第5-12話 無自覚な悲鳴
そんな目の回るような日々を過ごして。腕にも重みが増してきて。
太陽の日差しが強く、立っているだけで汗のにじむような天気の中。
私はアイネを連れて、城の屋上に来ていた。
「まーな!」
あかねの真似をして、マナと呼ぶアイネに、私は語りかける。
「アイネは、初めて言葉を話したときのことを覚えていますか? 新幹線に乗っていたとき、あなたはまなさん、とそう言ったんですよ」
「ああね!」
なんだか、返事のようになっているが、決してそうではなく、これでもあかねと呼んでいるつもりなのだ。あかねの姿が見当たらないと、たまに投げやりな感じで彼の名前を呼んでいる。本人の前で呼んだことはまだなかったかもしれない。
もしかしたら、私も知らないだけで、もっと前からマナ、と呼ばれていたのだろうか。まなには言っていたのかもしれない。まあ、ないだろうけど。
「アイネはまだ、まなさんを覚えていますか?」
「まな?」
「私ではなく、まなさんのことです」
「あー?」
「……そうですよね」
いつからか、アイネはまなのことを呼ばなくなった。もちろん、覚えていられるはずもないのだが、やはり、寂しい。
「愛! ここにいたんだ、急にどっか行っちゃうからビックリしたよ」
「……」
「愛──」
私はその声にちらと振り返ってから、アイネを抱いたまま、淵の方へと歩いていく。彼はそんな私に気がつくと、魔法で私の足を止め、遅い足で必死に駆けてきて、後ろから抱きしめる。
「愛、今、何考えてたの?」
「もう少し、城下をよく見ようかと」
「嘘だね」
「なんで分かるんですか?」
「分からないはずないじゃん」
抱きしめる腕が震えているのを感じて、私はゆっくり振り向く。すると、あかねは見られないように、私の肩に顔を埋めた。
「本当に、見るだけですから」
「……」
「あかね──」
「辛いなら辛いって言ってよ」
「別に、辛くはありませんよ。ただ、低いなと、そう思っていただけで」
王都で一番高いとはいえ、都会のビルに比べたら低い。
「……どうして、全部一人で抱えようとするのさ」
「一人ではありませんよ。皆さんの協力がなければ、ここまでアイネを育てられなかった。その自覚はあります」
「そんなこと言ってないじゃん」
「……すみません」
「謝らないでよ」
「でも、泣かせてしまったのは事実ですから」
「泣いてない」
上ずる声を聞けば分かる。彼は本当に泣き虫だ。
「離してください」
「嫌だ。怖い。僕の手の届かないところで、何か起きるんじゃないかって思うと、すっごく、怖い。何もしないって約束してくれるまで、どこにも行かない」
「明日も学校があります。もうすぐ、最高学年に進級できますから、そうしたら、今以上に勉学に励み、大学へと進学していただかなくてはなりません」
「式挙げるって、約束したじゃん」
「今ここで、誓ってくだされば、十分すぎるくらいです」
「……なんで? 僕、そんなに頼りないかな」
「いえ。あなたは十分、頑張ってくれていますよ。私の分までやってくださって──ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
アイネを離すことはできず、彼の頭を撫でてはやれない。この両手はこの子で埋まっているのだ。
「僕が前に言ったこと、覚えてる?」
「──まなさんを忘れられないという話ですか?」
「うん」
「……正直、その通りです。あなたに内心を言いあてられるなんて、悔しい限りですが」
「やっぱり」
生きている感じがしないのだ。何をしていても、なんとなく、つまらない。
何より、アイネを可愛いと、感じることがない。
まなのためにと、その責任感に追われる気持ちだけで、こうしてやっているが、アイネを可愛いと思う、心の底から湧き上がってくるような、そういう愛情が、分からない。
──もしかしたら、私はアイネを、まなの代わりだと思っているのかもしれない。
「どうしても、この子を可愛いと思えないんです」
「それはなんで?」
「それは──」
「まなちゃんが死んじゃったからでしょ?」
「……はい」
アイネの顔を見ると、いつも、最初にまなのことが頭に浮かぶ。この子さえ置いていかなければ、まなは助かっていたかもしれないと。
あるいは、私がアイネを産まなければ、勇者の「世代交代」は行われず、塔はまなの死を予言しなかったかもしれない。
それが、どれだけ最低な考えか、分かっていた。
それでも、そう思わずにはいられなかった。
「アイネを庇って、まなさんは亡くなったんです。この子を産んだ私の責任です」
「アイネが、いなければよかったって、本気でそう思う?」
「分かりません。──でも、産まれてきてくれてありがとう、って、そう素直に思えなくて」
どれだけ身勝手なことを言っているか、分かっている。
アイネだって、こんな私のところに、生まれたくはなかっただろう。
それも、私が彼との繋がりを持つためだけに作った子どもだ。
お腹にいるときは、あれだけ、愛おしかったのに、彼女が産まれてから一度も、きっと私は彼女を愛せていない。
「ごめんなさい。……本当に、ごめんね」
だから、もう、死なせてほしい。死にたい。死ななければならない。
言葉では言い表せないくらい、私は醜い存在だった。
「大丈夫。大丈夫だよ、愛」
そうして、あかりは私の頭を撫でてくれる。そうされている間だけは、幸せだ。ただ、その温もりは、離れてしまえば、長くは残らない。
「アイネは君のことが大好きなんだから。大丈夫、愛せてるよ」
「そんなことない。みんな、私が何もしなくても、私のこと、愛してくれる。私がどんなにダメでも、 絶対に愛してくれる。──誰も私を見てないから。アイネだって、きっと、そう。私がダメなお母さんだって、そう思ってる。私が愛せてないんだから、愛してくれるわけがない。アイネに愛されてても、私はこの子を愛せない。きっと、アイネは私なんかよりも、別の家に産まれてた方が、もっと、ずっと、幸せになれた」
「ダメじゃない。全然、ダメじゃないよ」
「そんなことない。国も捨てた。責任もとれないのに、子どもも作った。家族も大事にしなかった。それでずっと、まなさんに依存して、頼りきりで。なのに、何もできなかったんだから」
アイネが心配そうにも見える顔で、手を伸ばしてくる。
「まーな?」
そう言って、小さな手を伸ばし、微笑みかけてくる。
その笑顔を見ても、これ以上、この子のために生きようとも、この子を守ってあげたいとも、可愛いとさえ、思えない。
「アイネちゃんは、可愛いよ。とっても、可愛い」
そんな言葉を口にしてみても、嘘の罪悪感が湧くだけだ。虚しい。
「なんで。なんで、私のところに来ちゃったの?」
そう尋ねても、ただ、笑っているだけで、何も答えてくれない。当たり前だ。こんなに幼いのだから。
私はすごく、最低なことを聞いている。あれだけたくさんの愛をもらったのに、同じだけのものを、この子に与えられていない。母親失格だ。
「そんなに辛いなら、僕が壊してあげようか」
あかねが不意にそんなことを言い出した。それは、ぞっとするくらい、
「壊して、くれるの?」
「うん。世界一、愛してるから」
「──嬉しい」
そんなことでしか、彼の愛を感じられなくなってしまった自分が、酷く可哀想な気がした。
「一緒に死のうか、愛」
耳元で聞こえる囁きが、私の心を掴んで離さない。
「でもね。アイネはダメだ。この子を巻き込んじゃいけない」
そうして、あかねはアイネを抱き上げ、その頬にキスをする。
「愛、久しぶりにどこか、出かけようか。二人で」
「──うん」
その問いかけに対する返答に、私は迷わなかった。
大粒の雨が、ぽつりと、アイネの頬を濡らした。
***
城に嘘の行き先を告げ、魔力封じの指輪で探知を防ぎ、追っ手を撒いて、私たちはミーザスに来ていた。どしゃ降りの雨の中、一つの傘を分け合って、僕たちは歩く。
「ここ来るの、ユタと戦ったとき以来だなあ」
「どこにしますか?」
私は辺りを見渡す。
下手に人目につくところでは、魔法で簡単に自殺など止められてしまう。となれば、人目に付かないところに限る。
そうして、最期になりそうな場所を探して──、頬に、ひんやりするものが当てられた。
「その前に。トンビアイス食べよう?」
私は差し出されたトンビアイスを、言われた通りに食べる。薬品等で上手く誤魔化してはいるが、やはり、味は落ちた。
「んー、めっちゃ美味しい!」
「そうですね。では──」
「あ、次あっち行こ!」
そうして、手を引かれるままに走り、色んなところを回る。ミーザスは元々、魔族も人間も分け隔てなく暮らしており、いざこざは頻発していた。だが、魔族が人間になった際は、最も混乱が少なく、この一帯だけはいざこざが起きなかった。
そんなこともあってか、どうにも、この場所は温かい。温かくて、辛い。
「おまけしといたぜ、あんちゃん!」
「おっ、気前いいねえ! ありがとう!」
そうして、あかりがもらってきたのは、小さな魔法花火だ。一つで、十発入っており、絵を描いて認識させればその通りに打ち上がる。小規模で、何より熱くなく、安全だ。まあ、安全なんて、今さらどうでもいいが。
「ラッキー、おまけで三つになった。愛、なんか描いて。絵、めちゃくちゃ上手いでしょ」
「なんか、と言われても」
「んー、じゃあ、リンゴ!」
言われた通り、ポップなリンゴのイラストを紙に描き、それを花火玉に吸い込ませると、打ち上がった。魔法回路が中で組み立てられているので、魔法を使わずとも、打ち上げられる。
「おー! やっぱ、魔法ってこうじゃないとね!」
「次は何を描けば──」
「あ、それもういいや。次、あれにしよ!」
そうして、あかりに振り回されるままに、気づけば、すっかり夕方になっていた。振りだした雨は止みそうになかったが、太陽の光は雲の隙間から覗いていた。
「あー、楽しかった! 愛はどうだった?」
「私も、楽しかったですよ」
「そっか! ……そっか。やっぱり、楽しくなかったよね」
私を楽しませようとしてくれたのは、十分理解できたが、事実として楽しめたかどうかは、別の話。
申し訳なくは思うが、それが本心だ。
「じゃ、そろそろ行こうか。場所、決まった?」
「はい」
今度は私から、彼の手を引いていく。私は死に場所に、何の変哲もない、普通の廃ビルを選んだ。扉は施錠されていたが、私の力があれば簡単に壊せる。
「へえ、廃ビルって、雰囲気あるねえ。なんか、悪いことしてるって感じ!」
「そうですね」
つい、素っ気なく返してしまうと、あかねが立ち止まった。振り返ると、彼は寂しげな顔をしていた。
「すみません」
「ううん。気にしないで」
そうして、屋上まで上がったが、そこには室外機や貯水タンクがある以外、何もなかった。
「どうしてここにしたの?」
「ここが、一番高かったからです。半端な高さでは、私だけ助かってしまいますから」
「それ、僕も死んじゃうんだけど?」
茶化すあかりに構う気にもなれない。
「……すみません。私を選ぶよう言ったくせに、こんなことになってしまって。こんなことなら、妹さんのために尽力した方が、良かったですね」
「ううん。あのとき、僕、本当に、すっごく、嬉しかったよ」
私は彼に正面から向き合う。
「あかね。死んでも、愛してくれる?」
「もちろん。愛の方こそ、永遠に、愛してくれる?」
「もちろん。あなたに殺されたとしても、あなたが誰かを殺してしまっても、たとえ、見殺しにされたって、私はあなたを愛してる」
「僕も同じだよ。愛」
誓いの言葉を並べていき、これが私たちの結婚式なのだと気がついた。まさか、こんな廃ビルの屋上で、二人きりで行うなんて、今の今まで、想像もしていなかったけれど。
指輪をお互いに交換し合う。今さら緊張することもない。思えば、この指輪が割れたときから、運命は狂い始めた。
それから、時間をかけ、ゆっくりと誓いのキスを交わして、惜しむようにその感触を手放す。
惜しむ気持ちはあった。だが、もう、生きていたくない。
「はぐれないように、手、繋いでいこうか」
「うん」
大きな手。ごつごつとしている。見れば、同じくらいだった背丈も、頭一つ分くらい、彼の方が高くなっていた。
「どうかした?」
「何でもない」
「えー? 気になるじゃん。死にきれなかったらどうするの?」
「……背、私より高いの、ズルい」
「何それ、超可愛いんだけど」
「私はいつでも可愛いの」
「それ、自分で言っちゃう? あははっ」
「あは、あははははっ……」
久しぶりに、笑った。前に笑ったのは、氷像の封印について、まなに説明していたときだったか。今でも、鮮明に思い出せる。二人との記憶が褪せることなど、決してないのだから。
そんな私を見て、あかねは満足そうに微笑んだ。
「心が変わったりは?」
「しない」
「そっか。……ねえ、愛。『なんでも』聞いてくれるって約束、覚えてる?」
魔術大会のときの話なら、しっかりと覚えている。一度は復讐がしたいと願った彼だが、私がその願いを捨てさせた。だから、まだ、残っている。そんなことを思い出してから、私は頷く。
「じゃあさ、最期に一つ、お願い聞いてくれる?」
「うん、何?」
どうせ死んでしまうのだから、彼のお願いを聞かない理由はない。
そうして、彼が何を言うのかと、意識を集中させ、
「──もう一回だけ、笑ってほしい」
と、そう言った。
「そんなことでいいの?」
問い返すと、あかねは黙って頷いて、私の頭を撫でる。私がそれに微笑むと、彼もまた笑って、
「やっぱり、愛は、笑った顔が一番だね」
そう言って、いつものように、明るく振る舞った。
私は手を離さないように。それだけに気をつける。魔法が封じられていることも、魔力をできる限り使いきったことも、しっかりと、確認する。
──それから、合図もなく、二人で同時に、空へと、自らを投げ捨てる。
過ぎ去る景色も、頬を切り裂くような風も、迫り来る地面にさえも、何も感じない。ただ、彼の横顔を見つめて、彼の手の温もりを感じて、彼を想う。
「愛。ごめんね」
声の直後、私は彼に抱き寄せられる。
そして。
──地面に衝突する直前、彼は身を捻り、地面へと背を向けた。
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