第5-11話 臨界点
月日は流れる。アイネもそろそろ、一歳を迎える。
「べー」
「あ、また吐いてる」
「なかなか食べませんね……」
半年ほど前から離乳食に挑戦しているのだが、なかなか、食べてくれない。やはり、ご飯が美味しくないからだろうか。私が蜂歌祭で歌えなかったからだろうか。
ともあれ、いつものように、しつこく、口元にスプーンを運んでいたのだが、
「あー!」
アイネはそのスプーンを掴んで投げ、近くにあったコップも倒し、ついにはお皿までひっくり返した。
「あーあー。またやっちゃったねえ、アイネちゃん。こういうことはしちゃダメだよ?」
「あー……ぶーっ」
「うわっ、唾かけられたっ」
あかねの嫌がる顔を見て、アイネはきゃっきゃと楽しそうに笑い始めた。椅子に座ることは問題なくできているのだが、一向に食べようとしない。
すると、今度はひっくり返ったご飯を、手当たり次第掴んで、投げ始めた。まあ、何をされても、魔法で対処できるので、残飯にはならないが。
「あらら、アイネちゃん? 食べ物は、こういうことしちゃダメだよ」
「……まーあ」
あかねが根気よく叱ってくれるので、悪いことをしている自覚はあるのだろう。しかし、劣勢と見るや否や、すぐに私に助けを求めてくる。私は拾ったスプーンを目の前に置いて、言い聞かせる。
「アイネ。こういうことをしては、ダメですよ」
「うー、だあっ!」
赤子とは思えない速度で投げられるスプーンを、受け止める。すると、それが気に入らなかったのか、アイネは次から次へと食べ物を投げ始めた。それらを魔法で受け止める。
「あー……アイネちゃん、それはさすがに──」
「アイネ、いい加減にしなさい!!」
「う……ぎゃああああ!」
──またやってしまった。叱らないよう、自制しているのだが、どうにも、すぐカッとなってしまっていけない。
「あああん!!」
「アイネちゃん、よしよーし」
あかねが抱き上げてあやしてくれる。今日は休日だからいいものの、あかねが学校に行っているときなど、もはや地獄だ。
こんなことを繰り返しているから、食べようとしないのだろうか。食べるのが嫌いになってしまうのだろうか。やはり、私のせいだ。
「ん! ほら、アイネちゃん、これ、すっごく美味しいよ!」
あかねが魔法で宙に浮いているご飯を口に入れ、美味しい美味しいと言ってみたりするのだが、アイネはどうにも興味を持てないらしく、そっぽを向いていた。
「あー」
「……はいはい、分かりました」
仕方なく、今日も母乳で済ませる。いろいろ試してはみた。色んな食べ物で試した。全部、投げてぐちゃぐちゃにされて、はい、終了。
「いててっ」
最近、飲んでいる際に、噛むようになった。叱った方がいいのだろうか。しかし、叱ったとして、こちらまで飲まなくなったらどうしよう、などと考えると、もう耐えるしかない。
「はあ……」
「愛のせいじゃないよ。僕の怒り方が悪いのかもしれないし。甘やかしすぎかも」
「すみません。ご迷惑をおかけしてしまい」
「そういうもんだよ。僕たち夫婦なんだしさ、ね?」
いつまで、私は誰かの優しさに甘え続けるのだろうか。しっかりしなくては。
「やっぱりさ、ちょっとくらい、他の人たち頼ってもいいんじゃないかな?」
「しかし──」
「頼れるものは頼っておこうよ。このままだとアイネも心配だしさ、ね?」
「……すみません」
「はいはい。じゃあ、まず、アイネが落ち着いたら、レイのところに行こうか」
***
生前、母が言っていたプレゼントというのが、レイのことだ。ずっと、メイド長だと思っていたのだが、どうやら、それは大きな勘違いであったらしいことが、最近になって分かった。
私たちはレイを探して、王国騎士団の訓練所に来ていた。案内で取り次いでもらい、少しすると、レイは近衛兵の鎧に身を包んでやってきた。
「姫様、やっと頼ってくださいましたね」
「レイ……すみません。忙しいのに、こんなことで呼び出してしまって」
「こんなことで、ではありませんよ。大事なことです。それに、アイネ様は手のかかる子ですから」
「あぅ……」
アイネの人見知りが発動していた。最近は私の姿が見えなくなると、すぐに騒ぎ始めるので、常に一緒にいる。
「ふっ、すっかり姫様になついておいでですね」
「……それで、レイの方は、お時間よろしかったでしょうか?」
「はい。ギルド勤めの間も訓練はしていましたし、部下の指導も済んでいます。指示は出してあるので、しばらくは私がいなくとも大丈夫ですよ」
「じゃあさ、一緒に来てくれない? もうお手上げって感じでさー」
あかねが降参するように手をひらひらと振る。
──だが、レイも暇ではないのだ。立ち話ならともかく、来てもらうなんて。
「さすがにそれは──」
「もちろん、いいですよ。喜んでお供させていただきます」
あかねを注意しかけたところで、レイから承諾を受ける。きっと、無理をしてくれているのだろう。
「すみません、レイ。無理をさせてしまって」
「そんなに謝られると、却って申し訳ない気持ちになりますね」
「本当にすみません……あ、また、謝ってしまいました」
「お気になさらないでください。では、鎧を外してきますので、少しお待ちください」
レイ・ウィリアーナ。ルスファ王国近衛騎士団団長。以前は、この世で最も尊いとされる姫のお付きの騎士だったその人。
私が彼女の正体を知らなかったのは、誰もが、私のことだから彼女のことくらい分かっている、と、そう決めつけていたからだ。
彼女の本当の強さを知る今となっては、侍女長などあり得ないと分かるが、私も、当時は、まだまだ子どもだったということなのだろう。
そんな彼女を私用で呼び出すなど、申し訳ないどころの騒ぎではない。
「お、アイネちゃん、目がくりくりしてるねえ。知らない人に会って驚いたのかな?」
「あー……」
ぽかんと口を開けて、アイネは放心していた。あかねが頬をとんとんと指の背で優しく叩くと、はっとしたように私の顔を見つめ、
「まー、あうあーうーああうううあうあー!」
「おお、めっちゃ喋ってる!」
何を言っているやらさっぱりだったが、ひとまず。
「そうですね」
と返事だけはしておいた。何を言っているか分かるのかと、あかりに問われたので、黙殺しておいた。
***
「それは、姫様に甘えているだけではありませんか?」
「私に?」
レイに相談すると、そう返答が返ってきた。話しつつも、アイネから目を離さないよう、見守っているのだが、体の発育は早いらしく、すでに、とてとてと、歩けるようになっていた。たまに転んだりもするが──、
「っとと、危ない危ない」
「あーう?」
考える側から、後ろに倒れそうになるアイネを、あかねがすかさずキャッチする。当の本人は何が起こったか分かっていない様子だ。
「姫様は魅力的ですから」
「アイネちゃんにすら、その魅力は適応されるってことかあ、なるほどねえ」
「では、一体、どうすればいいのでしょうか」
「簡単です。そこが嫌だと思わせれば、自然とお腹が空いて、離乳食も食べるようになるでしょう」
「何も食べなくなるのでは……」
「考えすぎです。お腹が空いて、我慢できる子どもなどいませんよ。それに、多少は諦めることも覚えさせなければなりませんからね」
レイが、悪い顔になっていた。
「でも、一体、どうすれば──」
「これを使います」
そうして、レイは小瓶に入った、透明な液体を出す。身振りで指示されて、小指の先につけて舐めると、
「苦っ!?」
反応の大きいあかねとそろって、私も顔をしかめる。
「これは、なかなかですね……」
「これを塗っておけば、母乳を嫌がるようになります」
「うわお、なかなかの荒療治だねえ……」
「さすがレイ、思いつきもしませんでした」
「いえいえ、エトス様のときにこうしていたのを思い出しただけです」
すると、あかねが噴き出す。
「ちょっ、急にカミングアウトしないでっ、あのエトスが、乳離れできなかったとか、面白すぎるんだけどっ……!」
あかねが肩を震わせて笑うと、ハイハイをするアイネが首を傾げ、にそにそと笑った。
「お兄様にもそんな時期があったんですね」
「あの方も、なかなか手のかかる幼少期を過ごされていました。一度こうだと思い込んだら最後、てこでも動かず……」
「あー、めっちゃ想像つく」
「昔から頑固だったんですね」
「モノカ様は、ニコニコしながら悪さばかり繰り返していましたね。注意されると余計にやりたくなってしまうようで。あの方は昔から、恐怖よりも好奇心が勝っているような感じでした」
「手を焼かされたんですね……」
「マナ様は天使のようでしたよ。知らない人が来てもニコニコとみんなに愛想を振りまいて。そのうち、連れ去られるんじゃないかと心配になりました」
「そんな赤ちゃん、この世にいるんだ……」
「まあ、今となっては、とんだお騒がせ娘ですが」
「うきゅっ……」
「と、トイスはどうでしたか?」
「トイス様は、あれでも癇癪持ちで、いつも不機嫌そうに怒っていましたね。まさにアイネ様のように、少し怒られると、お食事も全部ひっくり返しておられました」
「……わずかながら、覚えがあるような気がします」
トイスが一歳のとき、私は三歳だ。はっきりと覚えているわけではないが、うっすらそんな記憶がある。
「いやあ、こういう話って、面白いねえ。ねー、アイネちゃん?」
「あー!」
通行の妨げになったらしく、あかねは頬をべちんと叩かれていた。
***
今日は、あかねに、どうしてもとせがまれて、二人でお出かけをした。──アイネから目を離すのは、怖くてしかたがなかった。まなと同様に、アイネも勇者であり、同じように、ふっと、消えてしまうのではないかと思ったから。
特に会話があるわけでもないが、気まずいというわけでもない。何も言わなくても、彼が何に興味を示すかくらいは分かる。
輝く宝石や健気に咲く花、ぬいぐるみなども、彼は好きだ。ぬいぐるみは、自分で作ったのをくれたりもする。しかし、あかねはそれらの店で立ち止まろうとはしない。
「指輪、割れちゃったけど、買い換えたい?」
「ううん。このままがいい」
「だよね」
ふと、あかねが立ち止まる。手を繋いでいる私も、自動的に止まることになるのだが、その視線の先には、ホイサバちゃんショップがあった。ホイサバのあまりの人気ぶりに、先日、グッズが売り出されることになったのだ。
頭がホイサバで、それ以外は足でできている、八頭身のキャラクターだ。
「愛、ああいうの好きだよね。見てく?」
「ううん。いい」
「──そっか」
そうして歩き続けると、墓地が見えてきた。とはいえ、まなの墓がある墓地ではない。そのため、あかねは素通りしようとしたのだが、私はその手を少し引いて立ち止まる。
「ねえ、あかね」
「何?」
「私が死んだら、絶対に、王家のお墓には入れないで」
「……怖いこと言うねえ」
「亡くなったお母様たちに合わせる顔がないから。お願い」
「はいはい、分かったよ」
歩き出そうとする私を、あかねは立ち止まったままで、引き留める。
「もし、僕が死んだら、七回忌まではやってほしいなあ」
「ナナカイキ?」
「こっちにはないんだっけ。亡くなって六年後の命日にやる法要のことだよ」
「ホーヨー?」
「法要は、なんて言ったらいいんだろう……。ま、法要はいいけど、とりあえず、死んでも六年は覚えててほしいってこと」
「ふーん。詳しいね?」
「──まあ、お母さんとお父さんのときは、ちゃんとできなかったから」
あかねの握る手に、少しだけ力が入る。それから、私の頭を撫でて、
「六年経ったら、きっともう、泣けなくなってるからさ」
「六年も経ったら、忘れちゃってるかも」
「六年でいいから、覚えててよ」
「えー、長いー」
「その後なら、忘れてくれていいからさ。お願い?」
「──もう、しょうがないなー」
「ありがとう、愛。一緒のお墓に入ろうね」
「うん、もちろん」
私の目には、彼の顔が寂しげに映った。
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