変質の夕刻

 高校進学にあたり、受験先には悩んだ。叔父の世話になっているというのは遠慮する理由としては充分だろう。職業不詳で金銭状況がわからないのであれば尚更だ。なんなら進学はせず、中卒で働くのも有りだとすら思っていた。だがそれを阻んだのは他でもない叔父だった。


「好きなところに進学しろ。金のことは気にしなくていい。心の底から今すぐ労働したいと思ってるわけじゃないなら進学はしろ」


 そこから気を遣って近くの公立高校に行こうとしたところを執拗なヒアリングのもと、本当の希望は自宅から通える範囲の場所にある私立高校だと聞き出した。そこからは俺の遠慮もものともせず、半ば強引に希望の私立高校への受験資格を持って、努力の末に入学資格を得た。

 高校生になって、通学距離も延びた。新しい環境に適応するのに手一杯で、気づけば一日が過ぎている。そんな状態でも日々の日課はまだ欠かしたことがなかった。

 毎日、帰宅してから家の周辺を走り込む。短くて三十分、長くてもせいぜい一時間程度だ。叔父は俺に何か強要することはほとんどなかったが、これは数少ないひとつだった。強制なんて大仰なものではない。

 はじめは叔父と一緒だった。身体を鍛えておいて損はないからと叔父の日課に、一緒に連れ出された。身体を動かすのは苦ではなかったし、自分の日課になるのにそう時間はかからなかった。今では一日のどこかで走らないと落ち着かない。だから今日も帰宅するなり動きやすい服に着替えて走りに出かけた。




 走っていたのは三十分程度だ。学校から真っ直ぐ帰ってきたので帰ってきてもまだ日は暮れきっていない。


「ただいま」


 声をかけても返事はなかった。玄関に叔父がいつも履いている靴がない。学校から帰ってきた時にもなかったのでどこかに出かけているらしかった。叔父が普段何をしているのかは知らない。行き先は言ったり言わなかったり。今回はどこに行っているのか知らない。告げないということは夕食までには帰るつもりなんだろう。

 汗で身体がべたついている。額に湿った髪が張り付いていって鬱陶しい。眼鏡が汗と埃で汚れて視界が悪い。眼鏡も身体も、一度洗って綺麗にする必要がある。ジャージを脱ぎながら浴室へと向かう。さほど長くない廊下を歩いていればすぐに脱衣所にたどり着く。既に脱いでいたジャージの上着を洗濯機に放り投げて、残る衣服ももそもそと脱ぎ捨てていく。

 一糸纏わず踏み入れた浴室はかすかに肌寒さを感じる。だがそれもじきに気にならなくなるだろう。

 汚れを落とすと決めたまではいいものの、さてどうしたものか。湯を張るにはまだ早い。シャワーでざっと洗い流すだけでいいだろう。そう判断してハンドルを捻る。すると頭より高い位置に引っ掛けられているシャワーノズルから水が降り注いでくる。それが完全な水だったのは数秒のことで、すぐに適度な温度の湯に変わる。ほう、と口から安堵の息が零れ出る。たいしたことではないと思っていたが、意外と寒さを感じていたらしい。

 あたたかい湯に、汗と汚れが流されていく。目に見えてあきらかに汚れていたわけでもないのでこうして数分シャワーを浴びただけでも充分なように思える。どうせ寝る前にはもう一度入浴することになるのだから完璧にすべてを洗い落とすこともないだろう。一日に二度も洗髪するのが面倒だというのもある。

 結果、今回の入浴は烏の行水となった。逆向きにハンドルを捻って湯を止める。髪や身体に残っている水気をぶるぶると軽くふるい落とす。それでも完全に水気が切れたわけでもなく、少しじっとしていると毛先からぽつぽつと水が滴り落ちてくる。それが脱衣所の床を濡らす。あまり床を濡らしてしまうのはよくない。

 棚におさめられているタオルを一枚手繰り寄せて髪の隙間に入り込んだ水気を拭い取っていく。それですべてが拭えたわけでもないが、ひとまず水が滴り落ちることはなくなった。それに満足して今度は身体の水気を拭き取っていく。

 走り込みに出る前に脱衣所にはあらかじめ替えのスウェットを用意している。戻ってきた時に汗を流すのはいつものことで、その後の用意を済ませておくのも日課のうちだった。

 着倒してすっかり馴染んでしまっている灰色のスウェット。それを着込んだところでほう、と息を吐く。髪はまだ少し湿っているが放っておいてもじきに乾くだろう。がしがしとタオルで水気を再度拭い取りながら脱衣所を出る。

 日課はこれで終わりだ。筋力トレーニングをするという手もあるがまた汗をかくのはできれば避けたい。読書もいいが、積んでいる本で今すぐ読みたいと思うようなものもなかった。現在時刻からして夕食の準備をするというのもありか。だが叔父がいない。夕食の準備をするのは基本的に叔父が用意することになっている。そのため、食材を買うのも叔父が請け負うことが多い。冷蔵庫は実質、叔父の領域だ。そこから勝手に食材を選び出して使ってしまうのは気が引ける。今日の夕食に使う予定のものが混じっていたら予定も崩れるだろう。


「連絡……繋がるか……?」


 夕食を作ってもいいか連絡をとってうかがいを取れば問題はないだろう。だがそもそも連絡を取れるのかが怪しい。携帯端末を家に置きっぱなしにしていることも多いし、携帯しているだけで一切触れないまま帰ってくることも多い。出かけている叔父と連絡を取るのは基本的に諦めた方がいいだろう。


「……まあ、いいか」


 なんの連絡もないということはじきに帰ってくるだろう。夕食を作りたいなら叔父が帰ってきてから何を作る予定だったのか聞いてもいい。それまでは勉強でもして時間を潰していよう。まだ高校生になったばかりということもあって勉強についていけていない、なんてことにはなっていないが今後はわからない。油断しているうちに少しずつ置いていかれて気づいた頃には周りとあきらかに差がついている。そんなことにならないように努力はしておかなくてはいけない。

 そうと決まれば向かう先は自室だ。勉強と一口に言ってもどの教科をどんな風に予習するかによってやり方は変わってくる。苦手意識を感じているのは数学なので教科書を眺めながら少し先へ進んでみようか。ぺたぺたと自分の足音が聞こえる。足も一応拭いたはずなのだがまだ濡れていたのか。それもそのうち乾くだろう。と、自室のドアノブに手をかけてーーー。



「……叔父さん?」



 玄関の方で物音がした。ドアが開いた音だ。この家の鍵を持っているのは俺と叔父だけで、インターホンも鳴らさずにドアを開けている時点でおそらく叔父で間違いないだろう。そのうち帰ってくるとは思っていたが自習をする暇もなかったか。

 叔父を出迎えるという決まりはないが、帰宅に居合わせれば出迎えるようにしている。だから今回も迷いなく玄関先へと向かった。気持ち早足になったのはいつもと少し様子が違うように思えたからだ。

 ただ帰宅したにしては慌ただしい物音だったように思う。ドアを開ける音も落ち着きがなくて、その後に何かが床にぶつかるような大きな音がしたのも気にかかる。何か重い物でも買って帰ってきたんだろうか。それなら運ぶのを手伝った方がいいだろう。


「叔父さん。なんか音がしたけど大丈……叔父さん!?」


 玄関先の様子が目に入った途端に思わず駆け出す。玄関では叔父が倒れていた。

 衣服の数カ所が傷ついてそこから出血しており衣服を汚していた。少し出かけていただけでこんな怪我をして帰ってくると言うのは充分に異常事態だろう。派手に転んだ程度でこんな傷にはならないはずだ。


「意識は!? 大丈夫!? あっ、傷……救急箱ってどこにあったっけ?」


 普段使うことは滅多にないが、どこかにあったはずだ。消毒と、それから包帯でも巻くべきか。いや、止血すべきなのか? そのあたりの心得がない。こんなことならもっと勉強しておくべきだった。今からでもインターネットで検索して調べるべきか。付け焼き刃でも何も知らないよりはマシだろう。


ひじり


 動転するばかりで行動に移せないでいると、叔父がもぞりと顔を上げた。動転する俺を、呼んで宥める。出血のせいか顔がいつもより青いように思う。元から血色がいい方ではないので余計に体調が悪そうに言える。


「いい、なにもしなくて。放っておけばそのうち治る」

「なっ、そんなわけないだろ。血だってこんなに出てるし」

「もうほとんど止まってる」

「そんなわけ……」


 不自然に裂けた服。その周りにはべったりと血が付着していてその血の広がり方からしてそれなりに深い傷を負っているはずだ。汚れているせいで傷の度合いを目視することはできない。傷は至るところにあったが迷って、目についた腕を取る。二の腕あたりの服がすっぱりと裂けて肌が露出していた。そこに張り付いている血を、スウェットの袖で血を拭い取った。

 深い傷であればまたすぐに血が出て傷口をしっかりと確認することは難しいはずだ。またすぐに血が溢れてくるだろう。そんな予想は裏切られた。

 血の下に、確かに傷はあった。だが刃物で薄く切りつけたようなもので、申告通りにさほど深くはなさそうだ。衣服に付着している血は今にも布地の許容量を超えて滴り落ちそうだというのに、この状況と傷の状態が合致しないように思う。怪我を見慣れているわけでもないが、それでも違和感を抱くには充分だった。


「あ、じゃあ消毒」

「それも必要ない。そのうち塞がる」

「塞がるって、そんなすぐの話じゃないだろ」


 深い傷ではないと言っても傷は傷で、しばらくは開いたままだろう。心配をかけまいと強がっているのだとしても嘘が下手過ぎる。それで誤魔化せると思われているのなら随分と馬鹿にされている。


「とにかく救急箱探してくるからちょっと待ってて」


 どこにあるかなんてわからないが、救急箱をそんな奇抜な場所に保管していることもないだろう。小さなものでもないし、それらしいところを虱潰しに探していればすぐに見つかるはずだ。これ以上叔父の言い分に耳を貸す必要はない。そう判断して腰を浮かせる。だがそれを止めたのは他ならぬ叔父その人だった。


「聖」


 冷静に、俺を嗜めるように呼ぶ。何を言おうと耳を貸す必要はない。そうわかっているのについ足を止める。俺を叱る時の呼び方だ。怒っているわけじゃないのはわかっているが、それならどうしてそんな呼び方をするのか。


「……なに」

「救急箱はいらん。勿体ない」

「そんなわけ、」

「いいか、見てろ」


 そう口にしたかと思えば先ほどの二の腕の傷を反対の手で覆い隠してしまう。圧迫して血を止めるにしてはあまり手に力が籠もっていないように見える。見ているように指示したのだからその動きを見ていればいいんだろう。だけどそれによって何を伝えようとしているのかは全くわからなかった。

 傷を覆い隠していた手が腕の上を滑っていく。ゆっくりと動いていくそれを目で追っていれば手はやがて止まり、ぱたりと腕から落ちていった。それだけだ。何が変わったわけでもない。叔父が何をしたいのかはやはりわからなかった。だが叔父は、ふんと鼻を鳴らす。


「その気になればざっとこんなもんだ」

「は? 何が?」

「傷」


 疑問に対して与えられた返答はひどく断片的なものだった。それだけでは何を言いたいのかわからない。だが傷と言われて、視線が向く先は決まっている。叔父の抱える傷がいくつもあるがわざわざ誘導してまで見ろと言った傷はひとつだけだ。二の腕に刻まれている切り傷。叔父が指しているのはその傷のことだろう。だけど今更それを見たところでなんだと言うのか。誘導されるままに再び視線を向けはするが、口の方は既に文句を並べ立てる体勢に入っていた。


「傷はさっき見たよ。もう一回見たところでなんだって…………」


 改めて見たところで何が変わるわけでもないだろう。だから文句が先に口をついて出ていた。だがその文句は中途半端なところで止まってしまった。改めて見たところで何も変わらないはずだ。そのはずだった。だがそこに信じられない変化があった。ーー二の腕に走っていた傷が消え失せていた。


「えっ!?」


 見逃すような傷じゃない。血で隠れているのかと再度拭ってみたが、露出している肌には傷ひとつついていなかった。


「……なんで」


 俺を驚かせようと手品でも仕込んでいたんだろうか。でもそれにしてはさっき見た傷は生々しく、あれが作り物だったとはどうにも思えなかった。だけどそうでも考えなければ説明がつかない。さっきまでたしかにそこにあったはずの傷はどこに消えてしまったのか。いくら考えてもわからない。

 呆然と、ただ傷ひとつない二の腕を撫でる。それを叔父が咎めることはなかった。


「聖、誕生日が近いな」

「は?」


 今日は四月十四日。そして俺の誕生日は四月二十日だ。あと一週間もしないうちに十六歳になる。今朝もその話をした。俺の誕生日をこの人が大切にしてくれているのは知っている。だが今ここでその話を持ち出すのは何故だろう。


「もうすぐ十六歳だ」

「そうだけど……なんで今その話……」

「十六歳になったらどんな質問にも答えてやるって言っただろ」

「言った、けど」


 叔父のことでも母のことでも、他のことでも。叔父が知っていることであればこれまではぐらかしていたことでもなんでもすべて答えると、そういう約束だった。これまで黙っていたということは子供に聞かせるには早いと叔父が判断したんだろう。どうしようもなく知りたい、というわけでもなしそれなら十六歳になるまで待ってもいいと思っていた。今朝も確認した話だ。きちんと覚えている。だけどそれがなんだ。

 叔父がのたのたと身体を起こす。相変わらず顔は青白く、控えめにも健康体には見えない。ずりずりと身体を引きずって、壁に背を預ける形で座り込んだ。


「十六歳になれば、お前が聞きたがるかどうかに関係なく俺の話はするつもりだった。それがほんの一週間ばかり早まるだけの話だ」

「叔父さんの話……?」


 叔父は謎の多い人だ。母の弟ということしか知らない。年齢はもちろんのこと、どんな仕事をしているのかも知らない。今日まで俺と二人暮らしをしているということは所帯は持っていないんだろうが、付き合っている人はいるのかとか親しい友人はいるのかとか。何も知らない。何も教えてもらえなかった。

 他の誰より、叔父と過ごした時間が長い。子供にとって親は世界のすべてだなんて言われるが、俺にとっての世界は叔父だった。それなのに叔父のことをろくに知らない。不安がないわけじゃなかった。だから教えてくれるのなら嬉しい。だけど今ではなくてもいい。


「そんなことより今は病院だろ。さっきまであった傷がなくなるなんてどう考えてもおかしいし、一回ちゃんと診てもらったほうがいい」


 診てもらったところでそんな超常的な現象に医療で対処できるとは思ってないが、ここでおたつくだけじゃ何も変わらない。傷口から雑菌が入り込んでいるかもしれないし、やはり一度診てもらった方がいいだろう。


「叔父さん、かかりつけとかあったっけ? ないなら近くの……この場合って何科? 外科? 叔父さんそもそも保険証持ってる?」

「病院には行かない」

「……まさか叔父さんだけ毎年予防注射しないのって病院が怖いからなわけ?」

「違えよ。俺には必要ないからだ」


 病院嫌いはたいていそう言う。健康なのだから病院に行く必要はない、というのなら今は病院に行くべき時だろう。その理屈は通用しない。


「見ろ。もう治った」


 そう言って、傷をこちらに向ける。腕、足、脇腹。あらゆる場所から出血していた。子細に確認したわけではないが肌がぱっくりと裂けて肉が露出していることくらいは把握していた。それが、すべて消え失せている。


「……は?」


 さっきの二の腕の傷と同じだ。一瞬で治るようなものでもないし、作り物とも思えなかった。その傷がひとつ残らず消失していた。

 信じられない。叔父の目の前に座って、直接その肌に触れる。残っていた血でで多少手が汚れはしたものの、新たな血が付着することはない。どれだけ探しても傷はひとつも、痕跡さえも残っていなかった。


「俺は吸血鬼だ」

「………………は?」

「お前さっきからそれしか言わねえな」


 何が愉快なのか、くつくつと喉を鳴らす。そんな突拍子もないことを言われて即座に反応できる方がおかしいだろう。面白くない冗談だ。俺にどう反応してほしい。


「嘘じゃない。今も傷を治して見せただろ。それにほら、牙もある」


 そう言って口の中に指を突っ込んで歯を露出して見せる。口内から覗く犬歯は一般的なそれを比べると鋭利ではある。だが歯の形なんて人それぞれだ。ちょっと犬歯が尖っているくらいで吸血鬼を自称するのは無理がある。


「犬歯はちょっと尖ってるだけだし、怪我がなくなったのは……よくわからないけど手品か何かだろ」

「どんな手品だよ」


 愉快そうに笑う。だってそうでもなければ説明がつかない。無理があるのはわかっている。だけど叔父が吸血鬼だったなんて方が無理のある話だ。そもそも吸血鬼ってなんだ。そんなものはお伽噺の中だけに出てくる空想上の生き物だろう。吸血鬼なんて存在しない。


「こんな時に笑えない冗談はやめてよ。だいたい、叔父さんが吸血鬼なら俺もそうじゃないとおかしいだろ」


 設定からして破綻している。場を和ませるための嘘にしたってもう少しマシな嘘があるだろう。だから鼻で笑ってやれば叔父はうなだれた。


「はー、疑り深く育っちまって……」

「普通だよ。どれだけ純粋でもそんな嘘信じる高校生はいないから」


 そんな突飛な嘘を鵜呑みにしてしまう方が問題だろう。


「参ったな。どうすりゃ信じる」

「なんでそんな馬鹿げた嘘を貫き通そうとするの」

「本当のことだからな。信じてもらえなきゃ話が進まん」


 いつになく真剣な声音だ。思い返してみれば叔父が意味もなくそんな嘘をつくだろうか。病院が嫌いなあまりこの場を有耶無耶にしたくて突拍子もないことを言い出したという線も捨てきれないけれど。だって吸血鬼は血を吸って生きているんだろう。叔父は毎日俺と同じものを食べていたし、昼間に出かけることもあった。吸血鬼はたしか、日光も駄目だったはずだ。


「俺はたいていのことはできる。信じられないなら能力を少しだけ見せてやる。そうだな……化けてやる」


 そう口にした途端、その顔の輪郭が歪んだ。ぐにゃりと、まるで粘土でも捏ねているかのように凹み、あるいは引き延ばされる。輪郭だけじゃない。手足も胴体も、軟体生物のようにうねりがら形を変えていく。


「ひっ!!」


 思わず後退れば臀部を強かに打ち付けた。だがその痛みに呻く余裕もない。目の前で『叔父』が何かに変わっていく。肩近くまで伸びていた髪は巻き上げられるように短くなった。目や口といったパーツも顔面で捏ねられ形を変えていく。異様な光景だった。全身くまなく捏ねられた叔父の身体はひと回り小さくなったように思えた。息が詰まる。恐ろしいのに目が逸らせない。逸らしたが最後、本当に叔父ではない何かに成り果ててしまうような気がしてならなかった。

 実際のところは見ていようといまいと関係なく叔父は叔父ではなくなっていく。どうすることもできずにただ変質していく光景を眺めていれば次第にその勢いは弱まっていき、やがてひとつの形に落ち着いた。その姿を俺は知っている。


「ーーーお前に化けた。完璧だろう?」


 そう話しかける声は紛れもなく俺のものだった。『俺』が目の前に座り込んでいる。衣服は叔父が着ていたものなのでちぐはぐだ。それが唯一、目の前にいるのが『俺』ではなく叔父なのだと証明していた。


「眼鏡はあくまで付属品でお前そのものってわけじゃないからな。再現は可能だが、信じてもらうためにそこまでする必要もないだろ。面倒だしな」


 『俺』の口端が楽しげに釣り上がる。いいや、俺はそんな悪どい笑い方をしたことはないはずだ。そういう笑い方が叔父がよくするーーー


「……叔父さんなの?」

「ああ。厳密には俺はお前の叔父さんじゃないが。お前が叔父さんと呼んでいる男ではあるな」

「叔父さんじゃ、ない……?」


 叔父は、母とは似つかない顔立ちをしていた。だけど似ていない姉弟なんて珍しくもない。それに歳を重ねるほどに母の顔がはっきりと思い出せなくなってきて、今では本当に似ていなかったかの確信さえ持てなくなっていた。本当に彼は俺の叔父なのか。考えたことがないわけじゃない。だけど尋ねたことはなかった。


「十六歳になったら話すつもりだった。だがまあ、ちょっと良くない状況になってな。少し倒すがお前なら大丈夫だろ」


 俺と同じ声で叔父のようなことを言う。


「長い話になるし、場所変えるか。いつまでも玄関に座り込んでると尻が冷える」


 よっこいせ、と声を上げて立ち上がる。服は叔父のサイズのままであるためその身体ではやや大きい。ずり落ちそうになるスラックスを掴み、余った裾を引きずりながらリビングの方へと向かう。通り過ぎ様に、俺の頭を乱暴に掻き撫でていく。手の感触こそ違うものの、撫で方は紛れもなく叔父のそれだった。


「服、血で汚れたな。着替えてくるか?」

「……いい。そこまでの汚れでもないし」


 血を拭うのに使ったので袖口が汚れているが、たいした量でもないので濡れている感触もない。袖を捲くって隠してしまえば目が行くこともなくなった。いつまでもこの服でいるわけにもいかないだろうが、急いで着替えるこそもない。


「そうか。じゃあホットミルクでもいれてやる」


 スウェットを引きずりながら『俺』が言う。この状況が異常であることは間違いない。だがあまりに目の前の叔父が叔父でしかなく、警戒するにしてもどうすればいいのかわからない。逡巡こそしたものの、結局は叔父の後に続いてリビングへ向かうことにした。

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