第8-8話 とっても痛い

 いくら神経を他ごとに割いていたからといっても、それは、普通なら気づいていてもおかしくない距離だった。


 アイネが気づかれないように近づいてきたことと、私がアイネに気を許していること、そして、アイネがまだ魔法の使えない子どもであること。そのどれか一つでも欠けていたら気づいていただろう。


 私はなんと言おうかと、無言で思考を巡らせる。


 立ち入り禁止の場所へ来たことを責めるべきか。盗み聞きをしていたことを問い質すべきか。それとも、何事もなかったかのように、平然を装うべきか。はたまた──。


 何が最善か、いつもなら、ピタリと答えが分かるのに、今はどうしても分からない。かける言葉を見つけられずにいると、今度はアイネの声に寂寥が混じった。


「ママ、また、どこかに行っちゃうの? いつ帰ってきたの? どうして私に教えてくれないの? 帰ってきたら、ずっと一緒にいるって……約束は?」


 ヘントセレナへ向かう前に、確かに交わした約束を思い出す。しかし、私にとっては、大きな意味を持たない、単なるその場しのぎの口約束に過ぎなかった。


 こんなに小さいのに、子どもというのは、約束をちゃんと覚えているものなのだということを、初めて知った。


 あかねが死んでから、ろくに彼女と目を合わせてすらいなかったから。


 一体、どれほどの思いをさせてきたのだろうと思うと、胸が張り裂けそうになる。


「アイネ──」

「一緒にいてくれるって、言った! ねえどうして!?」


 私の言葉を遮ったアイネは、大きな黒い瞳からいっぱい涙を零して、小さな頬を真っ赤に染めて、怒りながら、泣いていた。夜闇に紛れて見えないと、言い訳することもできないほどに、月明かりを反射して、涙が光っていた。


 それが大きな悲しみから来るものだということには、すぐに気がついた。それと同時に、私は思わず、アイネを抱きしめていた。


「ずっとっ……ずっと、ママが、おうちに帰ってきていいよ、って言ってくれるの、ずっと、ずっと、待ってたのに!」


 ぽこぽこと、小さい手が私を叩く。痛みなど、まったく感じなかったが、優しいこの子に、そうまでさせてしまうほどの悲しみを与えていた自分への罰だと思うと、とても、痛かった。


 そうなるに決まっている。一体、私は何年、彼女を放置し続けてきたと思っているのか。向き合ってこなかったのは、私がその瞳に向き合う強さを持ち合わせていなかったからだ。


 私が、自分が犯してきた罪を、受け入れられなかっただけなのだ。


 彼女の純粋な瞳に、理由の分からない夜泣きに、彼女が生まれてきて、生きているという事実に、勝手に自分が責められていると思い込んだのだ。


「私、そんなに悪い子だった? 私、ママが言うように、ちゃんと、壁の中も見て回ったし、勉強も、すごい嫌だったけど、お城から逃げたりもしたけど、宿題は毎日、ちゃんとやったし、壁の中からだって、ちゃんと逃げなかったし、それに、それにね──」


 私はアイネの頭を撫でて落ち着かせてから、指で涙を拭ってやる。


 カルジャスへは、遊びに行くわけではない。当然、ベルが暴走したとなれば危険が伴う。だから、連れていきたくはない。たとえ、ドラゴンが暴走すれば、世界のどこにも安全な場所などないとしても。


「アイネ──」

「やだやだやだ! ママが置いてっちゃったら、私、私っ、わ、悪いこと、たくさんするもん! チョコも、あるだけぜーんぶ食べちゃうし、歯も磨かないし、それから、それから……ママの悪口、たくさん言うよ! だから、連れてって!」


 私が置いていこうとしているのが、その先を聞かなくても分かるのだろう。先を聞いてしまえば、そうせざるを得なくなると知っているのだ。


「まったく、困った子ですね」


 アイネの私を掴む力がぎゅっと強くなるのを感じる。私も、できることなら、離したくない。それにしても、もっと上手な引き止め方があるだろうに。


 今一度、自分に問いかける。私に、この子を守る覚悟はあるのか。一度は道連れにしようとした私に、何があってもこの子を守ると、誓うことができるのか。手の届かないところで死なれるのも、触れ合う距離で死なれるのも、目の前で死なれるのも、もう、うんざりだ。


 私は休暇を満喫しているはずのギルデルドに電話をかける。かけた瞬間に出た。


「はい、マナ様。何か御用ですか?」

「ギルデルド。お休みのところ、大変、申し訳ないのですが、城まで来ていただけませんか? 急きょ、お願いしたいことがありまして」

「──はい。構いませんよ」


 返事に少し間があった。


「もしかして、ステアさんと一緒ですか?」

「なっ! ばっ、ち、違いません!」

「それでしたら、ステアさんと一緒に来てください。もっとも、彼女の都合がつけば、の話ですが」

「分かりました。確認して向かいます。それで、お願いというのは?」

「アイネが──」

「やーだー! ママと一緒なの! 赤ちゃん、なんとかしてよー!」

「……と、この調子でして」


 困っているのが声に出てしまっていたのか、ギルデルドは笑った。


「それで、どちらに行かれるおつもりなのですか?」

「カルジャスに」

「それでしたら、特に問題はないかと」

「問題はないんですね。分かりました。では、後のことは任せましたよ。ステアさんにもよろしくお伝えください。それでは」


 そう一息で言い終えて、私は快挙の息をつく。詳しい事情を抜きにすれば、ギルデルドごとき、誤魔化すのは容易い。


 そのとき、上空をチアリターナがカルジャスめがけて飛んでいく影が見えた。


「行きましょうか」

「……いいの? ママ、困るでしょ?」


 今さら何を、と苦笑する。あれだけ行きたいと騒いでおいて、いざとなると引くなんて、余計に連れて行きたくなってしまう。


「一緒に来てくれるんですよね?」

「うん!」

「では、怒られる時も一緒ということで」

「ママ、子どもみたーい」


 カルジャスまで瞬間移動で向かうか、公共交通機関を利用して行くか。前者だと、アイネを抱えていくことになるので、魔力の消費が激しく、後者では時間がかかり過ぎる。


 そうして私は、三つ目の案を採用する。


 暑がるアイネに空間収納から取り出した上着を無理やりかけてやり、片腕にしっかりと抱きかかえる。


「しっかり掴まっていてくださいね。それから、風邪を引かないように」


 ──空高くというのも、その高さを水平方向に据えてしまうと、大したことはない。そうして私は、上空のチアリターナのもとへと瞬間移動する。


「わあー! すごーい!」


 夏の夜とはいえ、上空は寒い。だが、寒さなど、少しも感じていない様子で、アイネははしゃぐ。これだけ高いというのに、怖さも感じていないらしい。そういえば、あかねも、あれで意外と、高いところは平気だった。むしろまなの方が怖がっていた。


「──そち、急に人の背中に乗るとは、いい度胸じゃな」

「チアリターナさんも、思ったよりもお元気そうで何よりです」

「うわあ! ドラゴンだ! おっきい!」

「なぜ、子を連れてきた?」

「待つように言っても聞かなかったので……」

「──まあよい」


 ため息混じりに、チアリターナは許可した。渋々というよりも、呆れや、果ては無関心、といった言葉が似合うような言い方だった。


 そうして、泣き疲れたのか、はしゃぎ過ぎたのか、はたまた、夜も遅いからか、カルジャスに着くまでの数分の間に、アイネは眠ってしまった。


***


 五年もすると、焦土と化したカルジャスの地にも新たな生命が芽生え始める。灰を養分として育っている側面ももちろんあるが、基本的に、ドラゴンが存在するというだけで、周辺の土地は豊かになる傾向がある。詳しい仕組みは解明されていないが、ドラゴン特有の力によるものだと考えられている。


 ちなみに、ルスファの王位が直系のみに引き継がれていたのも、王家がドラゴンの生き血を独占しており、子がその力を少なからず受け継ぐと考えられていたからだ。ただし、それは女王である母ミレナと王位を継ぐ予定だった私、それから、国王となったエトスの他に、儀式に関わる数人の使用人しか知り得ないことだった。


 私はチアリターナとベルに関する契約を結んでから、彼女に話しかける。


「ベルちゃん、こんにちは。元気にしてた?」


 当然のように返事はないが、気配だけで起きていることは分かるので、話を進める。


「今日はね、チアちゃんも連れて来たの。どう、嬉しい?」


 ベルの尾がわずかに反応する一方、チアリターナは口の中だけで、「チアちゃん……」と、心中複雑そうに呟いていた。あかねが亡くなってから、公の場ではこういう態度をとるのが常になってしまったので、そこは了承してほしい。


「それにね、今は寝ちゃってるけど、アイネちゃんも連れて来たんだよ。あ、アイネちゃんじゃ分からないかな。ほら、昔、お腹の赤ちゃん、触らせてあげたこと、あったでしょ?」


 尾の揺れ具合から推察するに、やはり、子どもは好きなようだ。今日はいけるかもしれない。


「アイネちゃんね、とっても可愛いの。あーあ、ベルちゃんに見せられなくて、残念だなあ」


 わざとらしくそう言うと、ベルは、緑の双眸のうち、片方だけでこちらの様子をうかがう。


 私は近づいていって、暗闇でも顔が見やすい位置に、アイネを差し出す。アイネはぐっすり眠っていた。


「どう? 可愛いでしょ?」


 返事こそしないが、ベルの瞳にはわずかに、輝きが戻ったような気がした。アイネを連れて来たのは、正解だったかもしれない。


「アイネちゃんは、今、七歳なの。小学校に通ってたら、今は、二年生。冬になったら八歳になって、魔法が使えるようになるんだよ? とっても不思議な感じ。まだ、こんなに小さいのに、すぐに魔法が使えるようになるなんて。ね?」


 興味がありそうだったので、それからしばらく、アイネの話を続けていた。すると、ベルはいつの間にか、すっかり首をもたげて、うんうん、と聞き入っていた。


「はー! 色々話せて楽しかった。ありがとうね、ベルちゃん」

「……うん」


 久しぶりに声を聞けた。それがただの短い返事だったとしても、大きな一歩だ。


「私ね、アイネちゃんがこの先、どうなっていくのか、とっても楽しみなの。ベルちゃんは?」

「──ボクも」

「だよねー!」


 そう言って、いっぱいの笑みを浮かべると、ベルは少しだけ驚いた様子を示したが、やがて、わずかに笑みを浮かべた。


「また来るね、ベルちゃん。あ、何か欲しいものとかある?」

「欲しいもの……」


 そのとき、グルル、と地面が鳴動した。何事かと、思考を巡らせていると、ベルが照れた様子で、


「お腹、鳴っちゃった……」


 と、そう言ったのだった。

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