山の子 第三章(1-16)

 三




 土煙を上げながら、八百騎から成る軍勢が駆けて行く。

 紅の厚総あつぶさを掛けた毛艶の良い鹿毛かげ馬に跨った大将は、香春探題の綾瀬利之に仕える横山左馬介時次ときつぐいくさ奉行として、利之の同役深間維之これゆきの被官で、香春検断頭人とうにん――刑事訴訟の裁判官――の春日左近将監さこんのしょうげん憲秋のりあきが同行している。


 未明に京都の香春かわらを発った探題軍は、東海道を疾駆し、鶏鳴には真原国に入っていた。将軍府が積極的に整備した東海道は、真原国をかすめて南東方向に下り、西洲と東洲の境界<の海>に至る。海を越えた終着点は将軍の在所である岩動いするぎだ。だが軍勢は岩動を目指してはいない。


 探題軍は、東海道と北陸道を分岐する基原宿きはらのしゅくで一旦止まった。軍勢発向に先んじて深夜に発った早馬が、真原御家人達に探題の軍勢催促状を届けていた。その御家人達の到着を、基原宿で待った。半刻(約一時間)程待って、新たに四百騎余りの軍兵を加えた探題軍は宿を発ち、今度は東北方に伸びる北陸道に沿って、朝曳庄内上山本名を目指した。

 ここからは徒歩を従えた軍勢でも、一刻もあれば到着する距離だ。横山時次は先陣に使いを走らせ、全軍の行軍速度を弛めさせた。落伍者が出始めたわけではない。時次は後から追いついた春日憲秋に、その理由を説明した。


「在所が合流地点の基原宿から遠い人々には、道中にて合体するようにと命令が下されており申す。彼等の来着を待ちながら、暫くはゆるりと参りましょうぞ」


 鍬形を打った兜の眉廂まびさしが作った陰のせいもあるが、元から頬が痩せている時次は、笠や兜を被ると表情が読み辛い。綺麗に毛先を切り揃えた口髭の動きから、微笑んでいることが辛うじて分かるくらいだ。

 理由を説かれた憲秋は頷いて、時次と並行してゆったりと馬を打たせた。どちらも立派な鎧兜を着ているが、時次は古風な大鎧で、憲秋は杏葉ぎょうよう等の飾りをあしらった腹巻だ。

 憲秋が、鞍の上で背を伸ばしながら言った。


「昨晩から今まで、近頃なかった程の忙しさでしたな。まだ朝の内に着けるのが信じられませぬ」

「とにかく急げ急げで、何とか八百騎を仕立てて駆け出したのは…うし刻頃でしたかな?」

「そうであったやも知れませぬな――」

 憲秋は目を擦ってから続けた。

「その少し前まで、いびきをかいて寝ておりましたぞ」

「申し訳ない。それがしが綾瀬殿に報せたばかりに」

「いやいや、責めておるのではござらぬ」

「ははは。いや、それがしとて、こうまで急かされる事になろうとは思いませなんだ…」





 真原からの早馬が、香春に建つ時次の屋敷に到着したのは、そろそろ刻になろうかという深夜だった。顔を洗って目を覚まし、使者を連れて主人の綾瀬利之に面謁を求めた。おそらく利之も眠っていただろうが、ほんの短い間待たされただけだった。

 利之はきちんと烏帽子を被り、直垂ひたたれの胸元も整えて現れた。


「お休みのところを、申し訳ござりませぬ」

「構わぬ、お互い様であろう。よう来てくれたな」

「畏れ入りまする」


 頭を垂れた時次に、利之は頷いて返した。

 左馬介時次が生まれた横山氏は、元来が東洲野瀬国のせのくにの御家人だ。形の上で綾瀬氏に臣従してはいるが、先祖が開発した本貫地を中心に、将軍家御恩の所領を幾つも抱えている。御家人という点でいえば、綾瀬氏とは対等なのである。だから利之も時次を粗略には扱わなかった。


「して、そなたが使いか?」

 利之に問われ、時次の後ろに控えた直垂姿の武士が平伏する。それに代わって時次が使者を紹介した。

「これは真原の小守護代に置いております我が弟の被官、宮木左衛門太郎と申す者。妖討使の連絡を受けて、守護所から駆け付けました」

「左様か。役目大儀じゃ左衛門太郎。面を上げよ」

「はっ」

「妖討使は書状など寄越したか?」

「はい。これに持参致しました」


 左衛門太郎が差し出した書状を時次が受け取り、利之に手渡した。封紙を開き、字面を追う。

「ふむ……。妖討使が入山したのを機に、件の果妙かみょうなる山僧が村に討ち入り、防ぎ止めようとした武士を追い払った。そこに上山本の代官が攻め寄せた、とある。防戦の武士に死人はあらぬが、手負いは出たようだな」

 書状の差出人は〝左衛門尉勝時〟と署名し、花押かおうを据えている。


 利之は顔を上げ、時次に尋ねた。

「此度、六台山に遣わされた妖討使両名は、確か御家人でもあったな?」

「仰せの通り」

「さて、そうとなれば我等が口を挟む理由も生まれるわけだな」

「或いは、院から悪党誅伐の御下命があるやも」

「それよ」

 利之は手に持った扇で、トンと床を打った。既に考えは決まっているようだ。

「どうでやらねばならぬなら、先んじて動こう。真原は探題の管国の上、守護は他でもない私だ。そして在京守護代は時次、そなただ」

「仰せの通り」

 時次の応えに、利之が頷く。

「これより深間殿と評定衆以下の面々を集め、評定を行う。軍勢発向が正式に決まるのはその場においてではあるが、さりとて誰も反対はするまいよ。のう?」

「そう思われまする」

「私は彼の国の守護として、軍勢の大将にはそなたを推す。そのつもりで居てくれ。夜明け前に出てもらいたい」

「はっ、承り申した」

 利之は扇を帯に差すと、小さく愚痴をこぼした。

「やれやれ、忙しくなるな…」


 そこから、香春の町は急に朝が来たような慌ただしさに包まれた。

 利之は探題館の者を総動員し、評定の支度と軍勢催促の準備とを並行して行わせた。館の内外に大篝火が焚かれたのと同時に、向かい合う南館に使いを発した。

 松明を持った探題の使者達が、闇夜を照らして香春中を駆け巡る。館の櫓からそれを見下ろしていた宿直とのいの武士達は、まるで都に戦が近づいているかのように錯覚し、その高揚感に思わず上げたくなる叫びを堪えた。

 俄に騒がしくなった香春の様子が、物見高い都人士の注目を集めるよりも早く、深間維之と評定衆以下、探題府の面だった人々は集合した。上座に南北両探題が着座し、評定がすぐに始まった。


 この間、時次も屋敷に人を走らせ、馬と鎧兜、そして武士の証しとも言える弓矢の支度を急がせた。時次は東洲出身の武士なだけあって、射技には自信がある。弓矢のない戦いなど、彼には考えられない。

 時次の屋敷からは更に四方に使いが走り、横山氏の被官達にも陣触れがなされる。まだ本決まりではないと知っていながら、時次の門出を祝う在京中の武士達も出始めた。

 評定の場で、真原国守護代横山時次を大将とした軍勢発向が満場一致で可決した時点では、既に軍勢の手配は済んでいた。


 後に残されたのは、政治的な折衝だ。

 上山本みょう朝曳庄あさびきのしょうに属しており、共に<東洲申次もうしつぎ>大寧寺教隆の所領だ。守護使の入部は禁じられている。特例として、これを解除してもらう必要があった。そして同時に、上山本の代官を追捕ついぶすることを承知させなければならない。


 問題はそれだけではない。代官と敵対する山僧の召捕りを、<山門>紹明寺に納得させる必要もある。こちらの方が数倍難しいと予想された。だが、両探題には秘策があるという。

 その秘策を任せられた香春評定衆の秋月種時が、<山門>との交渉に発った。

 交渉事が進む内に、丑刻を迎えた。大将左馬介時次以下、八百の軍勢が香春に集結。洛中と香春を区切る鴫河に渡された<馬渡まわたし橋>の前まで、綾瀬利之、深間維之の両探題は見送りに出た。

 横山時次以下、探題府の軍勢は片膝立ちでそれを迎えた。


 歩み出た利之が、鎧兜の群れを見渡しながら訓辞を垂れる。

「皆も知っての通り、かつて八幡神はこの西洲の果てより起こり、波坂国はさかのくにを打ち平らげ、あまねく武威をお示しになられた。申すまでもなく、八幡神は軍神にして、我等武士の守護神。なればこそ、弓取りは神の申し子なり。世に、神は人の仰信により威を増し、人は神の徳により運を得ると申す。各々の勇力こそ、軍神への信心の証しなるぞ。定めし、軍神も納受あって、皆に利運を授け給うこと疑いなし。左馬介時次!」

「はっ」

「この香春にて、そなた等の戦勝を待つぞ」


 時次は一礼して立ち上がり、後ろに控えた軍勢に向けて、最初の号令を発した。

「各々一同、和してお応えすべし!」

 軍兵が一斉にときを作った。空気が震える。

 いつの間にやら河の両岸に集まっていた見物の群集からも、歓声が上がった。

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