第6節 愛の色
第6-1話 ひたひたのパンケーキ
即位した榎下愛がルスファ王国の解体を宣言し、それに対抗するカルメス・クラン・ゴールスファを失墜させてから、はや五年。
ルスファ解体後、榎下愛は自らを皇帝とする帝国「メリーテルツェット」を立ち上げ、ヘントセレナ以北を含む、ルスファ大陸の大半を自らの領地とし、各主要都市に王を配置し、国とした。
かつての立ち位置を失った、旧王都トレリアンは、旧魔族軍に領地を奪還され、名をセトラヒドナと改めた。
「いやあ、一時はどうなることかと思ったけどよ。旧魔族のお偉いさん方が取り計らってくれたおかげで、オレたちゃあ死なずに済んだな」
「バカ……っ! お前、こんな公然の場でそんなこと言ったら……」
「ま、大丈夫だろ。みんな同じようなことを思ってるさ」
「ほんと、勘弁してくれよ? 今じゃ、『あのお方』の一存で何もかも決まっちまうんだから。発言には気をつけろ、常に心臓を握られていると思え。いいな? バルガス?」
「へいへい、分かったぜ、トーマさんや」
片田舎であるセトラヒドナにも、戦後まもなくしてギルドが建設されたが、並の冒険者がこなせる依頼はなく、今は昼間から飲める居酒屋のような扱いを受けていた。
その居酒屋の一角で、バルガスはごくごくと喉を鳴らして酒を流し込み、机にジョッキを叩きつける。
「かーっ、それにしても、マズイ酒だな!」
「バルガスお前、死にたいのか!?」
「んあ? なんで酒がマズイと死ぬんだ? マズイもん食って死んだなんて話、聞いたことねえぞ」
「お前、『蜂歌祭』のこと……。いや、今度説明してやるから、金輪際、酒の味には言及するなよ。いいな?」
「へいへい。まったく、息苦しい世の中になっちまったな」
「それでも、俺たちはまだ恵まれてる方だろ。旧魔族軍の領地にいられるんだからな」
「ああ、違いねえ。魔族と戦争してた時代が嘘みてえだ」
「──まさか、あの頃が平和だった、なんて思う日が来るとはな」
トーマはやっと、酒に手をつける。マズイ酒でも、飲まなければやっていられない。今や、発言のすべてが監視されている時代だ。その上、何が『あのお方』の機嫌を損ねるか、分かったものではない。
かつては、皆から愛され、祝福された、誰もが知るあのお方だが、今は皆、その名前を口にすることさえ恐れている。周りの仲間たちも、あまりの恐怖に耐えきれず、何人もが彼女の帝国に服従するのを、トーマはその目で見てきた。
そして、彼らのその後を、トーマは知らない。
「けちって飲むような酒じゃねえぞ?」
「酒に呑まれてやらかしたやつを、俺はこの目で何人も見てきた。とてもじゃないが、お前のようにはなれない」
「そりゃ大変だな。オレからすれば、妻子持ちのお前の方が羨ましいぜ」
いつかはきっと、粛清される。だが、できる限り、長く生き延びるために、トーマは発言には細心の注意を払っていた。家族のために。
城仕えの経験と人脈を使ってあのお方の過去を調べ、気に触れることを知り、決して、気分を害することのないよう。常に気を張り続け、精神を摩耗しながらも、終わりの見えないご機嫌とりを続けている。
「俺、これで本当に、生きてるって言えるのか……?」
「大丈夫だ。オレもお前も、まだ生きてる。命だけはな」
「はあ……。──一体、いつからこんな風になってしまったんだろうな」
「お前はいつからだと思ってるんだ?」
「そりゃ、勇者が──」
瞬間、自分の失言に気づく間もなく、体が弾けとび、痛みを感じる間もなく、トーマの意識は消えた。
***
──指を鳴らす。すると、鳥たちが、一斉に飛び立った。
「いい天気。お散歩には絶好の日和だね、誰かさん?」
「──はい、そうですね」
「空も青いし、植物たちも元気そうだし、鳥たちも嬉しそう」
「ええ、よい天気ですね、マナ様」
植物園を赤髪の彼と歩きながら、様子を見て回る。みんなに、ありったけの魔力を注がせて作り上げた庭園だ。
「……あれ? ねえ、誰かさん、この子、元気がないみたい」
「あ、本当ですね……。申し訳ありません、手入れが行き届いておらず」
「ううん。──可哀想に。ごめんね」
私は枯れかけている花を指でなぞり、魔力を込め、その本来の美しさを蘇らせる。
「ほら、元気になった」
「さすがマナ様。花も喜んでおられます」
「そうかな?」
そのとき、声が聞こえた。
遥か遠く、遠方の地から。
──彼を
私は指を鳴らして、陸続きの大陸の、地平線の向こうにある、遠方の地に魔法を放つ。
「──マナ様。あまり魔法を多用されると、お体に触ります」
「いいの。どうせみんな死ぬんだから。早いか遅いか、それだけ。みんなね、最後には死んじゃうの。病気の私は、皆よりも少し早く死んじゃうけど、それだけだから」
「僕──私は、マナ様には長く生きてほしいと思っております」
「なんで?」
「こうしてマナ様と話している時間が、何より幸せだからです」
「そうなんだ」
適当に聞き流しながら、庭を歩く。時々指を鳴らして、景色を見ながら、歩く。
「あーあ、飽きちゃった」
「急にどうされたのですか?」
「だって、花なんて見て、何が楽しいの?」
「……おっと、それはそれは。では、今まで何のために育てるよう、お申し付けになったのですか?」
「え? んー、なんでだろう?」
広い庭を歩ききって、庭園を振り返り、その全体をじっと眺める。
「じゃあ、こうする! この庭を通る間だけ、指を鳴らすの。あなたが私のこと、心配みたいだから、そうしてあげる。どう? 嬉しい?」
「はい、お気遣い、痛み入ります」
「嬉しい?」
「──はい、嬉しいですよ」
「ふふっ、よかった」
そんな背景があって、この庭は、「赤の庭園」と呼ばれるようになった。日に一度はこの庭園を訪れて、赤髪の彼と散歩する。
雨が降れば、雲を散らして晴れにすればいい。台風が来れば、風で進路を変えるか、相殺して消せばいい。雪が降るなら、季節を春に変えればいい。暗くて足下が見えないのなら、朝にしてしまえばいい。
そうして、毎日毎日、気の向くままに通っていた。
それが終わった後で、お茶会を開く。お茶会と言っても、参加するのは赤髪かレイの、二人だけだ。
「今日は何か、面白いことあった?」
カップの紅茶を回し、足をぶらぶらさせながら、私は赤髪の彼に話しかける。
「面白いかどうかは存じませんが、海の向こうの孤島で、何やら問題が起きているようです」
「海の向こう? 遠いところだね。何が起きてるの?」
「はい。近頃、通り魔事件が連続して発生しているようで」
「そうなんだ。それだけ?」
「それだけ──。いえ、それが、殺された者たちがゾンビとなって町を徘徊しているようでして、内部はパニック状態だとか」
となると、通常の住人たちは船で島の外に逃げたと考えて、間違いないだろう。
「それで、みんなが乗ってる船をこの国に受け入れてほしいってこと?」
「はい。そのように要請が来ております。いかがいたしましょうか」
「ダメ」
即答を食らった彼は、面食らった様子で、先を続ける。
「しかし、他国にも揃って受け入れを拒否された後のようでして、船は二週間、海上を航海し続けております。このままでは、いずれ、力尽きるかと」
私はパンケーキを口に運び、咀嚼し、飲み込んでから答える。
二週間も無援で海上を漂い続けているのなら、とうに限界は超えているだろう。孤島となれば、ありったけの食料を詰め込んだとしても、そう長くは持たない。全員で避難するとなれば、できるだけ大きな船を使ったはずだが、島に停泊している船などありはしない。仮に、他国から船と物資を借りたのだとしても、慣れない船上で二週間の共同生活ともなれば、体力も気力も限界だ。船は燃料を節約して、海上を漂っているだけだとしても、食料は尽きる。
どちらにせよ、限界にならなければ、帝国になど助けは求めないだろう。
「物資の供給はしてあげてもいいよ。でも、その受け渡しは、黒いドラゴンちゃんのいる大陸でやってね。それから、受け渡しに直接関わったみんなは、事件が解決するまでこっちに戻しちゃダメ」
ドラゴンちゃんのいる南の大陸は、かつて、カルジャスと呼ばれた国があった場所だが、ドラゴンちゃんが大陸ごと焦土に変えてしまったので、今は誰も住んでいない。領土権は帝国に属している。
「──その条件では、供給はできません。受け渡しをする者たちにとっては、堪ったものではありませんから」
「うん。そうでしょ? だから、それが嫌なら、諦めて。私だって、助けてあげたいとは思うけど、私の可愛いみんなまでゾンビになっちゃったら、可哀想だもん。だから、ごめんね」
パンケーキの最後の一欠片をフォークで突き刺し、紅茶に入れてひたひたにし、それから頬張る。
「お行儀が悪いですよ」
「……怒った?」
「はい。怒りました」
「ぴゃー……」
私は椅子の上で三角座りになり、頭を抱えてうずくまる。必殺、防御のポーズだ。どこも守れていないところが個人的には気に入っている。
「怒られたくないのであれば、なんとか、この混乱を鎮めてください」
「えー……。もう、しょうがないなあ」
「現地に赴かれますか?」
「うん。ちょっと旅行してくるね」
「では、手続きをいたしますので、少しお待ちを──」
「ばいばい、誰かさん。何日かで戻ってくるから、頑張ってね」
そうして、私は海上上空に瞬間移動する。それから、何度か移動を繰り返し、海上を漂う船を観察する。
「あ、島の名前聞くの忘れちゃった。まあ、なんとかなるよね」
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