山の子 第一章(1-2)


 小さな焚火が、暗闇の中にゆらゆらと人影を浮かび上がらせている。

 影の主は、総髪を後ろで束ね、山伏風の装束に身を包んでいる。だが、頭巾も袈裟も数珠も、仏徒らしきものは何一つ身につけていない。

 赤く照らされた顔は独特の険しさを湛えており、ある種の風格を感じさせる。その顔を、見るともなく火の方に向けたまま、殆ど身動きもしない。時々思い出したように、小枝を火に投げ入れるだけである。男が火を焚いてから一刻ほど経つが、その間ずっとこうして過ごしていた。

 人間の供は居ない。一緒に居るのは、薄明りにぼんやりと照らされている馬だけだ。


 山中のひっそりとした野営地では、その馬の草を食む音が、枝の弾ける音に交じって聞こえるばかりである。

 男は姿勢を変えず、次に投げ込むつもりの小枝を手で弄びながら、ぼそりと呟いた。

「次は何処に行こうか」

 ややあって、馬が鼻を鳴らして答えた。

「…ああ、そうだな。まずは、そいつを売り払おうか――」

 男の鎧と一緒に置かれた馬の鞍に、何か黒い塊が乗せられている。男はそれをちらっと見て、自分の言葉を継いだ。

「それからだ。それから何処へ行く?」

 馬は蹄で土を蹴り、鼻を鳴らしながら首を振った。

「お前の言う通りだよ。おれもそう思う」


 小枝を火に投げ入れた男は、次の枝を掴もうと動かした手を止めた。

 いま投げ入れた枝が、ぱちっと音をたてて弾けた。馬が顔を上げた。

 木と草の向こうから、僅かに衣擦れの音が聞こえてくる。音の調子に、男は獣じみた感覚を傾けた。この歩き方は女だ。

 だが、この山の中で?しかも、月も見えない暗い夜に?

 男は、左横にぴったり沿うように横たえた太刀に、指先で触れた。その気になれば、目の前で太刀を振り上げられても、振り下ろされる前に抜刀する自信がある。近寄る女が野盗か、迷い人か、それ以外か…。男は少しずつ体重を移動させながら考えた。


「物騒な考えはおよしよ」

 女の声。男は顔を向けず、横目で様子を窺った。暗闇の中。茂みの向こうにいる。

 火の前にいては不利だ。相手からは、こちらの姿がよく見えていることだろう。男はさっと左手を火にかざした。

 すると、女は意図を見抜いたらしく、からかうような声音で言った。

「おや、せっかく焚いたのに消してしまうのかい?やめておきな。身体を冷やすよ」

 ―― 何故分かった?どうもこの女、ただの人間ではないらしい…。

 ぼんやりとではあるが、女の正体に察しがついた男は、言われた通りにした。そして顔を上げると、茂みの向こうに声をかけた。


「心遣いに感謝する」

「それはどうも。そっちに行っていいかい?」

「ああ」

 男が答えると、白い太腿を露わに下草を踏み分けながら、声の主が姿をみせた。火に照らされた女は、美しい藤色の小袖こそでの上から蓑を羽織っている。異様な風体だが、面貌もまた場違いなほど美しかった。


 女は男の横に腰を下ろすと、傍にあった枝を拾い上げて、火の中にほうった。

「他に人はいないようだが、あの子と話してたのかい?」

 馬を指差した女に、頷いて返した。

「そうだろうと思った。それで分かったんだよ。手をかざして、火を消そうとしているのがさ」

 女は、男の目を見て、納得した風に一人で頷いた。

 女からは、懐かしい香りがした。山の花、木の実、それから纏った蓑の芳ばしい匂い。嗅いだことのある香りだ。男は、女の正体がはっきりと分かった。

「その目。やっぱり、あんた人狗にんぐだね?」

「そうだ。紀政綱きのまさつなという」

 男――人狗の紀政綱――は、常の人よりも瞳の大きな目で、女に目礼した。


「そう。政綱というのかい」

 女は何かを考える様子であったが、目を転じて馬を指差した。

「あの子は?」

柳丸やなぎまるだ」

「柳丸。賢そうな子だ」

 政綱の愛馬――柳丸は、一声いなないて頭を垂れた。

「ほう?ふふふ、殊勝な物言いじゃないか。そう。政綱に柳丸か。私は…私の正体はもう分かっているだろう?」

「ああ。夜の山でとびきりの美人を見れば、大体は何者なのかが分かる」

「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。その下手なお世辞も、天狗から教わったのかい?」

「いや、独学だ」


 女は笑っている。政綱は手に取った枝を二つに折り、それを火に投げ込みながら尋ねた。

「山に入っては迷惑だったか?それならば、すぐにでも発つが」

「いいや、そうじゃないよ。此頃はあまり人狗を見ないからね。ちょっと話でもしようと思って来ただけさ。それで、あんたはどの山から来たんだい?」

鳳至ふげしだ」

「鳳至?」

 政綱は頷いた。

「ああ」

「それじゃあ、太郎坊の弟子か」

「そうだ」


 政綱の育った鳳至山は日出ひじ国にある。ちなみにこの<日出>という名は、国号としても用いられている。この国の人々は、行政区としての<日出国>を〝ひじのくに〟と読み、国号としてのそれは〝ひじこく〟という風に、呼び分けて使用する。

 ここ真原まはら国と鳳至山のある日出国とは隣あっている。おそらくこの女は、政綱の師匠である大天狗――鳳至山太郎坊とは、古くからの知り合いなのだろう。

「ふうん、そうか鳳至の人狗か。だったらあんた、家俊いえとしという名に覚えは?」

「家俊は、かなり年長の兄弟子だ。師匠と呼んでも差し支えない。知り合いなのか?」

「最近見かけて、それ以来、この鳴海なるみ山で人狗といえば、殆どその家俊ばかりだよ」

「最近?」

 政綱は驚いたように眉を上げた。

「家俊が旅に出るようになってから、もう百年以上は経つはずだ。旅の話はおれも子どもの頃から色々と聞かせてもらった。本当に最近なのか?もっと前からじゃないのか?」

「そうだったかねぇ。しかし百年なんてものは、最近と言ってもいいくらいさ」

「それは、寿命のないあんた達にとってはそうだろう」

「人狗にとっても同じさ。百年や二百年では済まされないほど、それは古い古い時代の約束を、今でも果たそうとしているじゃないか」


 女は顔を上げて、焚火の向こう、明かりの届かない分厚い闇の向こうを見ている。昼間であれば、女の目線の先には海が見えるはずだ。

「天狗と龍神が、大国主おおくにぬしと交わした約束か…。正直に言うと、おれにはその約束というものが、意味のあるものだとは思えないんだ。昔の人狗は、本気でその務めのために身を捧げていたのかもしれん。だが、今のおれ達にとっては、伝統という以上の意味を持ち得ない」

「伝統は無価値かい?意味がないかい?」

「いや、何と言えばいいだろうか……。人狗の伝統を軽んじるわけではない。ただ、おれ達が放浪する理由は、もうその伝統のためではなくなっているんだ」


 女には、闇の向こうの海が見えているのかもしれない。遥か昔、国津神くにつかみの盟主であった大国主は、海を渡って<常世とこよ>へと去った。その大国主が消えた海を見たまま、女は呟いた。

「大国主にも困ったものさ。探すべきものが何か、誰にもはっきりとは分からないんだものねぇ…」

「当てのない旅だ。知っての通り、おれ達には人界に家はない。お蔭でこの有様だ」

「そしてあやかしを――あまり好きな呼び方じゃないがね――殺して、時には神ですら斬る。そうして糧を得て、当てのない旅を続ける。神の弟子として」

 政綱の言葉を引き継いだ女は、終わりの一言に皮肉を込めて言った。

「責められても陳弁のしようがない。だが、おれ達にはこれしか生き方が残されていない。おれ達はほぼ例外なく捨て子か、孤児だ。世間から見放され、異界で育った者だ。天狗から育てられたおれ達に、他の生き方はない」

「天狗を恨んでるのかい?」

「いや――」

 政綱は迷いなく首を横に振った。

「むしろ感謝している。拾われなければ、生きていられたか分からない。この力を授けてくれたことにも、生き方を教えてくれたことにも感謝している。授けてくれたこと自体には感謝しかない。だが、授かった力や生き方に、時々言い表しようのない不安を感じる。それでも天狗を恨んだことはない」

 女は無言だった。

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