山の子 第二章(1-14)

 政綱が案内した場所は、確かに昼間にも見た場所だった。ここでも政綱は<庭>を探したが、結局何の手応えもなかったのである。身を隠すのであれば、却ってそんな場所の方が都合がいい。知らぬ神の<庭>が間近にある場所での野宿など、師春もそうだが、政綱もできれば遠慮したい。

 巨岩が三つ、花が開くように並んでいるその中心を野営地とした。道々拾っておいた石を並べ、その中に木の枝を積み、政綱が左手をさっと打ち振って火をつけた。


「今なにが起きた?手で火をつけたのか?」

「ああ。これも師匠からの授かり物でな。天狗が大火事を起こした話を聞いたことがないか?」

「都の大焼亡のことか?」

「色々あるが、それが一番有名だろうな。その話から分かるとは思うが、天狗が得意なのは風を吹かせることだけではない。火を扱うのも同じくらい得意だ」

「驚いたよ」

「そうか。これは書かなくていいのか?」

「あぁ…いや、明日にしよう。明日に。明日生きていられたなら、書くことにしよう…」


 そう言って俯いた師春は、暫くの間黙り込んだ。

 政綱は声をかけることはせず、火の番に徹した。何本か枝を火に放り込む内に、やっと師春が口を開いた。


「…済まなかった政綱殿」

「何がだ?」

「お主は、ついて来るなら、自分の身は自分で守れと言ったな。それで構わないならついて来いと。私はそれでいいと答えた」

 これは、六台山に上がる前に交わした約束だった。

「そうだったな」

「ところが、結局はお主に助けられてしまった。約束の通りであれば、お主は私を放っておいて山を去ることもできたはずだ」

「ああ」

「済まない」

「その前にもう一つ約束したな。実量からの報酬は、全ておれの物にしていいと」

「忘れてはおらんよ。せめてそれくらいは守らせてくれ」


 うなだれる師春を見て、政綱は鼻で笑った。

「普通、物事を仲介した者は、謝礼を求めるものだ。お前達は訴訟を受理した奉行にも、礼をするんだろう?だがお前は要らないと言った。おれが助けたのは、その約束の代わりだと思えばいい。あそこで死んでいたら、お前を呪っていたかもしれんが、そうはならなかった。怪我もないしな。だから、これで貸し借り無しだ」

「…忝い。本当に、ありがとう」

「気にするな」


 ゆらゆらと燃える火の加減だからだろうか。師春には、政綱が優しい顔で笑っているように見えた。たぶん、それは気の所為ではなかった。何かに気が付いた政綱の表情が、急に険しくなったからだ。

 師春に、「動くな」と手で命じた政綱は、太刀緒たちおを解いて横たえていたヒトトイを掴み、腰を浮かせた。


「そこに居るのは誰だ?」

 すぐに闇の中から答えがあった。

「おれだ。元岡重任しげとうだ」

 政綱と師春は、ちらっと顔を見交わした。政綱の言わんとしているところを察した師春は、火の傍を離れて蜥蜴とかげのように巨岩にへばりついた。


 立ち上がった政綱は、太刀の鯉口を切って鋭く問いかけた。

「何をしに来た?」

「是非とも会いたいと思って、陣を抜けて探しに来た」

「何のために?」

 重任は両手を広げて前に出た。その状態では、いた太刀はすぐには抜けない。五歩(約一〇m)の距離があるものの、政綱には一瞬で間合いを詰めることができる。


「妖退治について、おれの考えを聞いてもらいたい。もしかすると、あなたとも同じ考えかもしれないんだ」

「解せんな。知らんのであれば教えてやるが、麓では合戦が起きている。お前も武士ならば、妖退治どころではあるまい」

「合戦になったからこそ、大事なことだ。おれの考えが正しければだが…」

「ほう?言ってみろ」

 重任は頷いた。

「思うに…この山に居るのはただの妖ではなくて、古い神なのではないかと。そうであれば、話し合うこともできるはずだ。おれ達だけでは無理でも、あなたが間に立てば、仲裁できるのではないか?」


「何故そう思ったんだ?」

 岩陰から顔を出した師春が問いかけた。政綱が舌打ちすると師春は一瞬だけ引っ込もうとしたが、またモグラのように顔を出した。

「おぉ、確か中原殿でしたな。姿が見えぬとご友人の小槻おづき殿が心配しておられたが、やはり一緒に」

 師春は立ち上がった。政綱が舌打ちする間もなく、身を乗り出している。

峯匡みねまさに会われたのか⁉」

「えぇ、村から追われて来た後備えと一緒に、官人かんじんと村人も逃げて来たのです。今は、反対側の麓で、妖討使共々野営中です。ご安心なさい、怪我はしておられません」

「良かった……」

 政綱が睨んでいるのに気が付いた師春は、また岩陰に隠れた。


「それで、何故この山に神が居ると思った?」

「この山で怪異が起きたのは、合戦が起きて以来だ。村はその前からあったのに、合戦までは何の怪異もなかった。国府からもそう報せがあったし、村人もそう言っていた。妙だとは思わないか?村人はこれまでも山に立ち入ってきたんだ。確かにホウドラやら猫又を見たことはあるそうだが、奴等は呪いをかけたりはしない。村人に病の者がいるが、あれは呪いではなくて、神の祟りなんじゃないか?合戦を起こした代官達を襲ったのは、おそらく山神の眷属達だ」


「政綱殿」

 口を開こうとしていた政綱を遮って、また師春が顔を出した。政綱は重任の方を見たまま、とげとげしく答えた。

「うるさい奴だな、何だ?」

「お主の考えと同じじゃないか。重任殿は、我等の仲間だ。もう疑う必要はない」

 溜息と共に鍔を鳴らして太刀を納めた政綱は、重任を手招きした。


「…疑って悪かった。ついさっき襲われたばかりでな」

「襲われた?」

「あんた達が止めようとした連中だ。おれ達は山を下りるところだったが、道を阻まれてな」

「それは災難だったな…。まぁ、こちらも似たようなものだが。そのお蔭で、またこうして会えたと思えば、災難とばかりも言えないか」

「違う形で再会したかったものだ」


 三人は、火を囲んで腰を下ろした。妖討使の小要兵衛尉に仕える重任から、麓の武士や<悪党>達の動きについて、彼の知る限りを聞き取った。あまり確かなことは妖討使達にも分かっていないらしい。ただ、小要・前澤の両使が、政綱を目の敵にしていることだけは、はっきりしているという。それを聞いても、政綱は特に何も言わなかった。


 用意のいいことで、重任は道すがら薪に使えそうな物を拾って来ていた。予備の太刀緒で縛ったそれを「使ってくれ」と地面に置き、他にも嬉しい土産を差し出した。

「出来れば、酒でも持って訪ねたかったが、生憎とそうもいかなくてな。だが、水は汲んで来た。それと少ないが、荷駄から干し魚を失敬してな。まぁ、あの騒ぎだ、誰も気付いてはいないだろう」


 真原国には、朝来あさき湊という良港がある。大陸に向けて開かれた貿易港としても機能しているが、同時に鮮魚の流通源でもある。この干物になったさわらも、元は真原の海を泳いでいたものだろう。三人は、火を囲む石の上に魚を乗せ、脂が旨そうな音を立てて浮かび上がるのを待った。


「野営には慣れているようだな。あちこちで妖退治をしてきたからか?」

 政綱は小刀で枝を削って箸を作りながら、同じように箸を作る重任に問いかけた。

「それもあるが、武士になる前から慣れていてな」

「元々から武士ではなかったのか?」

「ああ。おれは猟師だった。それに山育ちでもあるからな。ここを見つけられたのは、運も良かったが、昔の経験にも依る。まだ明るい内に足跡を見付けられたお蔭だ」

「なるほど。見事だな」


 完成した箸で、ぷつぷつと脂の浮いた魚を突いた。まだ少し早い。

「気になるんだが、山で育ち猟師になったあんたが、何故御家人の郎党ろうとうに?」

「大したきっかけではない。偶々たまたま、鹿を追うおれの姿が小要殿の目に留まったんだ。それで、声がかかったというわけだ。あれは…二十一歳の頃だったかな。もう六年経つ。まさか、自分が烏帽子を被ることになるなんて、想像したこともなかった」

 重任は笑った。政綱にも想像できないことだ。憧れたこともない。


もとどりを結い、烏帽子を被るというのは、どんな感じだ?」

「妙な感じだよ。今でもそうだ。それまでは、あなたと同じようにただ総髪を縛っていただけだったし、被り物といえば、まぁ笠くらいなものだった。それが、髻を結うと、人前でそれを晒してはいけないと言われるし、第一結うのが面倒だ」

「じゃあ、今は少し楽だろう?」

 武装した重任は、髻を解いたざんばら髪の上に烏帽子を被り、鉢巻でそれを固定している。

「そうだな。少しだけな。……お、そろそろ良さそうだぞ」


 炙られた干し魚が、ジュウジュウと小さな音を立てていた。箸と指先でつまみ上げ、三人は鰆をかじった。素干しの干物だ。ただの塩味だが、やはり温かいものは嬉しい。暫く無言で魚を堪能した。


「烏帽子との付き合いが長いのは、師春だろうな。お前には当たり前の物か?」

「ああ、ごく当たり前の物だな」

 指先を舐める師春の前に、重任がまた鰆の干物を差し出した。

「や、まだあったのか。これはありがたい」

「丁度二尾ずつだな。さぁ、政綱殿も」

「どうも」

 それぞれ、次の魚を焼けた石の上に乗せ、革袋の水を回し飲みした。重任から水を渡された師春は、一口飲んでから話を続けた。


「私の元服は、十一の時だった。いや、珍しいことでもないし、公家では特に早いわけでもないんだ。摂関家せっかんけや大臣に至る家――清華家せいがけと言うんだが――では、四歳とか五歳とか、もっと早い」

 早く寄越せ、と政綱が手で急かす。革袋を受け取りながら、政綱が尋ねる。

「四、五歳?そんな歳で大人の仲間入りか。到底任には堪えないだろう」

「勿論、周りの後見を受けるさ。それにその歳で実際の重職を任されることもない」

「ふうん…」

 どこか物を想うような政綱の横顔だ。


人狗にんぐには、元服のような儀式はないのか?」

 師春に尋ねられた政綱は、少し考えるような表情になり、すぐには口を開かなかった。何か秘密があるのかもしれない。そう思った師春が質問を取り下げようとした時、政綱がやっと答えた。


「元服ではないが、人狗は、十代の内に最後の力を授かる。風を吹かせたり、火を放ったりするような力だ。それまでに心身の鍛錬を積んだ上での、最後の仕上げだな。その印として目がこうなる。それで完全に人間ではなくなるわけだ。お前達は成長することを〝人に成る〟と言うが、おれ達はその逆だ。人ではなくなる」


 政綱の声音にも、表情にも、何の感情も籠ってはいなかった。少なくとも、師春と重任はそう感じた。しかし誰もが、人狗が神隠しの犠牲者であることを知っている。

 同情しようと努めたところで、異界育ちの気持ちを、二人が完全に理解できるものでもない。それに同情したところで、この男には鬱陶しいだけだろう。だから師春は、代わりに感謝することを選んだ。


「だが、そのお蔭で私は命拾いした。余計な一言かもしれないが、お主の力のお蔭だ」

「偶々の事だ、気にするな」

 やはり政綱は無表情で言った。

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