山の子 第一章(1-6)

「何があったんだろう?」

 師春もろはるは急に慌て始めた武士達を見ていた。師春もそうだが、官人達は筵から立って、武士があちこち駆け回るのを眺めている。

「もしかして、さっきの人狗が何かしたのではないか?」

 峯匡みねまさは、妖討使の郎党と人狗にんぐとのいさかいを思い起しながら言った。だが、師春にはそうは思えなかった。

「あの人狗が?しつこく馬鹿に絡まれても、ぐっと我慢していたではないか。そうは思えないな」

「では何が?」

「分かるものか。ん?――」


 師春達の横を通り過ぎて行ったのは、人狗を連れて村外れまで行った男だ。つまり重任しげとうだが、師春は元岡という苗字だけしか知らない。


「あれはさっきの元岡某だな。お、峯匡見ろ。ほら、妖討使ようとうしが出て来たぞ」

「本当だ。もしや、山に入るのか?」

 朝から名主みょうしゅの歓待を受けていたらしい妖討使の小要兵衛尉と前澤四郎左衛門尉が、揃って姿を現した。二人とも、甲冑を脱いだ小具足姿だ。両人の郎党の多くは、主の前に畏まっている。郎党の側から小要達に何事かを報告している様子だが、師春には何も聞こえては来なかった。


「焦れるなぁ、これは」

 何の気はなしに首を廻らした師春は、人気のない村外れに立つ人狗を見つけた。てっきり去ったものとばかり思っていた師春である。衝動的に座を離れ、人狗のもとへ向かおうとした。

「お、おい、何だ師春。何処へ行く?」

「静かに」

 峯匡を制した師春は、慎重に周りの様子を窺った。しかし、二人の会話を聞く者は一人としてなかった。


「お前はここに居て、何が起きているのか確かめておいてくれ。私は、あの人狗に会ってくる。まだ去ってはいなかったんだ。村外れにいる」

「会ってどうするんだ?」

「何だ、気後れしたか?お前も喜んでいただろう?ちょっと話を聞いてみようと思ってな。滅多にはない機会だぞ。逃す手はない。とにかく、何か分かったら報せに来てくれ」

「おい」


 早口に要望を押し付けた師春は、「失礼」と繰り返しながら、官人かんじん達の間を縫って座を離れた。師春にとっては幸いなことに、武家方の様子を知ろうとする官人達は、次第に列を乱しつつあった。それで、誰にも怪しまれることなく、師春は人狗――政綱のもとへと辿り着けたのである。

 とは言え、間近に立って見ると、中々威圧的な雰囲気を漂わせている。愛想笑いを浮かべながら近寄って来た師春を、政綱は無言で、加えて無表情で迎えた。会釈もなにもありはしなかった。


「あー…今日は暖かくて、気持ち良く晴れた、いい日だな」

「……」

「人狗も、こういう日は旅がし易くていいだろう?」

「……」

「えぇと、その、私は中原師春と申す。あぁ、この中原というのは――」


 ふうっと溜息を漏らした政綱は、師春を遮って、その言わんとしている言葉を続けた。


「古くは明法家みょうぼうかに始まり、代々外記げきを輩出してきた氏族だな。一部は東洲とうしゅうの御家人になり、武家の吏僚や代々の守護も出ている。その装束と名前から推して、お前は外記を出してきた系統の生まれだろう。違うか?」

「いや、その通りだ。驚いたな。随分と――」

「で、その官人殿が何か用か?」


 人狗については色々と噂を聞いて育ち、知識として身についてはいたが、今日実際に話してみて、重要な事実が抜け落ちて伝わっているのを確信した。無礼で無愛想。傲慢にすら思える。

 師春は後で日記に書きつける文言を、そのように決めた。


「あー…その、少し話を聞かせてもらえないかと思って」

「特に話すようなことはない」

「そんなことはあるまい。人狗が諸国を放浪して、多くの怪異に立ち向かってきたというのは、子どもでも知っていることだ。お主もそのはずだ。その話をしてくれるだけでいい」


 政綱は、無言で手を差し出した。師春は首を傾げて言った。


「何だ?」

「人狗に頼み事をするのであれば、礼をしてもらう必要がある。これは、天狗と人間が遥か昔に結んだ契約だ。互いにとっての、古来のしきたりだ」

「あぁ、なるほど!つまりあれか。金に困っているんだな?」


 深々と眉間に皺を寄せた政綱は、目頭を揉みながら小さく毒づいた。

 山で天狗や家俊から〝最近の若い者は〟とよく言われていたものだが、思わず政綱も師春に対して同じような感想を抱いた。そう思ってしまったことが、人狗としてはまだ若い政綱自身を、何とも不愉快な気持ちにさせるのだった。

 しかしそれが不思議なことに、政綱を饒舌じょうぜつにさせた。


「そうだな。お前の言う通りだ。おれはいま金に困っている。ここに来る前に、ホウドラを一匹仕留めた。それを麓の宿に行って売ると、百文になった。正直、それでは安過ぎるくらいの見事な<銀筋ぎんすじ>の毛皮をしていたが、早く手放したかった。腐るからな」

「ほう。それは興味深い話だ――」

「まだ終わっていない。その後だ、問題は。その宿からこの六台山ろくだいさんまで来る道中に、幾つの関所があったと思う?四つだぞ。冗談じゃない。勧進聖かんじんひじりが遍歴する代わりに、あちこちに関所を建てたんだろう」

「関所が時宗じしゅうや律宗のものばかりだとは――」

「どこの社寺が建てようとおれには同じことだ。その一々で関銭を取られ、終いには昨日泊まった青木宿しゅくの長者から、〝そろそろ頼むよ〟とツケの支払いをせがまれた。これは確かにおれが悪い。だから払った。そして今朝、懐を探ってみるとどうだ。官人殿、どうなっていたと思う?」

「稼ぎは殆ど残らなかったわけか?」

「如何にも。その通りだ。今は殆ど文無しに近い」


 唸る様に言った政綱の肩を、師春は力を込めて叩いた。


「そういうことなら、私はきっと力になれるぞ。信じてくれていい」

「耳寄りな話でもあるのか?」

「ああ。それにお主がここに来た理由とも、深く関わるはずだ、あー…?」


 師春は「名は?」と言う代わりに手で政綱を指し示した。


紀政綱きのまさつな

「そうか政綱殿か。あぁ、それで政綱殿。お主にとっては、おそらく二重の意味で耳寄りな話だろうと思う」

「話が見えん」

「お主、私に名主の家は何処かを尋ねただろう?」

「ああ」

「その名主に引き合わせよう。その上で、山に入って調べてやると申し出ればいいんだ。名主に会いたい理由は知らないが、路銀を手に入れるのと無関係ではないだろう?」


 鳴海なるみ山を発った時点では、政綱は銭の心配はしていなかった。だから、先ほど小六に答えた通り、初めはただ様子を窺うために六台山を目指したのだった。鳴海山で出会った女との会話がきっかけではあった。だが彼女に頼まれたとも、知らぬ間に惑わされたとも思わない。自発的に、そして物見のために来たものだと、自分に言い聞かせていた。

 ところが、到着までの道中で、懐はすっかり寂しくなってしまっていた。この状態を何とか改善しなければ、二月に発ったばかりの鳳至ふげし山に帰ることになる。


「まぁ、事のついでなれば」

「ついで?銭は大事なものだ。高価な舶来品や異界の文物から日々の食事まで、銭で手に入らない物はない。ひるがえって言えば何にでも銭がかかる。だから誰にでも銭は大事だ。そう本心を隠すことはない」

 鬱陶しい笑顔で核心を突く官人に、政綱は苛立ちを露わにした。

「お前から教戒を受ける謂れはない。伝手つてがあるのなら、さっさと名主に会わせてくれないか」

「勿論。ここで待っていてくれ」


 ――なんだ。人狗も人並みに苦労しているではないか。

 また日記に書くべきことが増えたことを喜ぶ師春は、名主との伝手を探して村を歩いた。相変わらず広場では妖討使達が慌ただしく、それを遠巻きに窺う官人達も立ちっぱなしだ。

 ――私が人狗と色代まで交わしている間、この連中は何もせず、ただこうして立っていたのか。

 そう思うと、何やら一歩先んじたように感じる。あの官人座に、親友の峯匡が混じっているのを気の毒にも感じた。


 師春は、人の目に触れることなく、垣を乗り越え、名主の家の裏庭に忍び込んだ。家を挟んだ向こうには、妖討使達がたむろしている。

 まるで家内の者であるかのように迷いなく進んだ師春は、母屋の中に目当ての〝伝手〟を見つけた。名主である実量さねかずの娘だ。名をトラと言うが、名に似合わず小柄で、小鼻が少し上を向いた、リスを思わせる可愛らしい娘だ。父の実量と同じく、トラも病にはかかっていない。

 師春は合図の口笛を吹いて、時ならぬ来訪を告げた。


「中原様…?」

 今日はうぐいす色の小袖こそでを着ていたトラは、小走りで姿を現した。

「まぁ、こんな時間に。でも、まだ陽も高いのに…」

「あぁいや、今来たのは、ささめごとを交わすためではなくて、ちょっとした頼み事のためなんだ」

「え?もう、それならそうと早く…」


 このトラこそ、師春が増田小六から逆恨みされる理由ともなった娘だ。師春は上山本村を訪れた初日にトラに声をかけ、それ以来随分と親しい関係にあった。無論、父親の実量の目を盗んでのことだ。

 トラは耳まで赤く染めて俯いたが、すぐに顔を上げ、師春の用向きが何かを尋ねた。


「実は、そなたの父上に、引き合わせたい人物がいるんだ。今の状況を考えれば、実量殿にとって損にはならぬ話だと思う」

「どんなお話?」

「六台山の怪異を鎮められるかもしれない」

「本当に?」


 師春は胸を張って言った。


「実は、とある人狗に出会ってね。いや、心配はいらない。話は通じる。連中も元は人間なんだ。案外、関わってみるのも悪くない。きちんと条件さえまとめておけば、後で揉めることもないはずだ」

「そう仰るなら、話はしてみるけど」

「そう言ってくれると思っていた」


 師春はトラの両肩に優しく手を置いた。そして目を見つめながら言った。


「私は、その人狗と一緒に、村外れのうまやで待っている。さぁ、早くお行き。妖討使が戻ってきたら、実量殿はまた離れられなくなるだろう。人狗にも会えなくなる」

「分かった。今から話してみる」

かたじけない」

 トラはひらひらと手を振って、母屋の中に帰って行った。

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