第6-12話 紅茶の波面

 とはいえ、ヘントセレナはともかく、セトラヒドナを落とすのは面倒だ。


 セトラヒドナ──旧魔族軍が死力を尽くして取り返した領土であり、かつての王都トレリアン。平和主義を掲げているが、氷像絡みとなっては、対応が変わってくる可能性は十分にあり得る。


 ──そして、私が陥落かんらくし損ねた、唯一と言っても過言ではない場所。


 もともとは、魔族にとっての安寧の土地であったが、数年前から人間の難民も受け入れるようになった。


 だが、なぜ、氷像の子がそこに亡命したのかは分からない。


「セトラヒドナのスパイの子たちに連絡はした?」

「はい、即刻、させていただきました」

「うん、お利口」


 私は赤ちゃんの赤い頭を撫でて、微笑む。それから、紅茶をくるくると回し、香りを楽しんでから、啜り、香りを口から鼻腔に浸透させる。味はしないが、香りは分かる。だから私は紅茶が好きだ。


「そうなると、魔王を復活させようって動きも出てくるかな?」

「はい。私も同じ考えです」

「それだと、戦争の混乱に乗じて送り込んだスパイちゃんたちだけじゃ、ちょっと、心許ないかなあ。誰かに氷像の子ってバレた時点でダメなわけだし」

「では、誰を手配しましょうか」

「私が行っちゃ、ダメ?」

「ダメです。絶対に」

「えー、けち」

「けちでも、ダメなものはダメです」

「むー……。ところで、セトラヒドナの王様って、誰だっけ?」

「タルカ・チア・ロイトノンです」

「あのカッコいい女の子、そんな名前だっけ?」

「はい。唯一、壁内に存在する魔王幹部として、民衆の指示を得、王座を獲得してから、チアの称号を名乗り始めました」

「魔王の称号かあ、すごい自信。……じゃあもう、仕方ないから、勇者ちゃんを動かして」

「よろしいのですか?」

「うん。氷像の子だって、入国した時点で、疑いはかかってるだろうし、お城に連れて行かれるのも時間の問題だと思うから」

「しかし、勇者が裏切る可能性も……」


 魔王はノア王国に封印されている。それを解くには、勇者の力が必要だ。


 そして、その勇者は現在、他国のセトラヒドナに人質として送り込んである。友好的な関係を築くための、こちらからのご挨拶というわけだ。セトラヒドナは平和主義を主張しているため、勇者とはいえ、八歳を目前に控えた女の子を、殺せるはずもない。


 その代わりに、あちらからは、象徴的な魔族である、四天王三人の身柄を要求した。四天王最強と呼ばれた彼は私の弟と元勇者と相討ちになって落命しており、その四番目の席が埋まることは、少なくとも、魔王幹部が機能している間にはなかった。


 そして私は現在、四天王の、眼鏡、吸血鳥、頬に青いダイヤのついた女の三人に、それぞれ、ヘントセレナ以北、ミーザス、そして南端のワールスを与え、その統治を任せ、身動きを封じている。


 ヘントセレナ以北に魔族の統治者を置くことは魔族を団結させるのではないかという、反対意見もあったが、魔族の事情を知らない人間があの土地を治められるはずがない。反乱が起きて王国ごと乗っ取られる心配をするよりも、無能な統治者を置いておく方がいい。一番怖いのはバカな大将とも言うし。


 また、もともと、セトラヒドナ──旧王都には、壁外にも広大な領地があったのだが、その平原を焼き払って更地にし、帝国のものとした。見通しと風通しを良くするためだ。これで、遠くの音も聞こえるようになった。


 厄介なのは結界だが、あれを最後に張ったのは私であり、私だけは、魔法を通過させることができる。


 とはいえ、張った本人だからこそ、あの結界が簡単には破れるものではないことも知っている。あれは、「私でも破れない」を目指して張ったものなのだ。


 しかし、私が魔法を通過させ、毎日数十人の殺害を繰り返しているからといって、無闇に結界を張り直したりしない辺り、向こうの「頭」はなかなかに有能だと推測される。とはいえ、人口は確実に減りつつあるので、そろそろこちらも動きを見せ始める頃合いではある。


 ──ともかく、今は勇者の話だ。赤ちゃんは、「勇者が裏切る可能性」と言った。


 もちろん、考えないわけではなかった。だが、改めて言われると、それは赤ちゃんでも思いつくような、ごく当たり前の可能性なのだと気づかされる。


 そんなことを考えていると、また、どうしようもなく不安になってくる。


「ねえ、赤ちゃん」

「なんですか?」

「もし、勇者ちゃんが裏切ったら、どうしよう」


 そう尋ねると、赤ちゃんは露骨にため息をついた。私はそれに、肩を震わせる。


「先ほど、四人、処刑されましたよね。約束を破って。庭ではなくここで」

「うっ……うん」

「今のため息を含めて、私の不敬を四つ、許していただけますか?」

「それは、私も悪いから、いいけど」

「では、進言させていただきます。──マナ様、あなたは、アイネ様が、五つの頃に彼女を敵国に引き渡しました。たった五つの幼子を、しかも、実の娘を、敵国に一人、人質として送り込んでおいて、今さら裏切るな、というのは虫が良すぎるのではありませんか? マナ様のことを忘れている可能性だって、十分あり得るのですよ?」


 勇者──いや、アイネのことは、信じていた。信じていたかった。私を裏切るなんて、考えたくもなかった。それが、ただの押しつけだったとしても。


 だが、本当に信じているのなら、悪である私を、討たせるべきなのだと気がついた。


 自分に都合がいいことだけを期待するのは、信頼とは言わない。


「……それが、ため息と合わせて、二つ目?」

「はい。次が三つ目です。これだけ独裁的な政治を敷きながらも皆が従っているのは、マナ様のやり方を指示するものがいるからです。マナ様の容赦をしない在り方は、不敬を働かない限り、自分の身柄は保証されるという、ある種の安心感を国民に与えているのです。しかし、残念ながら、敵国にマナ様を指示する者はおりません。セトラヒドナも例外ではない以上、幼少の頃よりセトラヒドナで養育されてきたアイネ様が、帝国を恨まない道理がありません」

「……うん、次は?」

「これが最後になりますが、マナ様。──私は、あなたを、決して裏切りません。絶対に。この命と引き換えにしても、必ずあなたを守ると誓います。それは、レイ様も、同じ気持ちです」

「──」

「ですから、もっと、私たちを、信じてください」

「……それが、四つ目?」

「はい。信じろ、なんて、マナ様には不敬な発言かと思いましたので」


 風で波打つ紅茶の波面に、私は心をそっと乗せてみる。水面に浮かぶ葉のように、それはゆらゆらと揺れて、やがて、水面が静となるときに動きを止める。


 それは、手の中に、ずっと握りしめて、大切にしていた心を、手放して、静かな水面に浮かべるくらいの変化を、私にもたらした。


 もっと簡潔に言うなら、まったく聞き入れる気がなかった二人の言葉を、少しは聞いてやろうという気になった。少しだけなら心を開いてもいいかもしれないと、そう思った。


「大変、失礼なことを申し上げましたね。どうぞ、首を切るなり、鍋で煮るなり、焼いて食べるなりお好きになさってください」

「──ううん。赤ちゃんの言うこと、正しいって、そう思う。レイもそう。いつも、正しいことばっかり言うの」

「正しいかどうかより、マナ様が本当はどうしたいかの方が大事です。少なくとも、私にとっては」

「私がどうしたいか?」

「はい。マナ様は、どうしたいですか?」

「私は──」


 ──私は、一体、何がしたいのだろう。


 これだけ、多くの命を奪って。


 たくさんの人を恐怖に陥れて。


 帝国を築いて、皇帝になって。


 全部、嫌なことばかりだ。私はずっと、自分が嫌だと思うことばかりしている。


 ──自分で自分が分からない。もうずっと前から。


 左手を太陽にかざして、壊れた指輪を見つめる。


「赤ちゃんは、どうしてほしい?」

「信じてほしいのは事実です。むしろ、私たちに任せきりになって、何もせず休んでいてほしいくらいです」

「赤ちゃんは、自分に帝国が動かせると思ってるの?」

「思っておりません」

「じゃあ、私がやるしかないね」

「……そうですね」

「そんなに落ち込まないで? 赤ちゃんは──」


 ──側にいてくれるだけでいい。


 そう言おうとして、口をつぐむ。あかねがそう言われたことを、ずっと気に病んでいたのを、思い出したのだ。


 ──側にいてくれるだけで、何もしなくていい。期待していないから。


 そんなつもりは少しもなかったのだが、それが彼を苦しめていたのは事実だ。現に、学校と育児を両立していたときの彼は、とびきり輝いていて、楽しそうだった。


 生きて、側にいてほしいと、そういう意味だったのだが。


 ──とはいえ、私が殺したも同然であり、死んでしまったのだから。今さらだ。


「うん。全部、今さらだよね」

「僕は──いえ、私が、なんですか?」

「あ、赤ちゃんそこにいたの、忘れてた」

「なあああー……!?」


 先の失言を気に病んでか、壊れた機械のように唸る赤ちゃん。


「つまり、いてもいなくても同じだと言えるくらいに、安心できる存在だとそういうことですね! 大変、嬉しいお言葉です!!」


 ──また予想もしない反応だ。


「とりあえず、氷像の子は気になるけど、昨日の今日で何もしてないみたいだし、ひとまず、様子見」

「アイネ様のことは──」

「使うつもりだったけど、勇者ちゃんは役に立たないって、よーく分かったから、やっぱり、もうちょっと放置」

「よろしいのですか?」

「うん。私のこと、忘れてるかもしれないなら、そのまま、慣れてる王国で過ごす方が幸せだろうし」


 ──それに、何より、アイネが恐ろしくて仕方ない。


 裏切られたら。恨まれていたら。嫌われていたら。憎まれていたら。忘れられていたら。口を利いてくれなかったら。王国の方がいいと言ったら。


 そんな風に思われることにも、そういう態度を取られることにも慣れているはずなのに。それだけのことが、怖くて怖くて、仕方がない。


「大丈夫ですか、マナ様。何か、私にできることはありますか?」


 顔色が悪く見えたのだろうか。握られた手を見れば、それが震えていることには、すぐに気づいた。


「ぎゅってして」

「──それでは、失礼して」


 人に抱きしめられると温かくて、安心する。怖くて凍えそうだった体が、ぽかぽかしてくる。手の震えが収まって、心が落ち着く。


「すぅ──」

「眠ってしまわれましたか。……よく、眠れていないのか。それに、今日は特に、感情の振れ幅が大きかった。そのせいで、お疲れになってしまわれたのかもしれないな」


 ぽつりと呟いた独り言は、湯気の冷めた紅茶の波面に飲み込まれていった。

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