山の子 第一章(1-1)


 久真里くまり郡朝曳町の六台山ろくだいさんは、上山本地区の鎮守である垂鼻たるはな神社の御神体として、地域住民に親しまれている。この六台山は最高峰のましら岳でも標高六〇〇メートル程度であるが、山中の巨岩や洞窟など、民俗学者ならずとも登山者の目を引く物が多い。その中でも「老師塚」は、三つの巨岩が花弁のように並んでおり、何らかの祭祀遺構であろうとして、様々な説が提唱されてきた。……近世の地誌類には、三つの岩はそれぞれ「老師岩」「忍苦岩」「堪忍岩」と記され、それらしく解釈が施されている。近年の研究では、中世当時にあっては、異なる呼び方がなされていた可能性が指摘された。そこでは、横山家旧蔵『六台山神社縁起絵巻』や、岩動いするぎ時代末に活躍した草匠そうしょうの雲景が遺した著作を根拠として、中世には「猟師岩」「人狗岩」「官人岩」と呼ばれていた物が転訛した結果であろうとされ………。

              ――朝来県史編纂委員会編『朝来県史 通史編中世』




 一



 巨木の林立する山奥の深い森。

 久々に里帰りした野分のわき丸は、クスの大木にとまり、先の曲がった喙で羽を繕っている。そうしながら、眼下の老人達の話が終わるのを待っていた。待てと言われたわけではない。野分丸の気まぐれであった。

「それで火乱からん坊、何を持って来た?」

 火乱坊は、僅かに黒味がかった赤の羽毛に覆われた頭を傾げつつ、敬愛する師にそれを示して見せた。

「蓑か。お前が作ったものか?」

「いいえ、もう五月です。蓑はなくとも旅には困りますまい」

「違うのか。では誰かの落とし物か?それとも誰かに貰うたか?…どれ、貸してみよ」

 火乱坊は、平時にはいつもそうする通り、鉤爪を短くしまい込んだ手で、同じように爪をしまった手の上に、蓑を乗せた。

「これは…菖蒲原あやめはらの鬼婆が作ったものでは?」

 火乱坊の師は、菖蒲原に住まう鬼神を、いつも〝鬼婆〟と呼ぶ。おそらく師匠と〝鬼婆〟が生まれたのは、同じくらい昔のはずだ。それも、想像を絶するほどの昔だ。

 弟子達は、師の〝鬼婆〟を聞く度に、思わずにやけてしまうのだった。

「そうです。今しがた、菖蒲原から使いがありまして、伝言と共にこれを」

「内容は?」

「使いが言うには、〝姉妹の代わりに何時ぞやの礼物を預ける。これから帰る子に渡してくれ〟とのことで。それだけ言うとすぐに帰りました」

「〝姉妹〟?あぁ、なるほど。あの鬼婆達は姉妹であったな。〝何時ぞやの礼〟とは?」

「さて。何のことやら…」

「やれやれ、あの鬼婆め。年寄りはこれだから困る。〝これから帰る子〟に渡せと申したのか?……菖蒲原の鬼婆が言うことなれば、定めし人狗の誰かではあろうが。さりとて誰が帰るかなどは流石のわしにも分からんぞ。まことにそれだけか?」

「確かにそれだけです」

「ふうむ…」

 火乱坊は、鳶のような大きな目で蓑を見詰める師匠を、同じような大きな目でじっと見守った。師匠の目は面白い。弟子は皆そう言っている。火乱坊には、師匠のように目で何事も語るような才能はなかった。

 ややあって、師匠はとび色の羽毛に覆われた顔を上げ、口を――鳶のような喙を――開いた。その目は、火乱坊ではなく、遥か頭上に伸びたクスノキの枝を見ていた。

「火乱坊。誰が帰って来るのか、いま分かったぞ」

「誰です?」

 答える代わりに顎をしゃくってみせる師に従い、火乱坊はクスノキを見上げた。大きな、立派な樹だ。人界であれば御神木だといって祀られそうな程、立派で長生きの樹だ。ここではそんな樹ばかりが生えている。

「……あぁ、なるほど。私にも分かりました」

 樹上で羽を突くのに夢中になっていた一羽の鳶は、老人達が揃って自分を見ているのに気がついた。

「そうとなれば、〝何時ぞやの礼〟とは…。あれは何年前であったかのう?」

「三年、いや四年前でしたかな」

「おう、そうじゃ。それくらいであったな」

 この山で最も古く、最も偉大な存在――大天狗の太郎坊は、親しみを込めて鳶に語りかけた。

「よくぞ戻ったな、野分丸。お前の友人はいつ頃舞い戻るのだ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る