山の子 第一章(1-4)
「もう六日目だぞ。今日で六日目だ。殿は何故動こうとなさらんのだ!」
地べたに胡坐をかいて座る増田小六は、拳を地面に打ちつけながら、周りの
だが四月の春風が運ぶ花の香りは、小六の憤りが仲間達に届く前に、すっかり包み込んでしまっていた。顔に刀傷のある小六が凄んでみせても、仲間達にはどうもピンとこないらしい。
ここは、
小六達が待機させられているのは、
小六の言葉をうわの空で聞いていた中杉平三郎は、辺りを見回してから口を開いた。
「動こうにも動けんのだろう。あれはただの山ではないんだ」
「それはそうだろう。妖の居る山だ。ただの山であろうはずがない。だが、それが何だと言うんだ。妖が居るからここまで来たんだろう?」
「うるさい奴だな。他にも色々と事情があるんだろう。黙って待っていればいいんだ。騒いだところで我等にはどうしようもない」
「――そう。黙っていればいいんだ。動いたところで、どうせ大した働きもできまい」
武士の集団から少し隔たった、
「聞こえたらどうするつもりだ?」
二人は妖討使でも、その郎党でもない。こうした事件が起きると、都から、国府から、或いは将軍府のある
小槻峯匡は、京都からやって来た官人だ。中原師春も生まれは官人の家なのだが、ここへは官人として来ているのではなかった。
「心配いらんよ。聞こえるわけがない。あの男は耳が塞がってるんだよ。聞いてただろう?昨日と同じことを言ってる。〝五日目だ〟というのが〝六日目だ〟に変わっただけだ。定めし明日は〝七日目だ〟と言って騒いでるに違いない」
「あの馬鹿の耳は塞がってるかもしれんが、お前は目が見えてないのではないか?」
「これはしたり。私の目が見えていないだと?お前の
「え?何処だ?右か、左か?」
「右だ。あぁ、峯匡。それはちょっと目立つなぁ」
二人とも齢は同じで二十三だ。師春はわざとらしく腕を組み、しげしげと峯匡の白髪に見入った。
「笑わないでもらえるか」
「これは失礼した。それで?」
「ん?いや、だから、目が――」
「見えてないのでは、と?」
「ああ、そうだ。私はそれを心配している」
「どういう意味だ?」
二人とも、話しながら硯で墨を作り始めたが、殆ど機械的に行っているに過ぎない。妖討使が動かなければ、二人には筆を執る理由がない。
「日が経つほど、お前の首が危うくなるという話だ」
「全く意味が分からない」
「自分に向けられる目に気が付かないのか?女を奪われた男の、嫉妬深い、危ない目だ。ほら今も…」
正面から目線を感じた師春は、思わず顔を上げた。見えたのは増田小六。文字通りの嫉視だ。一瞬目が合ったが、師春は何食わぬ顔で視線を逸らした。
「こら、真っ直ぐ見るなよ」
「逆恨みではないか。私は何も悪くない」
これは色男の抗弁ではなく、事実そうだった。小六は村娘に言い寄って、首尾よく二人きりになれたものの、ことに及ぼうとしたところが、村娘からは「抱かれるのなら、中原様に」と言って断られたらしい。それ以来、小六は師春を目の敵にしているのだった。
「そうかもしれんが、相手はそうは思わないようだな」
「ではどうしろと?まだ何の話も手に入れていないというのに、ここを去れとでも?お前は我家の事情をよく知ってるだろう。家計は先細りして、残ったのは位だけだ。それすら危ういというのに――」
「そうは言っておらんだろう。身を慎めということだ。お前は顔が良い。常ならば、それは結構なことだ。正直に言って羨ましい」
「何だそれは。自分がモテぬからと、恨み言か?」
こんな一言も許されるような二人の仲だ。師春もよく分かってはいるが、峯匡は幼馴染である彼を心配して言っているのだった。
「そうではない。いいか?ここに居る間は、
「助言はありがたいが、私はただこうしてここに居るだけだ。何もしていない」
「あぁ、そうだろうとも。したが、それも相手はそうは思わないようだな?」
「嫌だ嫌だ…。あの馬鹿ではないが、早く妖討使に動いてもらいたいものだ。山にどんな化け物がいるのかすら分からないまま、毎日毎日過ごすのにはもう飽きた」
「それは同感だ。だが、連中が思い切って動くまでは、まだ日がかかるだろうな」
二人は、機械的に墨を擦り、紙を広げ、「四月十七日」と日付を書き、その下に「晴」と天気を記した。そしてすぐに筆を置き、とりとめのない雑談に時を過ごした。
二人の頭の上から声がかけられたのは、それから半刻経った頃のことだった。
「御免」
「何用かな?」
師春は見上げもせず、ぶっきらぼうに答えた。
「名主の家は何処に?」
「名主?真っ直ぐ前を見ると、
「どうも」
男が通り過ぎる時、ガチャガチャと具足の鳴る音が聞こえた。妖討使の新手だろうか。何人増えようと事態は動きはしないだろう。馬鹿がまた一人増えただけのことだ。
口を隠しながら大あくびをした師春の横で、峯匡が大慌てで筆を執っている。
「どうした?」
「何をボサっとしてるんだ師春!早く筆を!」
「は?何だ?どうしたそんなに――」
「見てなかったのか?あの男、
「何と⁉」
「わ!こら、追うな!」
大急ぎで立ち上がった師春を抑え込みながら、峯匡は耳元で囁いた。
「小六達に近寄りたいのか?いいから座っていろ」
「ど、どんなだった?どんな目をしていた?
乱れた
「馬鹿が感染ったのか?羽などあるはずがないだろう。ここからでも背中が見える」
「目は?目はどうだった?」
「人の目とは違う。聞いた通りだ。こんな風に、白目が狭くて、黒目が大きい…」
峯匡は紙に筆を走らせ、見たままに描いた。書き上げられた目は、人の
「凄いぞ峯匡!本物だ!」
喜ぶ二人の前に敷かれた筵から、
「みっともない。人狗が出てきたくらいで」
若い二人に冷や水を浴びせるような一言をかけたのは、中原
「おう、師春殿か。
白々しい一言だ。師春は顔を引きつらせながら、何とか笑顔を
師春は一応のことで、今回この村を訪ねることは事前に師房に伝えておいたのだ。屋敷の門内にも通されず、下人を遣わして「承った」とだけ言って寄越したのは、他でもない師房であった。師春が居ることを、知らないはずがなかった。
「これは
師春は先日の冷遇に対する抗議の意を含ませ、わざとらしく深々と頭を下げた。
師房は会釈もなく、無表情のままだ。
「励んでおられるか?」
「はい。それはもう精々」
「ほう。励むのは結構だが、お父上も大外記の職にあったお方だ。あまり
――なにが〝中原の名〟だ。没落せんとする父を一顧だにしなかったお前に、何の気兼ねが要るだろうか。
頭に血が上るのを感じた。それを看取した峯匡が、小さく咳払いした。
師春は、友の気遣いに感謝しながら、満面の笑みを湛えて応じた。
「お心遣い痛み入り申す。ですがこの師春は、いずれ大成することでしょう。ええ勿論、中原家のために」
「それは楽しみだ」
僅かに怒気を滲ませた師房は、前に向き直ったきり振り向くことはなかった。
深呼吸して、腹に溜まった熱を吐き出した師春は、峯匡の肩を軽く叩いた。
「さ、
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