山の子 第一章(1-6)
「何があったんだろう?」
「もしかして、さっきの人狗が何かしたのではないか?」
「あの人狗が?しつこく馬鹿に絡まれても、ぐっと我慢していたではないか。そうは思えないな」
「では何が?」
「分かるものか。ん?――」
師春達の横を通り過ぎて行ったのは、人狗を連れて村外れまで行った男だ。つまり
「あれはさっきの元岡某だな。お、峯匡見ろ。ほら、
「本当だ。もしや、山に入るのか?」
朝から
「焦れるなぁ、これは」
何の気はなしに首を廻らした師春は、人気のない村外れに立つ人狗を見つけた。てっきり去ったものとばかり思っていた師春である。衝動的に座を離れ、人狗のもとへ向かおうとした。
「お、おい、何だ師春。何処へ行く?」
「静かに」
峯匡を制した師春は、慎重に周りの様子を窺った。しかし、二人の会話を聞く者は一人としてなかった。
「お前はここに居て、何が起きているのか確かめておいてくれ。私は、あの人狗に会ってくる。まだ去ってはいなかったんだ。村外れにいる」
「会ってどうするんだ?」
「何だ、気後れしたか?お前も喜んでいただろう?ちょっと話を聞いてみようと思ってな。滅多にはない機会だぞ。逃す手はない。とにかく、何か分かったら報せに来てくれ」
「おい」
早口に要望を押し付けた師春は、「失礼」と繰り返しながら、
とは言え、間近に立って見ると、中々威圧的な雰囲気を漂わせている。愛想笑いを浮かべながら近寄って来た師春を、政綱は無言で、加えて無表情で迎えた。会釈もなにもありはしなかった。
「あー…今日は暖かくて、気持ち良く晴れた、いい日だな」
「……」
「人狗も、こういう日は旅がし易くていいだろう?」
「……」
「えぇと、その、私は中原師春と申す。あぁ、この中原というのは――」
ふうっと溜息を漏らした政綱は、師春を遮って、その言わんとしている言葉を続けた。
「古くは
「いや、その通りだ。驚いたな。随分と――」
「で、その官人殿が何か用か?」
人狗については色々と噂を聞いて育ち、知識として身についてはいたが、今日実際に話してみて、重要な事実が抜け落ちて伝わっているのを確信した。無礼で無愛想。傲慢にすら思える。
師春は後で日記に書きつける文言を、そのように決めた。
「あー…その、少し話を聞かせてもらえないかと思って」
「特に話すようなことはない」
「そんなことはあるまい。人狗が諸国を放浪して、多くの怪異に立ち向かってきたというのは、子どもでも知っていることだ。お主もそのはずだ。その話をしてくれるだけでいい」
政綱は、無言で手を差し出した。師春は首を傾げて言った。
「何だ?」
「人狗に頼み事をするのであれば、礼をしてもらう必要がある。これは、天狗と人間が遥か昔に結んだ契約だ。互いにとっての、古来のしきたりだ」
「あぁ、なるほど!つまりあれか。金に困っているんだな?」
深々と眉間に皺を寄せた政綱は、目頭を揉みながら小さく毒づいた。
山で天狗や家俊から〝最近の若い者は〟とよく言われていたものだが、思わず政綱も師春に対して同じような感想を抱いた。そう思ってしまったことが、人狗としてはまだ若い政綱自身を、何とも不愉快な気持ちにさせるのだった。
しかしそれが不思議なことに、政綱を
「そうだな。お前の言う通りだ。おれはいま金に困っている。ここに来る前に、ホウドラを一匹仕留めた。それを麓の宿に行って売ると、百文になった。正直、それでは安過ぎるくらいの見事な<
「ほう。それは興味深い話だ――」
「まだ終わっていない。その後だ、問題は。その宿からこの
「関所が
「どこの社寺が建てようとおれには同じことだ。その一々で関銭を取られ、終いには昨日泊まった青木
「稼ぎは殆ど残らなかったわけか?」
「如何にも。その通りだ。今は殆ど文無しに近い」
唸る様に言った政綱の肩を、師春は力を込めて叩いた。
「そういうことなら、私はきっと力になれるぞ。信じてくれていい」
「耳寄りな話でもあるのか?」
「ああ。それにお主がここに来た理由とも、深く関わるはずだ、あー…?」
師春は「名は?」と言う代わりに手で政綱を指し示した。
「
「そうか政綱殿か。あぁ、それで政綱殿。お主にとっては、おそらく二重の意味で耳寄りな話だろうと思う」
「話が見えん」
「お主、私に名主の家は何処かを尋ねただろう?」
「ああ」
「その名主に引き合わせよう。その上で、山に入って調べてやると申し出ればいいんだ。名主に会いたい理由は知らないが、路銀を手に入れるのと無関係ではないだろう?」
ところが、到着までの道中で、懐はすっかり寂しくなってしまっていた。この状態を何とか改善しなければ、二月に発ったばかりの
「まぁ、事のついでなれば」
「ついで?銭は大事なものだ。高価な舶来品や異界の文物から日々の食事まで、銭で手に入らない物はない。
鬱陶しい笑顔で核心を突く官人に、政綱は苛立ちを露わにした。
「お前から教戒を受ける謂れはない。
「勿論。ここで待っていてくれ」
――なんだ。人狗も人並みに苦労しているではないか。
また日記に書くべきことが増えたことを喜ぶ師春は、名主との伝手を探して村を歩いた。相変わらず広場では妖討使達が慌ただしく、それを遠巻きに窺う官人達も立ちっぱなしだ。
――私が人狗と色代まで交わしている間、この連中は何もせず、ただこうして立っていたのか。
そう思うと、何やら一歩先んじたように感じる。あの官人座に、親友の峯匡が混じっているのを気の毒にも感じた。
師春は、人の目に触れることなく、垣を乗り越え、名主の家の裏庭に忍び込んだ。家を挟んだ向こうには、妖討使達が
まるで家内の者であるかのように迷いなく進んだ師春は、母屋の中に目当ての〝伝手〟を見つけた。名主である
師春は合図の口笛を吹いて、時ならぬ来訪を告げた。
「中原様…?」
今日は
「まぁ、こんな時間に。でも、まだ陽も高いのに…」
「あぁいや、今来たのは、ささめごとを交わすためではなくて、ちょっとした頼み事のためなんだ」
「え?もう、それならそうと早く…」
このトラこそ、師春が増田小六から逆恨みされる理由ともなった娘だ。師春は上山本村を訪れた初日にトラに声をかけ、それ以来随分と親しい関係にあった。無論、父親の実量の目を盗んでのことだ。
トラは耳まで赤く染めて俯いたが、すぐに顔を上げ、師春の用向きが何かを尋ねた。
「実は、そなたの父上に、引き合わせたい人物がいるんだ。今の状況を考えれば、実量殿にとって損にはならぬ話だと思う」
「どんなお話?」
「六台山の怪異を鎮められるかもしれない」
「本当に?」
師春は胸を張って言った。
「実は、とある人狗に出会ってね。いや、心配はいらない。話は通じる。連中も元は人間なんだ。案外、関わってみるのも悪くない。きちんと条件さえまとめておけば、後で揉めることもないはずだ」
「そう仰るなら、話はしてみるけど」
「そう言ってくれると思っていた」
師春はトラの両肩に優しく手を置いた。そして目を見つめながら言った。
「私は、その人狗と一緒に、村外れの
「分かった。今から話してみる」
「
トラはひらひらと手を振って、母屋の中に帰って行った。
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