山の子 第一章(1-4)

「もう六日目だぞ。今日で六日目だ。殿は何故動こうとなさらんのだ!」


 地べたに胡坐をかいて座る増田小六は、拳を地面に打ちつけながら、周りの傍輩ほうばい達に同意を促すように叫んだ。打ちつけた拳に砂利が食い込みヒリヒリと傷む。

 だが四月の春風が運ぶ花の香りは、小六の憤りが仲間達に届く前に、すっかり包み込んでしまっていた。顔に刀傷のある小六が凄んでみせても、仲間達にはどうもピンとこないらしい。


 ここは、真原国まはらのくにの内陸に位置する久真里くまり郡上山本みょう朝曳庄あさびきのしょう内にある六台山ろくだいさんの麓に新開された集落で、戸数は大小合わせて二十以上はある。集落の景観は場所によって様々だが、この上山本では家同士が比較的まとまって建てられている。

 あやかしの事件が起きた直後から、住民の中には熱や頭痛、眩暈めまいなど、何らかの不調を訴える者が増えた。妖の呪いだろうと言われており、医薬の施しに加えて祈祷も執り行われた。効果の程は、余所者ばかりが目に付く現状が如実に物語っている。


 小六達が待機させられているのは、名主みょうしゅの家の前に計画的に作られた村の広場だ。六台山で妖が蜂起したことを受け、上山本名には、国衙こくがからの命令を受けた二人の妖討使ようとうしが入部している。一人は小要兵衛尉基助ひょうえのじょうもとすけ。いま一人は前澤四郎左衛門尉勝時さえもんのじょうかつとき。ともにこの真原の御家人でもある。小六達は、妖討使小要基助の郎党ろうとうで、国衙の催促に従った主人と共に上山本名に駐屯していた。

 小六の言葉をうわの空で聞いていた中杉平三郎は、辺りを見回してから口を開いた。


「動こうにも動けんのだろう。あれはただの山ではないんだ」

「それはそうだろう。妖の居る山だ。ただの山であろうはずがない。だが、それが何だと言うんだ。妖が居るからここまで来たんだろう?」

「うるさい奴だな。他にも色々と事情があるんだろう。黙って待っていればいいんだ。騒いだところで我等にはどうしようもない」


「――そう。黙っていればいいんだ。動いたところで、どうせ大した働きもできまい」


 武士の集団から少し隔たった、狩衣かりぎぬ水干すいかん姿の一群の中で、むしろに腰掛けた中原師春もろはるは小声で呟いた。青い裾濃すそご染めの水干を着た師春を、隣に座っている似たような水干姿の小槻峯匡おづきみねまさが肘で突いた。

「聞こえたらどうするつもりだ?」


 二人は妖討使でも、その郎党でもない。こうした事件が起きると、都から、国府から、或いは将軍府のある岩動いするぎの町から、文筆系吏僚の公家達――特に<官人かんじん>と呼ばれる――が、事件の記録を残すためにやって来るのだった。

 小槻峯匡は、京都からやって来た官人だ。中原師春も生まれは官人の家なのだが、ここへは官人として来ているのではなかった。


「心配いらんよ。聞こえるわけがない。あの男は耳が塞がってるんだよ。聞いてただろう?昨日と同じことを言ってる。〝五日目だ〟というのが〝六日目だ〟に変わっただけだ。定めし明日は〝七日目だ〟と言って騒いでるに違いない」

「あの馬鹿の耳は塞がってるかもしれんが、お前は目が見えてないのではないか?」

「これはしたり。私の目が見えていないだと?お前のびんに、一本だけ光るものがあるのは誰かが指摘したか?していないだろう?」

「え?何処だ?右か、左か?」

「右だ。あぁ、峯匡。それはちょっと目立つなぁ」


 二人とも齢は同じで二十三だ。師春はわざとらしく腕を組み、しげしげと峯匡の白髪に見入った。


「笑わないでもらえるか」

「これは失礼した。それで?」

「ん?いや、だから、目が――」

「見えてないのでは、と?」

「ああ、そうだ。私はそれを心配している」

「どういう意味だ?」


 二人とも、話しながら硯で墨を作り始めたが、殆ど機械的に行っているに過ぎない。妖討使が動かなければ、二人には筆を執る理由がない。


「日が経つほど、お前の首が危うくなるという話だ」

「全く意味が分からない」

「自分に向けられる目に気が付かないのか?女を奪われた男の、嫉妬深い、危ない目だ。ほら今も…」


 正面から目線を感じた師春は、思わず顔を上げた。見えたのは増田小六。文字通りの嫉視だ。一瞬目が合ったが、師春は何食わぬ顔で視線を逸らした。


「こら、真っ直ぐ見るなよ」

「逆恨みではないか。私は何も悪くない」

 これは色男の抗弁ではなく、事実そうだった。小六は村娘に言い寄って、首尾よく二人きりになれたものの、ことに及ぼうとしたところが、村娘からは「抱かれるのなら、中原様に」と言って断られたらしい。それ以来、小六は師春を目の敵にしているのだった。


「そうかもしれんが、相手はそうは思わないようだな」

「ではどうしろと?まだ何の話も手に入れていないというのに、ここを去れとでも?お前は我家の事情をよく知ってるだろう。家計は先細りして、残ったのは位だけだ。それすら危ういというのに――」

「そうは言っておらんだろう。身を慎めということだ。お前は顔が良い。常ならば、それは結構なことだ。正直に言って羨ましい」

「何だそれは。自分がモテぬからと、恨み言か?」


 こんな一言も許されるような二人の仲だ。師春もよく分かってはいるが、峯匡は幼馴染である彼を心配して言っているのだった。


「そうではない。いいか?ここに居る間は、女子おなごに近寄るな。笑いかけるな。人気のない所に連れ立って行くなど論外だ。村民はあまり出歩かないのだから、余計に目立つだろう?気を付けた方が賢い」

「助言はありがたいが、私はただこうしてここに居るだけだ。何もしていない」

「あぁ、そうだろうとも。したが、それも相手はそうは思わないようだな?」

「嫌だ嫌だ…。あの馬鹿ではないが、早く妖討使に動いてもらいたいものだ。山にどんな化け物がいるのかすら分からないまま、毎日毎日過ごすのにはもう飽きた」

「それは同感だ。だが、連中が思い切って動くまでは、まだ日がかかるだろうな」


 二人は、機械的に墨を擦り、紙を広げ、「四月十七日」と日付を書き、その下に「晴」と天気を記した。そしてすぐに筆を置き、とりとめのない雑談に時を過ごした。

 二人の頭の上から声がかけられたのは、それから半刻経った頃のことだった。


「御免」

「何用かな?」

 師春は見上げもせず、ぶっきらぼうに答えた。

「名主の家は何処に?」

「名主?真っ直ぐ前を見ると、藁葺わらぶきの大きな屋根が見えるだろう?それが名主の家だ」

「どうも」


 男が通り過ぎる時、ガチャガチャと具足の鳴る音が聞こえた。妖討使の新手だろうか。何人増えようと事態は動きはしないだろう。馬鹿がまた一人増えただけのことだ。

 口を隠しながら大あくびをした師春の横で、峯匡が大慌てで筆を執っている。


「どうした?」

「何をボサっとしてるんだ師春!早く筆を!」

「は?何だ?どうしたそんなに――」

「見てなかったのか?あの男、人狗にんぐだぞ!」

「何と⁉」

「わ!こら、追うな!」


 大急ぎで立ち上がった師春を抑え込みながら、峯匡は耳元で囁いた。


「小六達に近寄りたいのか?いいから座っていろ」

「ど、どんなだった?どんな目をしていた?わしか?たかか?それともとびみたいな目だったのか?は、羽はあったか⁉」

 乱れた烏帽子えぼしもそのままに、師春はまくし立てた。

「馬鹿が感染ったのか?羽などあるはずがないだろう。ここからでも背中が見える」

「目は?目はどうだった?」

「人の目とは違う。聞いた通りだ。こんな風に、白目が狭くて、黒目が大きい…」


 峯匡は紙に筆を走らせ、見たままに描いた。書き上げられた目は、人のまぶたの中に、猛禽もうきん類の目玉をめ込んだようなものだった。

「凄いぞ峯匡!本物だ!」


 喜ぶ二人の前に敷かれた筵から、朽葉くちば色の水干を着た中年の官人が振り返った。師春はこの男が嫌いだ。目が合って思わず顔をしかめた。

「みっともない。人狗が出てきたくらいで」

 若い二人に冷や水を浴びせるような一言をかけたのは、中原師房もろふさ。師春とは同族だが、殆ど他人と言ってもいい男だ。


「おう、師春殿か。草匠そうしょうになったとは聞いておったが、ここで会うとはな」


 白々しい一言だ。師春は顔を引きつらせながら、何とか笑顔をつくろった。

 師春は一応のことで、今回この村を訪ねることは事前に師房に伝えておいたのだ。屋敷の門内にも通されず、下人を遣わして「承った」とだけ言って寄越したのは、他でもない師房であった。師春が居ることを、知らないはずがなかった。


「これは大外記だいげき殿。お越しでしたか」


 師春は先日の冷遇に対する抗議の意を含ませ、わざとらしく深々と頭を下げた。

 師房は会釈もなく、無表情のままだ。


「励んでおられるか?」

「はい。それはもう精々」

「ほう。励むのは結構だが、お父上も大外記の職にあったお方だ。あまり野卑やびた仕事をして、中原の名をおとしめぬよう気を付けられよ」


 ――なにが〝中原の名〟だ。没落せんとする父を一顧だにしなかったお前に、何の気兼ねが要るだろうか。

 頭に血が上るのを感じた。それを看取した峯匡が、小さく咳払いした。

 師春は、友の気遣いに感謝しながら、満面の笑みを湛えて応じた。


「お心遣い痛み入り申す。ですがこの師春は、いずれ大成することでしょう。ええ勿論、中原家のために」

「それは楽しみだ」

 僅かに怒気を滲ませた師房は、前に向き直ったきり振り向くことはなかった。

 深呼吸して、腹に溜まった熱を吐き出した師春は、峯匡の肩を軽く叩いた。


「さ、見物みものだぞ峯匡。今日こそ、何かが起こりそうな気がする」

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