そして完走するのか

小原万里江

第1話

「そこちょっと走りすぎじゃない?」

バイオリンを弾いていた手が止められる。

そうかも。

「でもここはリズミカルに、軽快にいきたいところなんだよね。」

と私は伴奏をしてくれているハリーに意見する。


アメリカのとある田舎町にある音大。その一室で、明日の卒業リサイタルのため、私につきあって、ピアニストのハリーは辛そうな表情を浮かべている。

「軽快に、なんて気持ちには到底なれないんだけどね」

と嫌味を言われて、狭い練習室の空気がまたぴんっと緊張の度合いを増した気がした。


私の親は二人とも日本人だが、もう30年近くアメリカに住んでいる。私はこちらで生まれ、日本の国籍もアメリカの国籍も両方持っている。幼い頃からバイオリンをやってきて、当然のように音大に進んだ。よく海外では日本人女性はモテると言われるが、それは本当かもしれない。特に私の通っている大学は八〇パーセントが白人で留学生は七パーセントほど。それ以外は私みたいに事実上「留学生」には属さない有色人種の学生だ。だから、なのか私の日本人らしいと感じられる名前、MARIKOや、私の長いストレートヘア、切れ長の目、高い頬骨、スリムな体(……とはいっても一六八センチの五十六キロ。日本ではおそらく背は高い方だし体重は普通。それでもここアメリカではスリムな方なのだ)などがエキゾチックに見られるらしい。正直言ってボーイフレンドがいなかったことがない。いつ別れても、すぐに次がいた。


そして今回も……。


私とハリーはこの一年、共に音楽を奏で、いつもお互いのアパートに入り浸り、買い物なんかも一緒に出かけたりし、完璧なパートナーという関係を築いてきた。卒業を控えている二十一歳の私に三十歳のハリーは年が上すぎると、同年代の子たちには少々驚かれる。


あまりに年齢が離れているカップルの交際は、田舎町では白い目で見られる。特にほんの三年前までは未成年者だった私だ。ここでは未成年者との交際には厳しく、未成年者とつきあう成人男性には厳しい刑罰がある。


みんなの驚きの中には確実に羨望からくるものもあった。ハリーは背が高く、ヘーゼルの瞳の端正な顔に、こぎれいにカットされたダーティーブロンドのピアニスト。有名な音楽院を卒業していて、今はピアノ販売店で働きながら、音大生の伴奏をうけおったり、教会でピアノを弾く仕事をしている。


楽器科の学生は自分で伴奏者を雇うのが普通で、一学期間などの個人契約でレッスンなどにもついてきてもらう。私の音大では伴奏をよく頼まれているピアニストは三人。その中でもひときわ上手いのがハリーで、なかなか空きがないのでも有名だった。


そんな彼が私を知り、興味を持ってくれたのは私が大学のオーケストラでコンマスになった時だったようだ。コルサコフ作曲の「シェヘラザード」でソロの見せ場があった私を、たまたま演奏会に来てくれていたハリーが見て、声をかけてくれた。私も当時の伴奏者とあわず、新しい人を探していたし、学内でも有名だったハリーが声をかけてくれて嬉しかった。


そこから恋人同士になるのにさほど時間はかからず、ここ一年ほどは夢のようだったのだけど……。


ほんの一か月前、ハリーの前に付き合っていた元カレが音大に、私に会いに戻って来た。二年前に卒業していたトランペット奏者のルイス。私の最愛の人。二年前、遠距離はできないと言って一方的に別れを告げ、私を大いに傷つけた人。その彼が、ニューヨークであるブロードウェイショーに入ることが決まり、また私の目の前に現れた。

「一緒にニューヨークに来てほしい。そして結婚しよう」

仕事を手にした男の自信なのか、もともとハンサムだったルイスはまた一段と輝いて見えた。


そしてもちろん、そこからハリーと私のパートナーシップは暗礁に乗り上げ、その信頼関係は完全に壊れたといっていい。本当は伴奏者契約も続けられないという話も出た。でも今やっている卒業リサイタルのメイン曲、ガブリエル・フォーレのバイオリンソナタ一番のピアノパートだけは、他の二人の伴奏者には弾けない。ハリーでないと弾けない難曲だった。

「またその話をするの? 二人の関係はおいておいてプロフェッショナルにやってくれない?」

重苦しい練習室で冷たい視線で楽譜を読んでいるフリをしながら何も言わないハリー。私は正直うんざりだった。


特にこの三楽章アレグロ・ヴィヴォは息をぴったり合わせなくてはいけない。この曲はこの一年の間に何度も一緒に弾いてきたし、お互いに大好きな曲だった。これまであんなに上手くいっていた曲だったのに、今はどうにもちぐはぐなやまびこの叫び合い、という感じになってしまう。


狭い学内では私たち二人の仲たがいはちょっとしたスキャンダルになっていた。私はバイオリンソナタ以外は別の伴奏者と弾くことになったものだから、皆に、なにかあったに違いないと気づかれるのだけは早かった。


「そんなふうにプライベートを持ち込むならさ、ちゃんとお金を受け取ってよ!」

私はチェックを出す。恋人の関係になってから、ハリーは「契約」という形ではなく好意で伴奏をしてくれていた。でもだからって突然、伴奏ができないとか、練習に気が乗らないとか言われても困る。それならちゃんと仕事としてやってほしい。

紙のチェックに私がさらさらと額を記入してサインするのを無表情で見ているハリー。

「これで!」

バンっとチェックをピアノに置いた私。それまで楽譜の方を見ていたハリーははじめてその目を私に向ける。顔の向きは変えずに目だけで見るからにらみつけられているような感じがした。

「これで、仕事としてやってくれない?」

そう言った私をよそに突如、楽譜をばたんと閉じ、席を立つハリー。何も言わずにチェックを取ると、私の目の前で乱暴にビリビリと破り始めた。

「こんなのいらない」

そう冷たく言い放って、練習室の出口付近のゴミ箱に細かい紙屑を投げつけた。

ハリーはそのまま出て行ってしまい、とり残された私は、明日が卒業リサイタルだという現実をうけいれられず、ただただ呆然としていた。


卒業リサイタル、というのは普通の学生なら卒業論文みたいなものにあたるのかもしれない。曲目はこれまでやってきたものの中から教授と相談して決めた。ひとつのコンサートを作る、という感覚で、曲の順序なども綿密に計画する。


ここで意外に重要なのが宣伝。学生は地元誌にちょっとした広告記事を載せてもらう手続きをする。学内記者にインタビュー記事をかいてもらい、ちゃんと写真も撮ってもらうのだ。ホール全部埋められるなんてことはまれだが、そこそこ人には来てほしい。音大では友人は少なかった私は、別の科で考えられる友人たちすべてにメールもした。


それからプログラムを刷るのもやらなくてはいけないことのひとつ。大学にはすでにひな形があるからそれをもとに作り、印刷屋さんに行って、紙を選んで納品までのスケジュールも立てる。それと、リサイタル後にはちょっとした立食パーティーのようなものを開くのが通例だ。運よく友人が家を使わせてくれるというので、その家の場所などの地図も作る。そういったすべての工程をふくめての卒業リサイタルなのだ。


「MARIKO、時間だよ」


ずっと楽屋にいた私は、そう呼ばれて観念にも似た気持ちでついに舞台にあがった。みんなから隠れるように楽屋にこもっていたので、どのくらいの友人が来てくれているのかわからず、かなり不安でもあった。

舞台そでから出て行き、客席を見るとホールはなんと満員。しかも音大でよく見る学生たちがほとんどだった。


そうか。学内で有名だった私とハリー。その破局とあって、皆、主席バイオリニストの大事な卒業リサイタルがどういうものになるのか興味深々なのね。


客が入っているのはいいが、音楽とは関係のない、どうでもいい関心をひいてしまったことに軽く失望した。

最初の数曲はハリーではない別の伴奏者との演奏。まったくそつなく進むリサイタル。すべて練習どおり。私の冷たくなっていた気持ちも少しだけ温かくなった気がした。


そしていよいよフォーレのバイオリンソナタ。昨日から今日までまったく目を合わせることもなかったハリーが、前の伴奏者と代わってピアノの前に座る。お互いに合図を送り、いよいよ二人の大好きだった曲が始まった。


ドラマチックな第一楽章、切ない第二楽章、そして昨日、途中で終わってしまった第三楽章。


彼が先に弾き始める、私がそれを追いかける、そして彼がまた私を追いかける。お互いに気遣ったりたしなめたりしながら、五線の上を走っていく。一山超えたら、少し悲し気なメロディーに突入する。ここはちょうど今の私たちなのかもしれない。先が見えない暗いトンネルを彼のピアノが探るように進む。そこに光さすようにバイオリンの細い高い音色が顔を出す。でもまだお互いが見えない。声をかけながらお互いの姿を探しているよう。

そこさえ乗り越えれば、そこさえ乗り越えれば、また元の軽快で楽しい追いかけっこが待っている。でもそこに私たちはたどり着けるの?


この一年間、卒業にむかって走り続けてきた。彼は一緒に走ってくれたけど、この後、私はどうする?



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そして完走するのか 小原万里江 @Marie21

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