山の子 第二章(1-15)
危ない目に遭った上で、静かな山に居るせいだろうか、不思議と
「その政綱殿が一緒とはいえ、よく
「おれも気になっていた。結末を見届けたいとは言ったが、その理由は何だ?」
問われた
「このためだ」
「記録か。だが、麓に居ても結末は分かるだろう。他の連中よりも詳しく知るためか?」
「簡単に言えばそうだ。怪異に対するのは、古来朝廷の重要な役割だ。将軍府が出来るよりも前から、ずっとそうしてきた。当然記録も膨大にある。この記録が暮しにも仕事にも大切な物なんだ。朝廷からの下命はともかく、それ以外の個人的な問い合わせがあると、官人は各々の記録を切り売りして、その都度礼銭を受け取る。まぁ、副業とでも言うべきか。馬鹿にはならない収入だよ」
「ふむ。都で暮らすには何かと物入りだろうからな、気持ちは理解できる。それでも、他の連中はここまではしない。お前の友人も、思い止まれと言っていただろう」
「
師春は火を見詰めたまま呟いた。
「峯匡には、継ぐべき家がある。いずれはあいつの父上と同じ官位を得て、当主になるだろう。あいつなら問題ない」
「お前にも、中原という家があるだろう」
「いいや。無いんだ」
師春は、自分の言葉にいたたまれなくなり、誤魔化すように干し魚を摘み上げた。まだ食べ頃には早かったが、そのまま齧った。
「…私は確かに、官人の中原氏の生まれだ。父は父祖代々が任じられた
その言い方に嫌な予感のした政綱達は、示し合わせたように視線を師春から火に転じた。
「あぁ、安心してくれ。両親は今も健やかに暮らしている」
重任が、ふっと静かに息を吐いた。政綱もほっとしていた。他人の慰め方を知らないからだ。
「だが、所領
師春は白くなる程にきつく、拳を握り締めた。
「だが、何時かは限界が来る」
「どうなった?」
干し魚が食べ頃を告げるのも無視して、政綱は尋ねた。重任も黙って聞いていた。
「正直に言うと、一々は思い出せない。色んな問題が一気に降りかかった。暮らしが立ち行かぬので、職も辞する他ない。父も私も位だけはなんとか保ったが、家屋敷を手放さなければならなくなった。いやこれとて、珍しくはない。この間とは家主が違う、なんてことはよくある。でも、いざ自分がそうなったら全く話が違う。ずっと暮らしてきた場所だ。数え切れない思い出がある。あの屋敷は、まさに城のようなものだった。私だけではなく、家族皆にとっても。そういうものだろう?悔しい経験だったよ………おい、焦げてしまうぞ」
政綱と重任は、慌てて魚を火から離した。師春は笑っている。
「まるで何かが終わったような気がした。実際終わったんだろうな。官人としての人生も――始まったばかりだったが――終わった。だから違う生き方を探した」
「違う生き方?」
「ああ。
「草匠?物語を、草紙を書くのを
「そうだ。大昔には、一部の者が余暇に筆を執って作っているだけだったが、今では芸能として認められるようになった。記録の中に閉じ込められていた神や妖の話が、物語として求められるようになったからだな。貴賤も老若も男女も関わりなく、諸国の妖の物語を楽しむようになったんだ。考えてみてくれ、皆が同じ物語で繋がれるんだぞ。凄いことだと思わないか?」
政綱と重任は頷きながら聞いていた。
「まぁ、今のは夢のような話だがな。当面努力すべきなのは、身を立てることだ。父母の恩に報いるためにも、まずはそれからだな」
「悪くない…いや、いい夢だ。だが、大事な夢であっても、命をかけるのは釣り合うのか?夢は形を変えて持ち続けることが出来ても、命はたった一つだけだぞ」
「命がけの男に言われると、頷くしかないな。確かに、今度はそうなってしまった。でも、私にはまたとない機会だ。人狗に直接話を聞いた官人も、草匠も、殆どいない。皆恐れて避けようとするばかりだ。だからこれは、他人には得難い出会いだ。これを捨てるなど、この師春、いや
「雲景?」
政綱は怪訝そうな顔だ。まるで法名だが、どう見ても師春は俗人だ。
「ほら、ここに」
魚を焼石の上に置くと、師春は一冊の草紙を開いた。そこに記した
「雲景か。まるで山伏みたいな名乗りだな」
「あぁ、それもそのはずだ。これは、子どもの頃に出会った老山伏から貰った名前だ。
「雲に景か。風趣というのはおれには分からないが、いい名前ですな」
と言った重任は、被っていた烏帽子を取り払い、焚火に投げ入れた。政綱と師春は、意図を掴みかねて問うように重任の顔を見た。
「…ん?いや、政綱殿を探す間ずっと考えていたんだ。もう武士で居るのも、妖退治も沢山だと。この山に居るのは神だと信じるようになって、自分のやってきたことに疑問を持った。おれは、山の神とは共に生きるように教わった。実際、子どもの頃から諸方の神々に助けられて生きてきた。だが今はまるで違う。あの小要殿の郎党のままで居れば、そうはいかないだろう。そろそろ育った山に帰ろうと思ってな。だから、もう烏帽子は要らない」
重任は、薪を縛っていた太刀緒を解くと、馴れた手つきで髪を束ねた。まるで人狗が二人居るように見える。師春は、捨てられた烏帽子から重任に目を移した。
「育った山というのは、何処にあるんだ?」
「西洲のあちこちに。一つの山ではないのですよ。だからおれにとって故郷とは、共に生きた人々のことで、土地ではない」
「そうか、お主は山の民なんだな」
「はい」
山から山へと遍歴の暮らしを送るのが、重任のような山の民だ。古代に征伐を受けた
その生き方は、人狗の政綱にも通じるものがある。
「あんたの家族や仲間は、今も何処かに?」
「武士になって定住するようになって以来、疎遠になってしまった。何処に居るのか探さなければな」
「そうか」
短い言葉に気持ちを込めたつもりだったが、やはりまだ何か言い足りない。政綱は言葉を探しながらゆっくりと何度も頷き、やっとのことで探し当てた。
「きっと見つかる」
「ああ。ありがとう」
微笑んだ重任は、長く溜息を吐いた後、少し身を退いて頭を垂れた。
「これでおれは、ただの重任だ。政綱殿、師春――いや雲景殿、初めに言った通りだ。おれはこの山の神と里の人々の間を取り持ちたい。そのための助力は惜しまない。どうか一緒に連れて行ってくれ、頼む」
政綱は少し
「……〝殿〟は要らん。おれは元々ただの政綱だ」
「おいおい、いかんなぁ、もっと分かり易く行こう政綱。こう言いたいんだろう――」
政綱は、早速呼び捨てにする中原師春――草匠の雲景に苦り切った顔を向け、「何だ?」と言う代わりに眉を動かした。
「それぞれ、ただの重任、ただの政綱、そしてただの雲景だ。並んで
「知らん……おい、お前まだついて来るつもりなのか?」
「誰か帰ると言ったか?山に入る前にも後にもはっきり言っただろう。結末を見届けたいと。だからお主達の…いや、お前達の働きを見届けるのが、私の役目だ」
呆れた政綱は、小刻みに首を横に振った。
「来るなと言っても、無駄なんだろう?約束を破るのは人間の常だからな」
「
雲景は間を置かずに答えた。政綱は渋面を作ったまま、大きく溜息を吐いた。それを見ていた重任は、声を立てて笑っている。
雲景は、少し炙り過ぎた干し魚に齧りつきながら、ちらっと政綱を見ると、重任に目配せしてみせた。
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