山の子 第一章(1-3)
黙ってしまえば、聞こえてくるのは焚火のあげるパチっという音だけだ。
長い沈黙の後、思い出したように女が口を開いた。
「…鬼と天狗はよく並び称されるけれど、実は大きな違いがある。天狗は子どもを得られないんだ。不思議なことさ。あれほどものに執着する天狗が、子を得られないなんてね。だから、政綱。あんた達は、天狗の息子でもあるのさ」
昔、政綱に同じことを言った山の神がいた。とても思いやり深い神だ。政綱はその神に答えたのと同じ言葉を女に返した。
「それはどうだろうな…」
女は、その神と同じように笑った。
「余計なことを言ったね。悪かった。怒らないでおくれ。ほら、お詫びの印に、あんたが殺したあのホウドラのことでも教えてあげよう」
馬から外した鞍を指差して、女は言った。
鞍の上に乗せられた黒い塊は、ホウドラと呼ばれる山の
「立派な体だったが、あいつはこの辺では有名だったのか?」
「たぶんこの山のホウドラでは、一番大きいんじゃないかい。中々手強かったろう?」
「ああ。一直線におれを目がけて走って来た。矢のような速さだった。脚立ちが悪くて、戦うにも苦労したよ」
「賢い奴だったようだよ。知恵を絞って、自分より体格の大きなカワクマを倒したらしい。それで縄張りを一気に広げたのさ」
「そこに俺が入ったと」
「そう。そして、それが奴の運の尽きだった」
政綱は、ホウドラの死体を見た。火に照らされて、毛皮の色や模様は全て赤味がかって見える。実際は、黒地に銀色の筋模様が入っていたはずだ。市場では<
「その話を添えれば、猶更高く売れるだろうな」
「山に持って帰らないのかい?
この女は、人狗の古いしきたりや伝統に随分と詳しいらしい。誰に聞いたものだろうか。案外、政綱の師匠である太郎坊が、直接彼女に語ったのかもしれない。
「詳しいんだな。だがそれも昔の話だ。今では、初尾として獲物を献上するのは、初めて山を下りた年だけだ」
「そうだったのかい。それ以外はどうするのさ。神に初尾を献上しないまま過ごすのかい?」
「代わりに土産話をすることになっている。皆で集まってな。要するに宴会だ」
「何だか俗っぽいやり方だね」
「それも、おれ達のためでもあるそうだ。何処に行っても銭が浸透している。逆に言えば、銭がなければ旅に障りが出る時代だ。だから、獲物は銭に代えろという教えでな」
「ますます俗っぽい」
女はすっきり整った鼻に皺を寄せ、顔を顰めた。まるで子ども相手におどけてみせるような表情だ。政綱は歯をみせて笑った。
「まぁそう言わないでくれ。世の流れだ。おれ達には抗えない」
「全くねぇ。人間は、本当に手強くなったよ」
「そうだな」
「この真原でも、人間同士の争いのついでに、神と争うようなのが居てね。図太いというか、大したもんだよ」
「ついで?どういうことだ?」
「詳しいことは分からない。どうも事の起こりは、人間同士の所領を巡っての争いらしい。よくあるだろう?口論から刃傷沙汰になってしまうことがさ。かなり派手にやりあったみたいだ。それが
「六台山か。それほど遠くはないな。山で人間同士が殺し合いになったのか?」
「ああ。何人も死んだらしい。暴れられて気に障ったんだろう。それで、人間を追い払いにかかったのさ」
「襲われた者は、妖が出たと騒いだわけか」
「そうさ。麓の村人も怖がってね。どうも、
「ふうむ…」
妖討使は、<妖怪
「妖討使が出て来たのなら、どういう形にせよ、いつかは決着が付くだろうな」
「あの神が死ぬまで、山を攻めるだろうかね?」
「そうかもしれん。今の口ぶりだと、村の人々はその神のことを知らなかったように聞こえたが?」
「最近できた村だからね。そりゃあ、知らないだろうよ」
いま女の言った〝最近〟は、文字通りの意味での〝最近〟だ。百年以内のことではない。政綱も六台山は知っているが、山の麓に村があるとは、今の今まで知らなかった。
「だったら、力尽くで終わらせようとする公算が高いな。妖討使だけでは手に負えずとも、将軍府が置いた
「じゃあ、助かる手立てはなさそうかい?」
「誰かが横から首を突っ込んでみても同じだろう。武士が耳を貸すとは思えん」
「たとえ小さな社だろうと、祀られてさえいればね。話し合いで解決することができたかもしれない」
「そうはしたくないのかもな。祀れば、相手を神だと認めたことになる。だがそうしなければ――」
「妖として葬ることができる」
「将軍府はあの異国合戦以来、恩賞給与の問題を抱えている。少しでも武士の恩賞地を確保したいはずだ。妖が相手なら、奪い取っても誰も咎めはしない」
異国が
将軍府は、将軍直轄領と、執権の
恩賞を請求したのは、御家人だけには留まらない。公家・社寺に属する武士も、異国合戦への動員に対して恩賞を求めているし、異国降伏の祈祷を行った諸国の社寺も、それへの補償を願い出ている。
「下から突き上げられて困った将軍府は、妖退治――神殺し――に活路を見出した。妖が支配する土地は、人間にしてみれば無主の土地だ。奪い取れば、武家の一円領として、公家の横車に煩わされることなく、恩賞に充てることができる」
「よく考えたもんだ。明日は我が身というわけだね。まぁ、明け渡すつもりはないが」
女の目が、鋭く光っている。政綱がただの人間であったら、堪らず逃げ出していただろう。明らかな怒りの色が看て取れた。
「だが、将軍府の狙い通りにことが運んだとは言えない。一つだけ、連中にはどうしようもない問題が残されている」
女が向けた怒りに燃える目を、政綱は正面から見つめ返した。
「<庭>だ。表の土地を奪えても、人間はそう易々と<庭>に踏み込むことはできない」
「<庭>さえ残っていれば、神は戦い続けることができる。天狗が
「だから、連中は一度仕掛けた戦を、いつまでも続けることになる。それがまた、新しい火種を燻ぶらせることになっても、辞めることができない。悪循環だ」
「じゃあ、まだ生きる手立ては残されているわけだ。人間が辟易するほど激しく荒れてみせれば、神だと認めざるを得なくなる」
「そうかもしれん」
「他人事のように言うじゃないか。天狗の山こそ、気を付けるべきじゃないのかい」
「心配いらない。天狗には、これ以上ない武器がある」
「それは何だい?」
「悪評だ」
政綱は、真面目くさった顔でそう言った。
「これに勝る武器はないだろう?」
ふっと笑った女は、顔にかかった髪を指先で掻き分けた。目の激しい炎は消えていた。
「ああ、それは間違いないよ。何と言ったって、天津神が認めた魔王だものねぇ」
「そうだ、魔王だ。俺の師匠はな。それも、とても懐の深い魔王だ」
「おや。今のは、太郎坊が聞けば喜ぶだろうねぇ」
「そうか?だったら、内緒にしておいてくれ」
「いいとも。内緒にしておこうよ」
微笑んで、「さて」と立ち上がった女は、藤色の
「これを着てお休みよ。火の番は誰かにさせよう。大丈夫だよ。尻に噛みついたりするような子じゃないから」
温かい蓑を受け取りながら、政綱は礼を述べた。
「なあに、
「ありがとう。そうさせてもらう」
「また会えるのを楽しみにしているよ、
「ああ。また会おう」
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