山の子 第一章(1-5)
師春と
とかく天狗は、王権に逆らう、神を
だが、政綱にその視線は刺さらない。心を閉ざしてさえいれば、自分が怪物だと認めてさえいれば、傷つく理由はなくなる。天狗と同じくらいに多くのことを教えてくれた人狗の先達、藤原
固く口を引き結んで歩む政綱の前に、顔に刀傷のある増田小六が立ち塞がった。
「おい、人狗が何の用だ?」
目線を逸らし、無表情のまま政綱は口を開いた。
「大した用ではない」
「ほう、そうかい。ふうん…中々良い具足ではないか」
小六は政綱の周りを一周しながら、品定めするように言った。
政綱は、山伏の浄衣に似た黒い装束の上から、胴に腹巻を着し、両の手足に
「それで?何の用があってここへ来た?」
「
「会ってどうする?」
「
「知ってどうする気だ?」
小六の周りにぞろぞろと、その仲間達が集まり始めた。政綱は素知らぬ顔で答えた。
「知りたいだけだ」
「それだけか?人狗は師匠に似て、大層強欲だと言うではないか。山伏崩れみたいに村人を騙して、銭を
退屈しのぎに、ぶちのめす相手が欲しかったのだろう。こうした手合いは珍しくない。村人の姿があまり見えないのは、怪異の所為だけではなさそうだ。
人との問答に飽き飽きしてきた政綱は、小六の言いがかりには答えず、ただ淡々と言った。
「どいてもらえるか?」
「あ?どけだと?」
「どけとは言っていない。どいてくれと頼んだはずだ」
「それは丁寧なことだな」
「どいてもらえるか?」
「どかぬと言ったらどうする?」
政綱は、それまで逸らしていた目を、真っ直ぐ小六に向けた。人狗の大きな瞳は、天狗から授かったものだ。異能の持ち主であることは、その猛禽類に似た目が、何よりもよく物語っている。
政綱の、獲物をキッと睨む鳶のような視線が、小六を貫いた。
「命を惜しめ、人の子」
「な、なんだと?」
政綱は今や、指の先まで神経を尖らせていた。小六が斬りかかろうものなら、嫌と言うほど力の差を見せつけてやるつもりでいた。
だが、その時はやって来なかった。小六の周りに群がった男達を押しのけて、陽に焼けた肌に、鼻梁の逞しい別の男が割り込んで来た。
「いい加減にしろ小六殿。それほど喧嘩の相手が欲しければ、おれが相手になろう。今ここで」
太い眉を寄せ、押し殺した声で威嚇するこの男に、小六は不承不承に詫びた。
「…悪かったな、
小六も含め、周りに集まっていた小要兵衛尉の郎党達は、そそくさと道を空けた。
男達が去ったのを見届け、重任と呼ばれた男は政綱に頭を下げた。
「非礼をお詫びする。まことに申し訳ない」
「いや、こちらこそ。騒ぎを起こす気はなかった。すまない。お蔭で助かった」
「とんでもない。助かったのはおれ達の方だ。あなたを怒らせては、あの小六達も死んでいただろう。そうすれば、おれも戦わないわけにはいかなかった」
重任は歯を見せて笑った。
「皆が見ているな。さ、こっちへ。静かな所で話を伺いたい」
政綱が案内されたのは、村外れに建つ、使われていない
「厩は空か。もしかして、馬は何かに殺されたのか?」
「いや。来た時からこうだった。おそらく村人がどこかに隠したんだろう。理由はもうお分りだろう?」
「ああした手合いが来ると踏んで、ということか」
「おれはそう思っている。あなたに絡んでいたあの男――増田小六と言うが――のようなのが、主の小要殿が抱える郎党には多くてな。大身の御家人ではあるが、正直に言うと、評判はあまりよろしくない」
「その郎党の中では珍しく、あんたは親切なわけか。…あぁ、おれは紀政綱。そちらは?」
政綱の名を聞き取った重任は、軽く頭を下げ、名乗った。
「元岡重任と申す。それで政綱殿。この村へは如何なる用向きで?」
「あの小六とやらにも言ったが、六台山に起きた怪異について、村人の話を聞きたくてな。とりあえず、名主を訪ねてみようと思ってやって来たところだ」
「名主か。名主は、
「難しい?」
重任は頷いた。
「今日は、朝から小要殿と、それから共に遣わされた前澤殿が、名主の屋敷に入り浸りでな。今訪ねても、会うのは難しいだろう」
「ふむ…」
「だが、待っていれば機はあるはずだ。待っていてくれるならば、おれが見計らって報せに来てもいいが?」
「心遣いはありがたいが――」
政綱は、重任の親切に感謝していたが、その行動には猶引っかかる点があった。
「何故おれを助ける?」
「
「狗賓?」
天狗や人狗を指して、<狗賓>という呼び名がある。前者に比べると、敬意の込められた呼び方だ。政綱は、山を発って以来、<狗賓>と呼ばれたことは数えるほどしかなかった。先達の家俊にしても、兄弟弟子の人狗達にしても、皆同じだろう。珍しい呼び方をされた政綱は、重任という人物に興味が湧いてきた。
「故郷では、人狗はそう呼ぶものだと教わってきた。敬意を込めてな。もしかして間違いか?」
「いや、間違いもなにも、天狗にしろ人狗にしろ、それは人間のつけた呼び名だ。狗賓というのも、確かに呼び名としてはあるものだ。間違いではない。だが、そう呼ばれることは珍しくてな。驚いたよ」
「そうか。珍しい呼び方か。おれは普通のものだと思っていた」
「つまりは、それがおれを助ける理由か?」
「ああ、そうだ。それに、悪い奴だとは思えない。世間では狗賓殿についてあれこれと悪評もあるが、少なくともあなたには当てはまりそうもない。さっきの身の処し方を見ていれば分かる」
「それは言い過ぎだ。さっきにしても、そろそろ我慢の限界だった」
「我慢してくれただけでも十分だ。名誉の弓取りでも、一対一ではとても敵わぬと聞く。思い止まってもらえただけ幸運だ」
重任の言葉にむず痒さを感じ始めていた政綱に、村の広場から上がる声が聞こえてきた。何か慌てている様子だ。
「何かあったようだぞ」
政綱が背後を振り返りながら言うと、重任はその肩越しに広場の様子を
確かに、何かに慌てているようだ。
「行った方が良さそうだ」
「ああ。構わず行ってくれ。ありがとう、助かった」
「礼はいらんよ。それより、この辺りに居てくれ。名主の件、報せに戻って来よう」
重任は足早に去って行った。
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