番外編 幸せ焼け
「おえ……っ」
胃がヒリヒリする。吐き癖なるものが染みついているような、そんな感じだ。何かを食べるとき、食道の辺りに違和感がある。そういう病気なのかもしれないが、病院へ行こうという気にはならない。
「でも食べないと痩せるしなあ。……愛に心配される」
仕方ないので、適当に高カロリーの軽食を買って、無理やり詰め込む。ここ最近、胃がまともな食事を受けつけない。
「ま、原因は分かってるんだけど」
一言で言えば、幸せになりすぎた、といったところか。幸せになればなるほど、今の生活が脅かされるのではないかと、不安になる。いや、不安、というよりも、フラッシュバック、と言ったほうが正しいか。
「──っ」
背後に気配を感じて、咄嗟に振り向く。──しかし、誰もいない。
「最近、多いなあ……」
トイレから教室に戻り──またしても、息を詰まらせる。
クラスメイトたちの顔が、朱里に見える。その視線が全部、こちらに向いている。──間違いなく錯覚だ。
しかし、錯覚だと分かってはいても、足が止まる。血液の中をガラスの破片が巡っているみたいだ。
──動けない。
「あれ、榎下、どうかした?」
背後からかけられる声に、全身が凍りついたような心地を覚える。肺が圧迫されて、思うように息が吸えない。
次第に、息が苦しくなって、ゆっくりとその場に座り込む。
「ちょっ、榎下!? 誰か、先生呼んできて!」
大体の場合、少しじっとしていれば、症状は次第に収まってくる。だが、今日はなんとなく、思考が朱里からそれていかなかった。
「大変だけど、自分で保健室まで歩いてくるように」
事情を知る保健室の先生に、そんなことを言われる。彼は僕が人に触れられないことや、優しくされるのが苦手だということを理解しているのだ。
クラスメイトたちの心配に応える余裕もなく、僕はゆっくりと、階段を降りて、保健室へと向かい、椅子に座り、楽な体勢をとる。
いつもなら次第に落ち着いてくるが、今日はそういうわけにもいかなそうだった。
「クラスの子が鞄持ってきてくれるから、今日は早退した方がいいよ。どうする? 迎えに来てもらう?」
「……いいよ。さすがに、王都からここまで来てもらうのは気が引けるし」
「でも、魔法は使えないよ。魔法は精神状態がそのまま反映されるから。今の不安定な状態で使うと、何が起こるか分からない」
「あー、そうだよねえ……」
となると、王都まで、新幹線で数時間かかる。甘えているわけではないが、とても帰れる気がしない。
「電話したら?」
「そうするしかないかあ……」
あまり心配はかけたくないのだが、などと思いつつ、時間を確認してから、愛の携帯に電話をかける。
「──はい」
「あ、愛? 悪いけど、迎えに来てくれない? ちょっと、動けなくなっちゃって」
「分かりました。新幹線で三時間ほどかかるかと思いますが」
魔法を使わずに来るということは、子どもを連れて来ようとしているということだ。
「……ごめん。今は、アイネには会いたくない」
自分の子どもではあるが、僕の中ではまだまだ他人だ。それに、自分の子ども、というところに、却って気持ち悪さを感じるときがある。どうしても、朱里のことを思い起こさせるのだ。
とはいえ、かわいい、なんて言葉で表しきれないほどに愛しているのも事実だ。矛盾しないことが難しいというだけで。
「──分かりました。城の者に預けて行きます」
「ありがとう」
その後、愛に迎えに来てもらって、僕はなんとか帰宅した。
***
なぜ今日に限ってこうなったのか、その原因を探ろうとして、やっと、それが悪いのだということに気がつく。原因なんて考えるから悪化するのだ。
帰るなりベッドに倒れこむと、今日は、そこから動けそうになかった。温かい手が、頭に乗せられて、優しく撫でてくれる。
「ごめん、迷惑かけて」
「いえ、むしろ頼ってくださって、嬉しいです」
彼女だけは、安心できる、僕の居場所だ。
ただ、今の彼女は、すごく、脆く見える。吹けば飛んでしまいそうな、そんな危うさがある。
「もっと、頼ってよ」
「十分、頼りにしてますよ」
いつもの、これだ。彼女は自分で自分の限界が分からない。だから、その分、僕が彼女を心配しているのだが、それでは、足りないらしい。
「……やっぱり、僕じゃダメなんだろうね」
「どういう意味ですか?」
「君を幸せにできないんだよ、僕じゃ。最初から知ってたけどさ」
「そんなことはありません」
「そんなことあるよ」
ダメだ。暗い言葉しか出てこない。そうして、沈黙を選ぶことにする。
不意に、愛が尋ねた。
「あかねは、私とアイネといて、幸せですか?」
「そりゃもちろん」
迷いすらない。すごく楽しい、充実した日々を送っている。毎日、心が満たされていくのが分かるくらいに。今のために生きてきたのだと、そう思うくらいに。
──でも、僕は、この日々が、いつか、壊れてしまうことを知っている。
僕は、魔王をこの手で倒した。つまり、この世で唯一、『呪い』を解くことができる存在を失ったのだ。
その上、まなを──彼女の願いをも失った。
だから、間違いなく、確実に、僕には、天罰が下る。僕が不幸になれば、愛も幸せになれないに決まっている。
せめて、愛だけは幸せにしたかったのだが、それすらも、叶わないかもしれない。
一番簡単なのは、僕がいなくなることだ。そうすれば、彼女には影響がない。僕が死んだら、悲しみはするだろう。過ちを冒すこともあるかもしれない。
だが、愛なら、乗り越えていけるはずだ。きっと彼女は、僕がいない方が、幸せになれる。
──それでも、僕には、アイネの成長を見守りたいという、エゴがあった。
そして、僕は、自身に誓った。
絶対に、愛を死なせないと。
──そのために、いつか、僕の死を利用するのだと。
「ふぁあ……」
小さなあくびが聞こえて、僕は、鉛のように重い腕を愛に伸ばして、隣に寝るよう、お願いする。アイネが、アイネが、と、口癖のように呟く彼女に、無理を言って、一緒にいてもらう。
「おやすみ、愛」
「おやすみなさい、あかね」
僕たちは、手を繋いで、眠りについた。
***
その日、僕は、白髪の少女の夢を見た。
そして、彼女が、今でも僕たちを見守ってくれていることを知った。
だから僕は──安心して死ねると、そう思ったのだ。
でも、六年間は、覚えていてほしい。
──朱里が、僕たちの両親の七回忌を忘れていたあのとき、心がすごく痛んだから。
そのあとなら、忘れてくれて、構わないから。
***
次回から七話です。
みんな、あかねとまなを忘れてるんじゃないかと心配になって、急きょ入れました番外編。退場したからって、忘れないでね!
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