるのであれば通学を続けることになんの迷いもなかった。狙われているらしい叔父を一人きりにしておくのは心配だったが、俺がいたところで何か変わるわけでもない。むしろどちらかとえ言えば足手まといになるような気がする。

 通学は電車を利用する。最寄り駅からの移動手段は徒歩。十五分ほど歩くと自宅に帰り着く。毎日歩いて帰るにはやや距離があるが、自転車を持ち出すほどではない。最寄り駅の駐輪場には屋根がなく、雨風にさらされると傷むので通学に自転車を使うのは避けていた。だから今日も最寄り駅から己の足で帰路につく。

 電車通学になったのは高校生になってからだが、もうすっかり慣れた。これまで最寄り駅に立ち寄ることはなかったものの場所は当然把握していたし、最短ルートももうわかっている。用事がなければ寄り道をすることもないし決まった道を通って帰宅する。

 このあたりは決して都会とは言えず、学校が終わった夕方となると人通りはかなり少ない。すれ違う人もだいたい同じ顔ぶれで、通い始めて一ヶ月もしないうちにすっかり見慣れてしまった。だから知らない顔があればすぐに気づく。


「やあ、こんにちは。ちょっといいかな」


 帰り道、住宅に挟まれた公道の中央。見慣れない男が立っていた。

 ちくはぐな外見をしている男だ。歳は二十代半ばくらい。黒のスーツ。赤のネクタイ。それだけ見ればただの社会人に見えただろう。だが足元に目をやれば彼が履いているのは革靴ではなくスニーカーだった。随分と長く履いているのが汚れが目立ち、端々が破れ始めている。それに、上の方にも目が行く。まずは頭髪。耳にもかからないレベルに短く切られた髪は金色と茶色がまばらに混じっている。ワックスで遊ばせているのか毛先は重力を無視した方向に跳ねて回っている。それから耳にはピアスによって大穴が空いている。おおよそ、学生ながらに想像する社会人の風体とはかけ離れていた。

 見慣れない男だ。だが知っている。この男はーー昨夜叔父が化けて見せた容姿そのままだった。


『俺を見つけて追い回してる男はこんな奴だった。多少変装くらいはするかもしれんが人間だからまるきり顔変えたりはできないだろ。この顔を見かけたら距離を置け。関わるな』


 叔父と会ったその時はスーツを着ていたとは聞いていたが、まさかそのまま現れるとは思わなかった。完全な一般市民だと認識しているうちは攻撃を加えてきたりしないだろうとは言われている。だが絶対じゃない。吸血鬼なんて実在しているか怪しいものを執念深く追いかけている奴なんてどこかおかしい。真っ当な対応を期待してはいけない。そう言い聞かされていた。

 警戒しなくてはいけない。だがここで露骨に逃げ出すのも関わりがあると暴露しているようなものだろう。怪しい風体をしてはいるので不審に思うくらいはおかしくはないか。


「実は僕は警察の者でして、このあたりの人に話を聞いてるんだ」

「……警察手帳を見せてください」


 この男が叔父が言う通りの男であるなら警察であるはずがない。警察手帳の提示を求めればぼろが出るはずだ。出さないのなら不審者として逃げてもおかしくはない。一対一で話すべきじゃない。この場を離れる理由がほしかった。


「疑り深いね、いいことだ。今時はまともぶった変な人も多いからね」


 それは今まさにあんたのことじゃないのか。そう指摘したいのを堪えていれば、男は胸ポケットから手帳を取り出す。慣れた手付きで片手で開き、こちらに向けて中身を見せた。


「……安藤あんどうみのるさん」

「そう、安藤です。よろしく」


 上下に開く、黒の手帳。上部には顔写真と警部補の記載。そして安藤稔と名前が印刷されている。手帳の下半分には警察の紋章がくっついている。

 素人目に見る限り、本物のように見える。本物か、もしくはうまく作られた偽造品か。どちらにせよそれを見抜く方法はない。それらしいものを掲示された以上はひとまずは信じるしかない。そうしなくては不自然だ。

 ぱく、と手帳を閉じて胸ポケットにしまいこむ。


「このあたりに不審な男がいるみたいなんだ。見かけてないか話を聞きたい」

「どんな男なんですか?」

「身長は百八十くらい。黒の少しウェーブした黒髪で、吊り目で唇は薄め。その時の服装は黒のハイネックに青いジーンズだったそうだ」


 叔父の特徴と一致する。服装に関しては血まみれで帰ってきた時のものと同じだ。警察を名乗り、不審者ということにして叔父を探しているのか。この土地に根付いていれば聞き込みで炙り出せるかもしれない。だがこんな不信な姿で近隣住民は快く応じてくれるんだろうか。


「……さあ。見てないですね」


 少なくとも俺はNOだ。俺の保護者が探し人だと、そこまで調べがついているのならはぐらかした方が危ない。だが正直に白状したとして、それはそれで危ないだろう。だからどちらにせよ俺にはとぼける以外の選択肢はない。


「……そう。じゃあその怪しい男を見かけた時には連絡してほしい」


 怪しまれている様子はない。安藤は千切ったメモ用紙を懐から取り出してこちらに差し出す。そこには手書きで電話番号らしきものが書きつけられていた。


「僕の携帯の番号」

「……わかりました。見かけることがあれば連絡します」


 こういう時は警察署に連絡するように言わないだろうか。最初から思っていることではあるが、警察を装うにしても演技が雑過ぎはしないか。

 俺との関係性までは掴めていないのか、いやにあっさりと引き下がる。これ以上食い下がると怪しまれるというのもあるんだろうが。

 もらったメモ用紙をしまい込み、軽く会釈をしてその横を通り過ぎる。引き止められることはなかった。ひとまずは怪しまれずに済んだだろうか。だが安心はできない。あの調子で聞きまわっているのなら住居が知れるのは時間の問題だろう。叔父は近隣住民と親しくしているわけでもないが、長く同じ地に留まっていればどうやっても顔は知れる。この怪しさ満点の男に情報を渡す人間がいないことを願うばかりだ。

 警戒しながら自宅への道を踏みしめる。その足が徐々に速くなっていくのが自分でもわかった。


「……なんでついてくる?」


 話をして、有益な情報は提供できないとはっきり伝えた。それなのに安藤がいなくなる様子はない。俺が完全に通り過ぎると距離をあけてついて来る。試しに足を止めて振り返ってみれば携帯端末に目を落としてのたのたと後ろを歩いているのが見える。その様子をそのまま見ていれば携帯の画面に集中している素振りで足を止める。尾行にしてはあからさま過ぎる。

 もしかするともう叔父のことがバレているんだろうか。そうだとすれば待ち伏せしていたかのように帰路にいたのも納得が行く。だがそうだとすれば、このまま真っ直ぐに帰るのはまずいんじゃないのか。叔父は顔が割れたのはしばらく違う姿でいると言っていた。それなら顔を合わせるくらいは問題ないか? いや、でも住居まで知られているのだとしたら姿を変えたところでたいした意味はない。叔父が吸血鬼だと知って追っているのだとすれば姿を変えられることも知っているはずだ。それならやはり会わせないのがいいか。

 今からでもどこかに寄り道をして、叔父に確認を取ってみるべきか。いくら考えても結論は出ない。結局どれを取ることもできずにいれば、止めなかった足は自宅の目の前にまで辿り着いてしまった。


「……どうしよう」


 ここが自宅だともうバレてるんだろうか。バレていないのだとすれば帰るべきじゃない。ここでずっと立ち止まっていればここが自宅だと教えているようなものだ。だけど帰らず一人でいて、命の保証はあるのか。叔父が人間ではないことはわかった。だからと言って容赦なく攻撃を仕掛けてくるなんて普通じゃない。そんな相手に尾行されている状態のまま一人でいるのは恐ろしいことだ。帰るか。帰らずになんとか撒くか。駄目だ。答えが出ない。この状況に陥ることは予想できたのだからどう対処すべきかくらい教えておいてくれてもよかったんじゃないか。

 ぎ、と軋む音が小さく。前方からだ。その音に反応して顔を上げれば玄関の扉が開かれ始めるところだった。帰宅したものの一向に入ってこないことに気づいて内側から開けてくれたのか。そうだとして、大丈夫なのか。

 ほっそりとした腕が玄関の扉を押し開ける。止めることもできずにただそれを眺めている。いつもの叔父の腕でないことだけはわかった。適当に姿を変えておくとは言っていた、が。


「…………母さん」

「おかえりなさい。どうしたの、ぼうっと立ちっぱなしで」


 どうして母がここにいる。叔父に引き取られた日から会ったことはなかったし、連絡だって取っていなかった。そもそも引き取られてから一度引っ越しているので物理的な距離も相当にあるはずだ。それに、母は俺にそんなに優しい言葉をかけたりしたことはなかった。

 顔立ちは間違いなく母そのものだが、記憶にある母とは乖離している。それに、目の前の女性が母であるのならもっと老け込んでいるはずだ。目の前の母は最後に見た記憶からそのまま抜け出したかのようだった。ーーああ、そうか。叔父だ。


「頼まれてた牛乳、忘れてたの今思い出して。今からでも買って来ようか迷ってた」

「学校から帰るならついでにって頼んだだけだから急いでないわ。明日買ってくるから気にしないで」


 適当な人間に化けるとは言っていたが、まさか母の姿とは思いもよらなかった。それはちょっと趣味が悪いんじゃないか。というか、性別も問わずに姿を変えられるのか。

 一瞬パニックになったがなんとか持ち直して適当にそれらしい嘘をつく。叔父はストーキングされていることに気づいているだろうか。わからないが、ここであからさまに告げるわけにもいかない。だから家の中に入る際、すれ違いざまに例の男につけられていることを耳打つ。


「ああ、それならもう家までバレてるのかもしれんな」


 母の声だが、母はそんな話し方はしない。やはり母の姿を模した叔父だ。

 叔父は俺が家の中に入ったところで玄関の扉を締める。怪しまれないように早すぎず、遅すぎもしないいつもの速度だ。扉が完全に閉じきって金具が噛み合う音がする。そこまで聞こえたところで叔父がその細い指で鍵をかけた。普段はしないくせにチェーンまでしっかりとかけていく。


「その気になればこれくらいの鍵壊してくるだろうがな」

「……その姿はちょっと悪趣味じゃない?」

「お前が俺を見て誰だ、みたいな反応しないように知ってる顔になっててやったんだろうが」


 そう言われてみると全く知らない顔に出迎えられれば一瞬怪訝な顔をしてしまったかもしれない。だがそういうことならあらかじめどんな姿をしているか教えておいてくれればいい話だろう。考えがあったことはわかったが悪趣味であることに変わりはないと思う。


「大丈夫なの?」

「ここに俺がいるって確証が持てるまでは大丈夫だろ。無関係の人間しかいない家をいきなり襲ったら流石に問題になるからな」


 吸血鬼が混じっていれば問題にならないのか。一体どういう仕組みなのか。


「とりあえず今日の走り込みはやめておけ」

「言われなくても行かないよ」


 日課を欠かすのは気持ちが悪いが、あんな怪しい男にまた付け回されるかもしれないのに外に出て行けるわけもない。もしかするとしばらくはこんな生活が続くのかもしれない。そうだとしたら憂鬱だ。


「……殺すの?」

「殺さない、予定ではある」


 絶対に殺さないと言わないあたり誠実ではあるのかもしれない。叔父は俺が協力すれば殺さずに追い払えるかもしれないと言った。俺はそれで協力することを決めたが具体的に何をするのかはまだ伝えられていない。直接危害を加えるようなことをさせられるのだとしたら、やれる自信がない。それでもやらなくてはいけないのだとすれば、せめて覚悟を決めるために早めに教えてほしいと思う。


「週末、出かけるぞ。そのつもりで準備しとけ」


 唐突にそう告げられる。有無を言わさぬ物言いだ。俺の予定なんてお構いなしか。

 幼い時は休みの度になにかと外に連れ出してくれていたが、最近はめっきりなくなった。動物園や遊園地ではしゃぐような歳でもなくなった。大人に近づくに従って、一緒に過ごす時間は減っていく。だから一緒に出かけるというのはかなり久々のことだった。


「出かけるってどこに?」

「ブラジャーを買いに行く」

「……は?」


 聞き間違えではなかったはずだ。だけど意味はわからない。ブラジャーというのは女性がつける下着の一種で……叔父は女性になることもできるので下着は必要なのか? だがそうだとして、何故俺がそれに付き添わなくてはいけない。


「朝のうちに出るからな、今日はさっさと寝るぞ」

「ええ……?」


 衝撃発言をするだけして、ろくな説明もなく完結させてしまった。こうなるといくら聞いても無駄だ。説明をしないのはそれよりも実際に見た方が、体験した方が早いと思っているからだ。

 こうなると待つしかない。今は夕飯のことでも考えていよう。叔父のことも、外にいるであろう男のことも、週末の外出も、考えたところで答えは出ない。だから考えることは放棄して、ひとまずは叔父の指示に従うことにした。

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