第7-2話 レイの涙
レイが、目覚めてすぐ、マナの姿が見当たらないと報せを出したために、城は大混乱に包まれていた。
しかし、赤髪の男には、居場所の見当がついていた。
「もう、あれから六年経つのか──」
そんなギルデルドの呟きを聞きつけて、レイが姿を見せる。そこには、ワインボトルを抱え、墓石にもたれかかって眠る、マナの姿があった。
「……! 姫様、こんなところに──」
「しー」
焦燥が安堵になり、あっという間に怒りに変わっていくレイに、ギルデルドは人差し指を立て、静かにするよう指示する。
「あいつの命日なんです。今日くらいは、許してやってくれませんか?」
ギルデルドが懇願する眼差しを向けると、レイは困った顔をする。
「──姫様は、わざと怒られようとしているんだ。まるで、子どもみたいだろう? 幼い頃、手がかからなかった分が、今になって一気に押し寄せて来たみたいだ」
レイの言葉に、ギルデルドは眉をひそめる。レイに怒られると、マナはだいたい機嫌を悪くして、彼女に罰を与える。その様からは、とてもじゃないが、怒られたいようには見えない。
だが、レイがそう言うのなら、そうなのだろう。
「きっと、姫様は、愛されることに疲れてしまったのだろうな」
「そうだったのですか……!?」
だとしたら、彼女を愛していると言ったことも、みんなから嫌われていると打ち明けられて否定した言葉も、知らず知らずのうちに、彼女を傷つけていたのだろうか。
「そうとは知らず、私は今まで、なんてことを……」
「いや。お前は悪くない、ギルデルド。むしろ姫様は、お前を頼りにしている」
「そうなのですか? レイ様の方を頼りにしているのではありませんか?」
すると、レイは首を横に振って否定する。
「信頼はしてくれている。私の言葉が絶対に正しいと、そう思ってもいるだろう。──そういえば昔、私と結婚すると言い出したことがあったな。ふっ、懐かしい」
「けっ、惚気ですか。妬ましい」
ギルデルドの鋭い視線に、レイが苦笑する。
「だが、今、姫様に必要なのは、私のような、頼れる存在ではない」
「はぁ……?」
要領を得ないばかりに、口から間抜けな声が漏れ出す。
「君のように、ごく普通な存在が、姫様には必要だ」
「それは、嫌味にしか聞こえないのですが」
「前言を訂正しよう。君のように、少しひねくれていながらも、ごくありふれた存在が必要だ」
「それはたいそうな嫌味ですね」
憎まれ口を叩いてはいるが、彼とレイの間には確かな信頼関係がある。昔、マナを慕うギルデルドが、愛する彼女の情報を聞き出そうとして、積極的に話しかけていたのがきっかけだ。
「──いや、一つだけ、変わっているところがあったな」
「え? それは、どこでしょうか?」
「姫様を狂おしいほどに愛しているところだ。──まあ、先日、一目惚れというものを経験したようだが?」
「なっ……! ご存知だったのですか……!?」
「あの場で気づいていなかったのは、想われている本人だけだ」
そんなこととも知らず、日々、ステアの元へ向かっていた、浮かれ顔の自分を殴りたい気分だ。
だからと言って、マナを慕う気持ちに変化があったわけではない。彼女が求めるのなら、いつでも、喜んでこの一生を捧げることが、ギルデルドにはできる。
──だが一方で、それは、あり得ないことなのだとも知っていた。マナには、ただ一人しかいないのだ。それをギルデルドはこれまでの人生で少なくとも、三回は思い知らされ、三回とも勝手に失恋したような気持ちになっている。
彼と婚約して国から逃亡したときと、城と縁を切ったとき、それから、彼が亡くなったときだ。
そうして、三回立ち直るうちに、彼女への想いが恋心というよりも、むしろ、親愛に近いものであることに気がついた。例えるなら、愛娘が悪い男に誑かされているような気持ちだ。いや、最推しのアイドルが結婚したような気持ちだろうか。
ともかく、この歳になり、マナばかり見ていた自分を省みて、周りにも目を向けるようになってはいた。
とはいえ、全身を走るような衝撃を受けた女性は、ステアの前にはマナしかいないが。
「どうせ、姫様以外の、初恋なんだろう?」
「なっ! そんっ……はい……」
「ははっ。君もまだ、二十代だからな。若いというのはいいものだ」
そんなことを言われて、レイに年齢を聞きたい気持ちをぐっと堪える。彼女はギルデルドが産まれるずっと前に、近衛騎士団の団長となり、それ以来、ずっと、その地位を保持してきたらしい。仮に、そのとき二十歳だったとしても、今は五十に差し掛かるところのはずだが、とてもそうは見えない。
「──お前、今、失礼なことを考えたな?」
「いえ、断じてそんなことはありません。決して」
「……ん」
なんとか誤魔化そうと、目を泳がせていると、マナが鳥のさえずりのような吐息を漏らした。
「姫様、やっと起きられましたか?」
「……アイネちゃんは?」
「まだ寝ぼけていらっしゃるようですね」
「私──ああ、そっか」
土を払って立ち上がると、マナは薄暗い空を見上げて立ち尽くす。
「姫様、失礼いたします」
「え? ──へなんっ!?」
レイは容赦なく、マナの額を指で弾く。ギルデルドも過去に何度かやられたことがあり、見ているだけなのに、無意識のうちに顔に力が入った。
「何も言わずに勝手に寝室を抜け出して、こんなところで眠るなんて、一体どういうおつもりですか!?」
「うっ、そ、それはー……」
「一体、どれだけ心配したことか……」
「だって、目が覚めちゃったんだもん」
「では、そのボトルはなんですか?」
マナは、自身が腕に抱えるワインボトルを見て、しばし、放心した顔をしていたが、やがて、遅れて気がついたように表情をハッとさせる。
「──あわわわわーこれはーそのぅ……てへっ?」
「可愛くしたって無駄です。ドラゴンの血液は度数が強いので、特別な日であっても一杯だけ、という約束のはずですよ」
「そうだけど──」
「姫様に何かあったら、どう責任をとるおつもりですか?」
「し、知らないっ」
「知らないでは済まされません!」
「なんで! 今日くらい、甘やかしてよ!」
「ボトルをお開けになったのは昨日のことでしょう。それをちゃんと謝ることができたなら、思う存分、甘やかしてさしあげます」
「はいはい、ごめんなさい。だから、甘やかして?」
「……それで、まさか、人を殺してはいませんよね?」
「んー……。あっ」
マナが露骨に、しまったという顔を浮かべると、レイはその眼光を鋭くしていく。
「何人、殺したんですか?」
「えっと……覚えてな──」
「正直にお答えになってください」
「三百五十七人──と千人……」
「姫様!!」
強い怒気を孕んだレイの叱責に、マナが体を硬直させる。悪事を怒られる子どものような仕草だが、やっていることは、殺人だ。とはいえ、今の法律で彼女を裁くことなど、できるはずもない。
「どうして人を殺すのですか!? 殺してはならないと、何度も申していますよね!?」
「何度も言われてる、けど。どうしてって、それは……」
マナは気まずそうに顔をそらして、答えようとはしない。いつもより人数が多いところを見るに、酒の影響がないわけではないだろう。とはいえ、理由がないというわけでもなさそうだ。
「──なんとなく。そう、なんとなく、そういう気分だったの」
ギルデルドには十分、納得できる理由だったが、レイはどうも、腑に落ちないらしい。
「私は、姫様が楽しんで人を殺しているとは思っておりません。むしろ、ご無理をなさっているように見えます」
「無理なんてしてないよ? 面倒だから殺してるの」
「では、殺した人数と同じ枚数分だけ、反省文を書いていただけますか?」
「えっ!?」
「より面倒な作業を伴うとなれば殺さないと、そういうことなのですよね?」
「それは……」
だが、ギルデルドも、彼女が殺人を楽しむようになったとは考えていない。
しかし、先のレイの発言を聞くに、この考えがマナを苦しめている可能性は否定できない。彼女が愛されることに疲れてしまったというのなら、彼女に身勝手な期待を抱くことも同罪と言えるだろう。
そして、それを考慮すれば、自ずと一番、自然な答えが出てくる。
──彼女は嫌われようとしているのではないだろうか。
そのために、血の皇帝を、演じているのではないだろうか。
「姫様。どんな理由があるとしても、人を殺してはなりません。分かっておいでですよね?」
「……分かんない」
「なぜ殺してはならないのか、分かりますか?」
「知らないっ」
「いいえ。姫様はよく分かっておいでのはずです。だって、姫様は──」
「嫌! 今日はそんな話したくない!」
「──ふざけるのも、いい加減にしなさいッ!!」
子どものようにそっぽを向くマナが、レイの逆鱗に触れ、水を打たれたように、拗ねた顔を驚愕へと変える。
──泣くかもしれないと思ったが、そうはならず、むしろ、涙を流したのは、レイの方だった。
「な、なんで、レイが泣いてるの?」
「──申し訳ありません。頭を冷やしてきます」
その背中を見送るマナは、レイが怒鳴ったときよりも、ずっと動揺しているように見えた。おろおろとしていた彼女は、やがて、レイの姿が見えなくなると、寂しそうな顔をした。
その横顔に、本当に、彼女は怒られたいのだろうなと、ギルデルドは思う。
「マナ様。ご入浴して、少し頭を冷やされてはいかがですか?」
「ねえ、赤ちゃん」
「はい?」
「赤ちゃんは怒らないの?」
「いえ、怒っています」
「──そうなの?」
「はい。怒りを通り越して呆れてしまって、言葉も出ないというだけです」
「そっか。赤ちゃんも怒ってくれるんだ」
その横顔が嬉しそうに見えて、なんと言ったものかと考える。レイがあれだけ叱責して、それでもやめようとしないのだから、自分が何か言ったところで、まったく届く気がしない。
「赤ちゃんは、どうして人を殺しちゃいけないと思う?」
「ダメなものはダメかと存じますが、強いて理由を挙げるなら、それによって悲しむ人がいるからでしょうか」
「じゃあ、誰も悲しまないような人は殺してもいいの?」
「そんな人はおりません。天涯孤独であったとしても、社会との関わりなしに生きることなど不可能ですし、たとえ、名も知らぬ方が亡くなられたとしても、誰しも少なからず胸が痛むものでしょう」
「それじゃあ、誰にも知られなければいい?」
「いや、それでも、ダメですね」
「──そうだよね」
「何か仰いましたか?」
「ううん。何でもない」
「そうですか」
真夏とはいえ、夜から朝にかけては、比較的涼しい。それが今、少し日が昇ってきて、また暑さが主張を始めた。
「ねえ、赤ちゃん」
「はい、何でしょう?」
「あかねは、どうして、死んじゃったのかな。やっぱり、私のせい?」
その問いかけに、マナのせいではないと、即答することはできなかった。彼女のせいだと思っていたからではない。
なぜ、あかねが亡くなったのか、彼にもよく、分からなかったからだ。
マナが自殺すると言えば、彼はそれを全力で止めるだろうと、そう信じていた。だから、一緒に飛び降りたと聞いたとき、ギルデルドは自分の耳を疑った。マナに万が一があったらどうするのだと。あかねの心配も、ほんの少しはあったが。
その上、アイネだっていた。あの頃の彼が、まさに、幸せの絶頂といった顔をしていたのを、ギルデルドはよく覚えている。それが、なぜ、心中を図ったのか。
もちろん、マナの方の理由も分からない。立派に母親として、アイネの面倒を見ている姿ばかり見ていて、そこから苦しみを感じとることはできなかった。
「……何も知らない私には、はっきりと答えて差し上げることができません」
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