第7節 皇帝と娘

第7-1話 七回忌

 産まれたばかりの命を、初めてこの腕に抱いたとき。


 思うよりずっと小さくて、指一本でも壊せてしまいそうで、ふわっと軽くて、とても温かくて。涙が流れた。


「うぎゃあああ!!」

「マナ! 見て、すごく小さい!」


 その後も、ケースの中で、疲れて眠っていてもいいはずの赤子は、どこにそんな力を蓄えているのかと、不思議に思うほど、元気に泣いていた。他の子たちは、静かに寝ていたけど。


 白髪の少女が、童心に返ったかのように、跳び跳ねて喜んでいて。


 ──それを、どこか、現実のことだと思えない自分がいた。


「そうですね」

「すごく可愛い! 目に入れても痛くないっていうのが、よく分かるわね」

「目に入れたら、さすがに痛いと思います」

「そういうことじゃないわよ。……あははっ」


 少女が嬉しそうに笑うのを見て、私は。


 ──本当に、喜んでもいいのだろうかと、考えた。


 親と縁を切って、国を捨てて、本当は勇者でも何でもないあの人に戦いを押しつけて。何人もを見殺しにして。


 そうするほどの価値が、この子にはあるのかと。


 そんな風に考えてしまう自分が、とても嫌だった。


「あ、マナ。写真撮ってあげるから、あかりに送ってあげなさい。あたしが電話するなって言った手前あれだけど、気が気じゃないと思うから」

「そうですね」


 そうして、まなにスマホを渡して写真を撮ってもらう。それを、私が操作して送る。──返事は、来ない。


「まあ、すぐに返事が来たら、むしろ、サボってるってことになるわ」

「それもそうですね」


 むしろ、サボっているのは、私の方だ。本当は、私の方が戦場に出るべきなのに。


「──マナ。よく頑張ったわね」

「私は、全然ですよ」

「いいえ。誰がなんと言おうと、ちゃんと頑張ってるわ」


 まなが私の頭に手を当てて、優しく撫でる。


「だから、思いっきり喜んでいいのよ」

「──はい。ありがとうございます」


 その言葉に、とても救われた。


 すると、また涙が流れてきた。


「あんたって、よく泣くわよね」

「まなさんの前でしか、こんなに泣きません……っ」

「それ、あたしが酷いやつみたいじゃない」

「まなさんは酷いやつです!」

「なんでよっ!?」

「ぅぁあぁぁぁ……っ!!」

「まあ、泣きたいときは泣いたっていいのよ。だから、思う存分、泣きなさい」

「あああああん!!!!」

「それだと、あたしが泣かせたみたいになるし、看護師さん来ちゃうからやめなさい」


 少し張り切って泣くと、まなに額を弾かれて、私はそのままベッドに横になる。急に、眠気が襲ってきた。


 ──だが、あの人やみんなが戦っているのに、私はこんなところで寝ていてもいいのだろうか。


「ゆっくりお休みなさい」


 しかし、小さな手に優しく頭を撫でられた私は、ゆっくりと、眠りに落ちていき──。


***


 ──目が覚めて、視界に入ったのは、ほどよく装飾の施された、見覚えのある天井だった。傍らには椅子で眠るレイの姿があって、私は彼女の手を握っていた。おおかた、ずっと離さなかったのだろう。いつ眠ったかも覚えていないけど。


 起こさないように、そっとレイの手を離して、部屋を出る。空を仰げば、まだ夜だった。思えば、星空を見上げるのは久しぶりだ。いつもは天体を動かして、昼にしてしまうから。


 各所に設置したベンチの一つに腰掛けて、紺青の空を見上げる。様々な色の星が瞬き、大きな白い月が私たちを見下ろしていた。


「星空って、こんなにつまらなかったっけ」


 三人で依頼に出たとき、砂浜に寝転がって、あの人と、今みたいに星空を見上げたことを思い出す。あのときの空は、とびきりに輝いていて、綺麗だった。


 きっと、あのときの星空は、もう戻ってこない。


 星空に向けて、真っ直ぐに、手を伸ばす。このまま、闇に溶けて、消えてしまいたい。そんな風に考えて。


 ──最期に見た、あかねの顔が頭をよぎり、私はそっと手を引っ込める。


「今日で六年か──。もう、すっかり夏だね」


 星の位置を見れば、季節の移り変わりもある程度分かる。そうして星空を眺めていても退屈で、だというのに、目を閉じてみても、まったく眠れる気がしない。


 仕方ないので、暇潰しに音を拾う。セトラヒドナの音に集中する。耳栓を外して、遮音の魔法を解除して、状況を把握する。夜中であり、寝静まっていればたいした情報も聞こえないだろうが、普段、夜には処刑をしないので、油断している輩も多いだろう。


 ──案の定、彼やまなの悪口ばかりが聞こえる。だが、なんとなく、殺す気にもなれない。


 そこから意識をそらして、別の国の状況に耳を傾ける。ロアーナの国だ。


「あの女王、本当は生きてるって噂よ」

「やっぱり贔屓されてるんだな。あのお方に」

「なんにもしないのに、なんであんな若い子を王様なんかにしておくのかしら。聞いた話だと、隣の国は近いうちに労働時間の見直しが義務づけられるそうよ」

「本当か? あーあ。俺も隣の国に住みたかったなあ。つまらないし、退屈だ」

「私はこの国以外ならどこでもいいわ」


 あの国の国民は常にこんな感じだ。確かに、ロアーナは目立ったことをするような性格ではないが、何もしていないわけではない。労働時間の見直しを義務づけたところで、余計に苦しくなることもある。


 ──なぜ、あそこの国だけは、こうも国民が腐りきっているのか。簡単な話だ。私があの国にああいう民たちを集めたからだ。


 殺すか殺さないかの天秤にかけたとき、どちらにも傾かなかった者をあそこには住まわせた。主に、正教会の新派閥の者が多い。


 しかし、どうやら、あそこの住民は、感謝という言葉を知らないらしい。まあ、私が言えたことではないけど。


「殺しちゃダメかなあ。──でも、私も、私の悪口言う人は殺さないんだから、あの子たちも、ロアーナちゃんが許すって言うなら、殺しちゃダメだよね。……はあ」


 隠れてする誹謗中傷が、一番、嫌いだ。何も知らない相手を、よくもああまで酷く言えるものだ。


 逆もそう。


 ──何も知らない相手を、よくもああまで信頼できるものだ。


 全幅の信頼を寄せて、勝手に縋って、全部私に押しつけて。


 私なら大丈夫。なんとかしてくれる。できないはずがない。


「──一人だと、色々考えちゃうなあ」


 空間収納から、ドラゴンの血液を取り出し、ワイングラスに注ぐ。特段、酒が好きというわけでもないが、今日だけは、泥酔したい。


 それから、注いだ分を、一気に飲み干す。味覚がないから、味は感じない。臭いは最悪だ。


 そうして、私は耳を澄ます。


 ──血の皇帝。感情がない。人じゃない。


 そんな言葉はどうだっていい。


 ──昔は誰からも愛されていたのに。


 ──以前は、聖人のように優しく、慈悲のあるお方だった。


 ──なんでもできる、女神のような存在だった。


「そんなわけ、ないのに」


 こういう言葉は、嫌いだ。


「誰からも愛されるなんてこと、あるわけない。全然、優しくなんかない。できなかったことだって、たくさん、本当に、たくさん、あったのになあ」


 そう、はっきり、言えたら良かったのだろうか。まなの言う通り、もっと前から、我が儘になっていたら、何か違っただろうか。そんなに私は、いい子に見えただろうか。普通に、他の子たちと変わらないように過ごしていたつもりだったのに。


「こうなる前だって、たくさん、悪いことしたのに。今だって、たくさん、悪いことしてるのに……。なのに、どうしてみんな、あかねを悪く言うの? なんでみんな、まなさんがいなくなって喜ぶの? 一番、悪いのは私なのに、どうしてもっと、私を責めてくれないの!?」


 なぜ、死んでまで、大好きな二人が、こんなにも、悪く言われないといけないのか。──全部、私のせいだ。


 気づけば、ワイングラスを片手に、私は墓の前に来ていた。あかねの墓だ。まなの墓は、ここにはない。


「ねえ、あかね。見てる? 私ね、本当は、こんなにダメダメなの。あなたがいたから、頑張れてるだけだって、前にも言ったよね。アイネちゃんのこともね、可愛いと思おうって、努力してた。──でも、本当はね、一度も可愛いって思ったことないの。私って、とっても酷いよね」


 ──あのお方なら、いつか立ち直ってくれる。


 ──何か考えあってのことだ。


 ──帝国を守ってくれるのだから、多少の犠牲は仕方ない。


「なんで、私に期待するのかなあ。もっと、恨んだっていいのに、どうしてみんな、そんなにいい子なのかなあ……。もっともっと殺して、たくさんの人に恨まれたら、誰か、私を殺してくれないかなあ……ふふっ」


 もう二度と、自殺はしたくない。大切な人を失うのが怖いから。──そんなところでも、私は、彼に負けた。


 グラスに残った生き血を飲み干し、ボトルを傾け、もう中身が残っていないことに気がつく。


「……あーあ。特別なときに一杯だけって約束だったのに、レイに怒られちゃう」


 心地よい夜風に頬を撫でられて、ほんのり眠気が襲ってくる。


「まあ、全部、今さらだけどね」


 指を鳴らす。


 墓の付近で魔法を使うことは、宗教的にも倫理的にも悪とされている。


 魔力は地上を巡るものであるため、墓の付近で使用すると、魂が魔力に捕らわれて、天上に行けなくなってしまうからというのが、宗教的な理由。創造の力である魔法を、亡くなった人のいる墓地で見かけると不快な気分になるから、というのが倫理的な理由だ。


 しかし、みんなが神と崇める信仰の対象は、私だ。そして、神である私が許すのだから、これでいいのだ。まあ、最近、新しい派閥が騒がしいようだが、そんなのは知ったこっちゃない。


 どれだけ望まれたって、みんなの理想の女神に戻る気はない。今さら、後戻りはできない。


 一時の衝動で、殺人を犯してしまったあの瞬間から、私はもう、私ではなくなったのだから。


「もっと早くにこうしてたら、復讐してもいいよって、笑顔で言ってあげられたのかな」


 墓石にもたれかかって、空のボトルを抱きしめて、目を閉じる。


「こうやって、法律や世界を変えてあげれば、良かったのかな」


 ベッドに戻ることも、お風呂に入ることも、着替えることさえもせず。久しぶりに、今日はなんだか、よく眠れそうだ。


 寝覚めの悪い夢はもう見たくないなと思いながら、意識は沈んでいく。


 いつか、彼が言っていた。自分が死んだら、七回忌まではやってほしいと。


「六年じゃ、全然、足りないよ……」

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