答え合わせの黄昏

 叔父は熱いコーヒーを好む。ミルクは入れない。砂糖の量はその時々の気分で変わる。熱いものが好きだからと言って熱さに耐性があるわけでもないようで、コーヒーを飲む時はこれ以上なく眉間に皺が寄っている。

 ずず、とコーヒーを啜る。シンクを背もたれに、テーブルにつく俺を見下ろしている。俺の目の前にはホットミルク。子供の頃からあたたかい飲み物と言えばこれだ。特別好きなわけでもないが作ってもらっておいて文句を言うわけにもいかないのでいつも黙って飲んでいる。


「俺は吸血鬼で、お前の叔父じゃない。養子として引き取ったことになってるから戸籍上は父だな」

「は!? そうなの!?」


 そのあたりの話も何もされなかった。俺を引き取って育てていてもなんの問題も起きていないということはそのあたりの手続きはしているんだろうとは思っていたが、まさか父とは。


「待って。叔父さんが叔父じゃないなら俺にとって、何なの」

「なんでもない。困っている子供の前を偶然通りすがった男だ」

「…………は」


 母に母らしいことをしてもらった記憶はない。暴力を振るわれることこそなかったが、邪魔者として扱われていたのは幼いながらにわかっていた。少しでも反抗をしようものなら凄まじい罵声が次々にぶつけられ、家の中は嵐が過ぎ去ったように滅茶苦茶になる。

 母が見知らぬ男を家に招く時は俺は家から出て行かなくてはいけなかった。真夜中だろうが真冬だろうがそれはお構い無しで、俺は大人に見つかってしまわないように隠れ場所をいくつか探して、そこに蹲って時間が経つのを待っていた。そんな時に叔父に出会った。


「長く生きてると本当に困ってるかどうかくらいはわかる。あの時、行き場がなくて困ってただろ」


 あの時、何時間か待っていれば家に戻ることは許されただろう。だけど寒かったし、空腹だった。叔父だと、自分と同じ姓を名乗った男のことを信用してついて行ったかつての自分を責められるだろうか。


「でも、苗字一緒じゃん」

「お前が家から度々放り出されてるのは知ってたから調べたんだよ。苗字はお前に信用されるためにそう名乗って、ついでに戸籍上もそういうことにした」

「は、何。そんなこともできるの」

「それくらいのデータ改竄できなきゃ人間社会で生きていけないんだよ。お前は孤児ってことにして養子にした」


 そんなことができるのか。それなら本当にこの人は俺の叔父で、母から引き取ったのだと言われた方がまだ筋が通っている気がしてくる。母なら俺を手放すことを拒みはしなかっただろう。


「……なんで、そんなこと」


 子供を一人引き取って育てて、それになんの意味がある。叔父だと言うのならまだ納得もできていた。だがなんの関わりもないとくれば理由がわからない。


「時に吸血鬼は何を食べて生きていると思う?」

「何って……血、じゃないの?」

「そうだ。人間の血が主な食料だ」

「でもいつも俺と同じもの食べてたじゃん」

「主食にならないだけで食べられないわけじゃない。ただ人間で言うところの駄菓子みたいなもんだからな。たいして腹は膨れない」


 実は叔父ではなかったのだと言われてもすぐには受け入れられない。長らく使っていた呼称を簡単に変えることもできなかったが、叔父がそれを咎めることはなかった。叔父ではないのであれば全さんとでも呼ぶべきなんだろうか。


「主食は人間の血だが、だからといって人間を襲って血を吸ってたら足がつく。吸血鬼は人間よりも強いが、数は人間の方が上だ。一度存在を捕捉されたら終わる。だから俺達は慎重に食事をする必要がある」

「それ、輸血パックとかじゃ駄目なの? 吸血鬼ものでよく見るけど」

「あれは足がつきやすいし、何より鮮度が悪い。好みじゃない」


 人間の血であればなんでもいいわけじゃないらしい。思い返してみれば叔父は我が強いところがある。食事に拘りがあってもおかしくはなかった。らしいと思えることに安堵する。だがこの話の流れは俺にとってあまりいいものではないようにも思えた。人間の血を欲している吸血鬼が子供を育てている。何故だ。


「叔父さんが俺を育ててたのは食べるため……?」


 人間だって牛や豚を育てて食べている。吸血鬼が同じようにしたっておかしくはないだろう。これまで血を吸われたことなんてないが、一番美味しい状態になるまで待っていたのかもしれない。そうだとすれば俺はどうするべきだろう。逃げる? どこへ? 警察を頼ったところで保護者という肩書がある以上は連れ戻されるのが目に見えている。そもそも自在に姿を変えられるような能力を持つ相手から逃げられるのか。あの口ぶりだと他にもできることはあるんだろう。手の内を知らないまま逃げ出したところで勝算は低い。


「そう警戒するな。外れちゃいないが食い殺したりはしない。そのつもりなら学校に通わせない方が都合がいいはずだろう」


 それはそうだが、高校は義務教育から外れている。突然通わなくなったところでそこまで不自然には思われないんじゃないだろうか。だが初めから食べるつもりなら学校に通わせる必要がないというのは確かに一理ある。賢くなったところで血が美味くなるわけでもないだろう。信じたいが、信じていいのかわからない。


「お前の血が欲しくて引き取ったことは否定しない。だが命に関わる量は取らない。献血レベルの血をたまに吸わせてくれればいい」

「……嫌だって言ったら?」

「見返りはあるだろ。これまで何不自由なく生きて来られたし、取引に応じている間は死ぬまで面倒見てやる。それなりに長生きはしてるがそれでも順当にいけばお前より長く生きるからそのあたりも心配しなくていい」


 それはつまり断れば今の生活を失うということか。失えばどうなる。まず高校には通えなくなるだろう。放り出され方によっては明日生きることさえもままならなくなるかもしれない。叔父の元を離れるにしても今の俺には自力で生きるすべがない。命に関わる量の血は吸わないというのは信じてもいいだろうか。


「いくつか質問がしたい」

「構わない」

「血を吸うつもりならなんでこれまで吸わなかったの」

「ある程度育ってる方が美味いからな。一度に吸える量も増える」

「学校に通わせたのはどうして」

「俺の要求を断る選択肢を現実的にするためだな。俺からすれば人間は食料だが、意思疎通ができて知性もあるならそれなりに誠意は見せる。無理やり従わせてもろくなことにならん」

「経験談?」

「そうだな」

「……俺は叔父さんにとって単なる食糧だった?」


 ずっと聞きたくて、だけど同時に聞くのが怖かった。叔父さんと、その呼び方を未だに捨てきれないでいる程度には彼に対して愛着がある。何故ここまでよくしてくれるのか。血縁だというだけでは説明がつかないのではとは思っていた。叔父が吸血鬼で、俺を食糧として飼っていたのであれば頭では納得ができる。だが心の方が傷つくのはわかりきっていた。だからこれまで聞かずにいた。だけど、これからも一緒にいるのならそれをはっきりさせないわけにはいかない。

 どくどくと心臓が跳ねている。気を抜くと息を詰めてしまいそうになる。ひどく緊張しているのが自分でもわかる。些細な一挙動さえも見逃さないように目を凝らして叔父を観察する。

 返ってきたのは嘆息。呆れが滲んだそれに、ずきずきと胸が痛む。


「理想的な血を飲むために手塩にかけて育てていたところはあるな。だがそれだけのためにここまではしない。人外にも情はある」


 だから問答無用で襲ったりはせずにこうして取引を持ちかけているわけだしな、と。言われてみればそうだ。きっと力づくで俺を抑え込むなんて簡単なことだろう。そうしないのは俺の意思を尊重してくれている、からなのかもしれない。

 愛情を、これまでの暮らしを全否定されなかったことに安堵する。利害が絡んでいたことに落胆しなかったと言えば嘘になるが、他人にそこまで期待するのは望み過ぎというものだ。血を分けた相手であっても無条件で愛情を注いでくれるわけではないことを知っている。そういう意味では他の意図が絡んでいる方が納得できるので安心だ。


「じゃあ最後にもうひとつだけ。人間に気付かれないように慎重に食事をしなくちゃいけないってことは、人は殺さないってこと?」


 聞いたところでどうする。そうだと言われたところでどうする。そんなことは許さないと言ったところでなんの強制力もない。力づくで従わせることもできない。人間だって他の生き物を殺して食べて生きている。吸血鬼相手では人間が捕食される側に回るだけだ。わかっているけれど、人を殺すかもしれないのに何も知らないまま見過ごすことはしたくなかった。

 どうか肯定してほしい。ひっそりとそう祈りながら返答を待つ。じっとこちらを見下ろすその表情からは何を読み取ることもできなかった。


「基本的には殺さない。言っただろ、人を殺せば足がつきかねない。……だがそうも言ってられない時もある。今がそうだ」

「……俺を殺す?」


 ここにいるのは俺だけだ。状況によっては殺すこともありうる。俺は秘密を知ってしまった。取引に頷かなければその存在を人間界に知られるきっかけにもなりうる。危険因子だ。取引に応じなかった場合のことは具体的には話さなかった。それはつまり殺すので先はないということではないのか。


「おい待て。早合点するな。お前の話じゃない」

「……じゃあ今ってどういうこと」


 信じていいのか、疑っていなくてはいけないのか。気持ちと頭が別々の判断を下していてどちらにつくべきか迷っている。頭が痛い。できることなら信じたい。だけど叔父はーーこの人はずっと正体を偽っていた。信じていいのかわからない。人間でないことは間違いないが、吸血鬼というのももしかすると嘘かもしれない。


「帰って来た時、怪我してただろ。あれ、吸血鬼ハンターに襲われたんだよ」

「…………そんなのいるの?」

「厳密には俺たち専属ってわけでもなさそうだったから退友会の連中だろう」

「退友会?」

「人外の化け物を退治して回ってる根暗な人間共だよ」


 吸血鬼をはじめとする人外はある者は人間社会に溶け込み、ある者は人間の寄り付かない奥地に隠れて暮らした。方法は違えど皆、人の目から逃れた。だがお伽噺の中にその存在が残っている程度にはまだ隠れきれていない。もはや空想上の生き物と化したそれらを実在すると信じて、実際にそれらを退治するための組織ーー退友会。


「うっかり見つかった。不意打ちだったんで逃げてきたが、今ならまだあいつ一人始末すればバレないだろ。あいつら組織ってわりに繋がりが薄いからな」

「……見つかったからその人を殺す?」

「そうしなきゃ俺が身の破滅だ。引っ越しってのもありだが時間稼ぎ程度にしかならんだろうな。お前も、せっかく入学したばかりなのに転校したくないだろ」


 思いもしない方向から話を振られた。退友会なる組織の人間に追われているとして、逃げるなら様々なものを捨てなくてはいけないだろう。この家から出るのはもちろんのこと荷物だってどこまで持ち出せるのかわからない。逃げることが目的ならば遠く離れた地に行くのだろうから学校だって同じところへは通えなくなるだろう。俺も一緒に行くならの話だ。


「逃げる場合、俺も行くの?」

「高校生で一人暮らしは早いだろ」

「……そこなの?」

「俺達と関わっていた人間が一緒に退治された前例もある。あいつら、人間なら危害を加えてこないってわけでもないぞ」

「え」


 吸血鬼とそれを退治する人間。どこか別の世界の話だった。だがいつの間にか俺も巻き込まれているらしかった。


「こ、殺される?」

「退友会の奴がまともなら見逃してもらえるかもな」


 それは、そうでなかった場合は殺されるということなのか。もったいぶった言い方をせずにきっぱりと教えてほしい。昔からもったいぶった言い回しをするところがあるが、今回はやめてほしい。

 正直なところ、命の危険が迫っていると言われても実感がない。だけど叔父が怪我をして帰ってきたのは初めてのことだった。すぐに治してしまえるのにわざわざ怪我をした状態のまま帰ってきたのは何故か。治るまで待つ余裕がなかったか、すぐには治せないほど深い傷を負わされていたか。服にこびりついている血の量と怪我の状態が合致していなかったのは治りかけていたからだとすれば納得が行く。すぐさま傷を治せて、違う姿に化けられるような存在にここまで傷を負わせることができる人間が近くにいる。そしてその標的に俺も含まれるかもしれない。ぞっとした。

 だけど、どうすればいい。


「こ、殺されるから殺すの?」

「仕方ねえだろ」


 殺されるから殺す。正当防衛だ。だけどそんな簡単に割り切れるものでもない。理由をどうあれそんな簡単に人を殺していいのか。言動に迷いように思う。このままだと叔父は本当に殺してしまう。


「人を殺すのはよくないと思う」

「だから大人しく殺されろって?」

「そういうわけじゃないけど」

「今の言い方だとそういうことになるんだよ」

「ぐう……」


 人を殺すのはよくない。そんなことは叔父だってわかっているはずだ。だけど野放しにしていれば自分に危険が及ぶ。だから放っておくことはできない。それもわかる。


「説得してみるとか」

「問答無用でやられたんだ。対話できるとは思えんな」


 軽く腕を掲げ、ざっくりと裂けた服を見せつけられる。なんとか血を落とせたとしてももう捨てるしかないだろう。少し縫い合わせたところで誤魔化せるような状態でもない。これが問答無用で行われたのだとしたら説得というのは難しいかもしれない。人間である俺が矢面に立てば少し話すくらいはいけるかもしれないが、仲間だと思われた時点で同じように攻撃を受ける恐れがある。その場合、俺に身を守るすべはない。危険過ぎる。


「で、でも殺すのは」

「そうだな。殺したところでもしももう誰かに連絡を入れてればいよいよ逃げられなくなる。俺としてもできれば殺すのは避けたい」


 殺すのは悪手である。理由こそ違うもののその点においては同じ意見であるらしい。それならなんとか殺さない方向に落ち着くことはできないだろうか。あちらが攻撃を仕掛けてくる以上、穏当に済ませることは難しい。


「警察に相談する、とか」

「不審者にいきなり切りつけられましたって? 傷が残ってればそれも良かったかもな」


 血で汚れた衣服だけでは証拠として弱い。警察に駆け込んだところでまともに相手はしてもらえないだろう。街の監視カメラでうまく現場が押さえられていたとしてもそれなら傷ひとつ負っていないことが異常だと気づかれてしまう。どうすればいい。考えろ。

 入れてもらったホットミルクはすっかり冷めきっている。表面に膜が張っており口をつければそれがくっついてくることは自明だ。わかっていて口をつける気にもなれずにぼんやりとマグカップの中身を見つめる。


「本来なら見つかった時点で殺すしか手段がない。だが、今回はお前の協力があれば穏便に解決できるかもしれん」


 ぐっと一気に残っていたコーヒーを煽る。一口も飲んでいなかった俺とは対照的だ。


「どうする?」


 俺と同じ姿をした叔父がそう尋ねる。俺の意思を尊重している。そう振る舞ってはいるが実際のところ、選択肢なんてあってないようなものだ。断ればこの生活を失い、人が死ぬ。どちらも回避するための返答はひとつだ。


「俺は何をすればいいの」


 そう返せば叔父は、俺が決してしないであろう悪どい笑みを浮かべた。

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