山の子 第一章(1-5)

 師春と峯匡みねまさを喜ばせた人狗にんぐ紀政綱きのまさつなは、好奇、侮蔑、恐怖、様々な視線を受けながら、真っ直ぐ名主の家へ向けて歩を進めた。


 とかく天狗は、王権に逆らう、神をはずかしめる、仏法を軽んじる等と言われて評判が悪い。その悪評は、弟子である人狗の評価に直結した。それに発する蔑視は、特に上層の人間達から向けられるものだが、庶民からも恐怖の眼差しで迎えられることは少なくない。

 だが、政綱にその視線は刺さらない。心を閉ざしてさえいれば、自分が怪物だと認めてさえいれば、傷つく理由はなくなる。天狗と同じくらいに多くのことを教えてくれた人狗の先達、藤原家俊いえとしから学んだことだ。


 固く口を引き結んで歩む政綱の前に、顔に刀傷のある増田小六が立ち塞がった。

「おい、人狗が何の用だ?」

 目線を逸らし、無表情のまま政綱は口を開いた。

「大した用ではない」

「ほう、そうかい。ふうん…中々良い具足ではないか」


 小六は政綱の周りを一周しながら、品定めするように言った。

 政綱は、山伏の浄衣に似た黒い装束の上から、胴に腹巻を着し、両の手足に篭手こて脛当すねあてを着けている。腹巻はほぼ黒糸おどしで、一段だけ青糸を使っている。

 いた太刀は、人狗の物は皆そうであるように反りが浅い。飾り気こそないが、長身の政綱に合わせて二尺五寸の長さがある。政綱はこの愛刀を<ヒトトイ>と名付けていた。


「それで?何の用があってここへ来た?」

名主みょうしゅに会いたい」

「会ってどうする?」

六台山ろくだいさんで怪異が起きていると聞いた。何が起きているのかを知りたい」

「知ってどうする気だ?」


 小六の周りにぞろぞろと、その仲間達が集まり始めた。政綱は素知らぬ顔で答えた。

「知りたいだけだ」

「それだけか?人狗は師匠に似て、大層強欲だと言うではないか。山伏崩れみたいに村人を騙して、銭をかすめ取るつもりなんだろう?えぇ?」


 退屈しのぎに、ぶちのめす相手が欲しかったのだろう。こうした手合いは珍しくない。村人の姿があまり見えないのは、怪異の所為だけではなさそうだ。

 人との問答に飽き飽きしてきた政綱は、小六の言いがかりには答えず、ただ淡々と言った。


「どいてもらえるか?」

「あ?どけだと?」

「どけとは言っていない。どいてくれと頼んだはずだ」

「それは丁寧なことだな」

「どいてもらえるか?」

「どかぬと言ったらどうする?」


 政綱は、それまで逸らしていた目を、真っ直ぐ小六に向けた。人狗の大きな瞳は、天狗から授かったものだ。異能の持ち主であることは、その猛禽類に似た目が、何よりもよく物語っている。

 政綱の、獲物をキッと睨む鳶のような視線が、小六を貫いた。


「命を惜しめ、人の子」

「な、なんだと?」

 政綱は今や、指の先まで神経を尖らせていた。小六が斬りかかろうものなら、嫌と言うほど力の差を見せつけてやるつもりでいた。

 だが、その時はやって来なかった。小六の周りに群がった男達を押しのけて、陽に焼けた肌に、鼻梁の逞しい別の男が割り込んで来た。


「いい加減にしろ小六殿。それほど喧嘩の相手が欲しければ、おれが相手になろう。今ここで」

 太い眉を寄せ、押し殺した声で威嚇するこの男に、小六は不承不承に詫びた。

「…悪かったな、重任しげとう殿。忘れてくれ」

 小六も含め、周りに集まっていた小要兵衛尉の郎党達は、そそくさと道を空けた。

 男達が去ったのを見届け、重任と呼ばれた男は政綱に頭を下げた。


「非礼をお詫びする。まことに申し訳ない」

「いや、こちらこそ。騒ぎを起こす気はなかった。すまない。お蔭で助かった」

「とんでもない。助かったのはおれ達の方だ。あなたを怒らせては、あの小六達も死んでいただろう。そうすれば、おれも戦わないわけにはいかなかった」

 重任は歯を見せて笑った。

「皆が見ているな。さ、こっちへ。静かな所で話を伺いたい」


 政綱が案内されたのは、村外れに建つ、使われていないうまやの裏だった。それほど広い村でもないが、人の目を避けるには十分な距離があった。


「厩は空か。もしかして、馬は何かに殺されたのか?」

「いや。来た時からこうだった。おそらく村人がどこかに隠したんだろう。理由はもうお分りだろう?」

「ああした手合いが来ると踏んで、ということか」

「おれはそう思っている。あなたに絡んでいたあの男――増田小六と言うが――のようなのが、主の小要殿が抱える郎党には多くてな。大身の御家人ではあるが、正直に言うと、評判はあまりよろしくない」

「その郎党の中では珍しく、あんたは親切なわけか。…あぁ、おれは紀政綱。そちらは?」


 政綱の名を聞き取った重任は、軽く頭を下げ、名乗った。

「元岡重任と申す。それで政綱殿。この村へは如何なる用向きで?」

「あの小六とやらにも言ったが、六台山に起きた怪異について、村人の話を聞きたくてな。とりあえず、名主を訪ねてみようと思ってやって来たところだ」

「名主か。名主は、実量さねかず殿と言う老人だが…今は少し難しいだろうな」

「難しい?」

 重任は頷いた。

「今日は、朝から小要殿と、それから共に遣わされた前澤殿が、名主の屋敷に入り浸りでな。今訪ねても、会うのは難しいだろう」

「ふむ…」

「だが、待っていれば機はあるはずだ。待っていてくれるならば、おれが見計らって報せに来てもいいが?」

「心遣いはありがたいが――」

 政綱は、重任の親切に感謝していたが、その行動には猶引っかかる点があった。

「何故おれを助ける?」

狗賓ぐひん殿を助けるのは、何かおかしいか?」

「狗賓?」


 天狗や人狗を指して、<狗賓>という呼び名がある。前者に比べると、敬意の込められた呼び方だ。政綱は、山を発って以来、<狗賓>と呼ばれたことは数えるほどしかなかった。先達の家俊にしても、兄弟弟子の人狗達にしても、皆同じだろう。珍しい呼び方をされた政綱は、重任という人物に興味が湧いてきた。


「故郷では、人狗はそう呼ぶものだと教わってきた。敬意を込めてな。もしかして間違いか?」

「いや、間違いもなにも、天狗にしろ人狗にしろ、それは人間のつけた呼び名だ。狗賓というのも、確かに呼び名としてはあるものだ。間違いではない。だが、そう呼ばれることは珍しくてな。驚いたよ」

「そうか。珍しい呼び方か。おれは普通のものだと思っていた」

「つまりは、それがおれを助ける理由か?」

「ああ、そうだ。それに、悪い奴だとは思えない。世間では狗賓殿についてあれこれと悪評もあるが、少なくともあなたには当てはまりそうもない。さっきの身の処し方を見ていれば分かる」

「それは言い過ぎだ。さっきにしても、そろそろ我慢の限界だった」

「我慢してくれただけでも十分だ。名誉の弓取りでも、一対一ではとても敵わぬと聞く。思い止まってもらえただけ幸運だ」


 重任の言葉にむず痒さを感じ始めていた政綱に、村の広場から上がる声が聞こえてきた。何か慌てている様子だ。


「何かあったようだぞ」

 政綱が背後を振り返りながら言うと、重任はその肩越しに広場の様子をうかがった。

 確かに、何かに慌てているようだ。

「行った方が良さそうだ」

「ああ。構わず行ってくれ。ありがとう、助かった」

「礼はいらんよ。それより、この辺りに居てくれ。名主の件、報せに戻って来よう」

 重任は足早に去って行った。

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