第5-9話 天上から
まなが全身から血を流していた姿を思い出し、わたしは思わず口を押さえる。天上だというのに、情けない。
それから頃合いを見計らって、わたしはまなたちの元へと戻った。すると、あの緑髪の女がまなに、何か吹き込んでいるようだった。
「まー、ぶっちゃけ、天上と天界って、普段は行き来できるんだよね。だから、ほんとーならどっちでもいいの」
「普段、は?」
「うん。今は一方通行になっちゃってるんだけど」
「なんで? って聞いても、分かる話なのかどうか、知らないけれど」
「ああ、簡単簡単。主神がいないから。それだけ」
「……は? え、いいの、それ?」
「いいわけなーけど、いないんだからしゃーないよねー」
まなとれなの会話を耳に入れつつ、考える。
主神マナはこの世界を産み出した神だ。本来ならば、天上と地上を繋いだり、どの魂を次の神にするか決めたり、世界が滅びぬよう尽力したりと、やることはたくさんある……らしい。
死神が刈り取る魂を決めているのも主神なら、刈り取った魂を天界に受け入れるのも主神だとか。死神って、いる意味あるのかな。
「このままだと、天界と天上と地上の繋がりがなくなって、魂が天界に来られなくなって、神様が生まれなくなって、世界がどっかんしちゃうんだよ。大変大変」
「そのわりに、ずいぶん余裕じゃない?」
「まー、居場所は分かってるからね。あとはどうやって連れ戻すかって話なんだけど」
れなは地上をちらと見て、赤いままの瞳を薄暗く濁らせる。それらをまばたき一つで取り消してから、まなに視線を戻す。
「天界に行ったら、ここにはしばらく戻れないし、ここに残るなら、天界にいるお母さんたちにはしばらく会えないけど、どうする?」
「そんなの、決まってるじゃない。──あたしはここで、あの子たちを見守り続けるわ」
「まなちゃの大好きなハイガルくんにも会えないけど?」
「べ、別に、そういうわけじゃ……」
ハイガルって、あの青髪の鳥男だよね。あんなののどこがいいのかさっぱりだけど。何考えてるか全然分かんないし、話すの遅いし、変なところでこだわるし。──まあ、ただの嫉妬だけどねー。
「照れちゃってんもう!」
「地獄に引きずり落とすわよ」
「やだこわいー。──まーでも、まなちゃなら残ると思ってた。それじゃ、まゆはどうする?」
「まなと一緒にいられるなら、わたしもここに残ろうかな」
「うわー、いーなー! れなもまなちゃとらぶらぶしたいー!」
らぶらぶって。まあ、仲良しなのは否定しないけどね。にへっ。
「早く次の魂のところに行った方がいいんじゃないかな? ただでさえ、戦争の影響で死者が増えてるんだから、無理にわたしたちに構ってくれなくてもいいんだよ?」
「まゆの意地悪! もういいもん! べー!」
舌を出すれなから顔を背け、わたしはわざと、出るはずもない欠伸をする。そうして、れなを怒らせて、追いかけっこをしていると、まなは楽しそうに笑っていた。
「それじゃあね、まなちゃ。あたし、そろそろ行かなくちゃだから。会えなくなるから、寂しいとは思うけど──」
「いいえ、さようなら」
「酷い! うわあああん!」
そうして、喧しく叫び散らしながら、れなはどこかへと去っていった。それから、わたしたちは地上を見つめる。
「あたしが死んだだけなのに、二人とも、こんなに悲しんでくれるなんて。不謹慎かもしれないけれど、すごく、嬉しいわ」
「まなだから、悲しんでくれるんだよ。そんなことも分からないんだね」
「──そう。……でも、死んでから、やっと、二人の想いに気づくなんて、遅すぎるわよね」
「死んでも、気づかない方が良かったのかな?」
「ううん。気づけたから、あたしは世界一、幸せ。……本当は、生きていたかったし、あんな顔、誰にもさせたくなかったけれど」
「相変わらず、まなは欲張りだね」
「まゆみだって、同じでしょ? それに、見てるだけなんて、やっぱり、寂しいわよ。何もできないって、そう思っちゃう」
「それは……よく分かるかな」
生まれ変わるとしても、神になれるとしても、あの世でみんなに会えるとしても。死んだらそこで終わり。
それは、わたしがまなを見守り続けてきて、一番思うことだ。
せっかく、大好きなまなと一緒にいられるのなら、やっぱり、地上が一番だと、そう思う。
──見守るだけの今に、なんの意味があるのだろうと、そう思わずにはいられないけど。それでも、わたしたちは見守ると決めたのだ。
だから、彼女たちや彼らの、辛苦に満ちた人生を、わたしたちは天上から見守り続ける。
「まゆみ」
「何、まな?」
「──ううん。呼んだだけ」
「まななんかに気安く呼ばれたら、価値が下がっちゃうよ」
「じゃあ、もっと呼んであげる。今まで一緒じゃなかった分、手の届かないところにいっちゃってたら、困るから」
「よくそういうこと、さらっと言えるよね。口説いてるの?」
「口説く……って、何?」
「求婚ってことだよー」
「は!? そんなわけないじゃない! だいたい、血が繋がってないって言っても、あたしとまゆみは姉妹なんだから、結婚は──あ。もしかして、天上ならできるとか、そういうこと? まさか、本気なの!?」
──よかった。まながちゃんと、わたしを見てくれて。見えない誰かじゃなくて、わたしと話してくれてる。それが、すごく、嬉しい。
「自分で考える頭はないのかな?」
「嫌な言い方! ねえ、教えなさいよ、お姉ちゃん!」
ちょっと、うるさいくらいに、元気すぎるけどね。
***
あかねの部屋には、大きな透明の水晶があり、その中には、黒髪の少年が封印されていた。
「どう、見た感じ綻びとかある?」
「多少、ほつれはありますが、彼の実力で抜け出すことはまず、不可能でしょうね。それに、建物ごと封じてしまえば、この子以外に封印を解くことは不可能になります」
腕の中で静かに眠るアイネを、ぼんやりと見つめながら、大きな後悔に苛まれていた。
「ごめん。僕、ユタを殺せなかった。封印したってことは、アイネにユタを殺させるのと、同じだ。それに、もしかしたら、アイネの方が──」
「大丈夫ですよ。この子なら、きっと」
「うん。そうだね」
いつか来る、そのときに向けて。私たちは彼女を大切に育てていく義務がある。失ったまなのためにも。
「ユタがアイネに触れようとしたとき、触れられなかったんだ。ほら、ユタの腕、黒くなってるでしょ」
結晶に顔を近づければ、それがよく分かる。彼がまだ、意識のあるままで、こちらを睨むようにして見ていることも。
「たぶん、まなちゃんの願いが、アイネを守ってくれたんだと思う」
「まなさん──」
どうして彼女が亡くならなければならなかったのだろう。彼女が何をしたというのだろう。いつだって、自分よりも私たちを優先してくれた彼女が、なぜ。
まだそこに、彼女がいるのではないかと思う。隣の彼女の部屋を開ければ、その二段ベッドの下に彼女が眠っているのではないかと。だから、私はその扉を開けるのが怖くて、開けられない。
そんな私に、彼女は、自分を忘れて幸せになれ、と言った。
そんなこと、できるはずがないのに。
「愛、そろそろ行こうか」
「……はい」
一年と少しばかり、ここで過ごしただけなのに。
私はこの場所が嫌いだ。思い出が多すぎて。
だから、ここを離れる決心をした。
宿舎を地下に埋めて、アイネの魔力で封印を施す。これで、彼女以外には封印が解けない。そのために、わざわざ彼女をここまで連れてきたのだ。
こんな私たちに、行き先なんて一つしかない。そして、シーラはモンスターなので、そこには連れていけない。ここでお別れだ。
遠ざかる背中には躊躇いの色が見受けられたが、彼女は賢い。きっと、この場所に戻ってくることはないだろう。
そうして、新幹線に揺られながらも、頭の中はまなのことでいっぱいだった。自分が何を考えているのか分からないくらいに、心はぐちゃぐちゃで。それは、無数のトゲのように、心に刺さっていた。
ただ、鋭い痛みに身を任せていたかった。一体、どれだけのトゲが刺さっているのかなんて、考えもしなかったし、考えたくもなかった。きっと、後悔と思い出の分だけ、痛いのだ。だから、この痛みを、忘れたくはない。
「愛、愛」
あかねに揺すられて、やっと視界の焦点が合う。
「アイネちゃん、預かるよ」
アイネ? ──ああ、アイネか。
「うぅー」
見ると、アイネがぐずっていた。こちらに来るときにも、よく泣いていたのを思い出す。
「いえ、大丈夫です」
今にも、爆発のように泣き出しそうな声を聞き、私はその体を優しく揺する。あかねがどうしたものかと慌てる姿が、いつかのまなのようで、微笑ましい。
城までの三時間。こんな室内にいるのは、生まれてまだ半年ばかりの子どもに無理をさせることになるのは、分かっていた。どう考えても無理だ。それでも、そうするより他に、城へ向かう方法がないのだ。
アイネを抱えたまま、瞬間移動をすれば、莫大な魔力を消費することになるが、まだ魔力が回復しきっていない。他の移動手段では時間がかかりすぎる。
城からの迎えを出させることもできたが、そうはしなかった。いつまでも、甘えてはいられないから。
「ぎゃあああっ!」
泣かないでと祈っていても、私たちの事情などお構いなしに、アイネは泣き叫ぶ。周りの人たちに申し訳なく思い、なんとか泣き止ませようとするが、なかなか泣き止んではくれない。
「うわ、すっごい泣き声! アイネちゃーん、ほらほら、機嫌直してー」
「あー!!」
出会ってから日の経たない父親を、アイネは拒絶し、泣きながらも何かを探すようにして、キョロキョロと辺りを見渡す。
「まーやー! まーあん!」
「──っ!」
──拙い発音だが、彼女が「まなさん」と言いたいのだと、私にははっきり分かった。
その大きな黒瞳にいっぱいの涙を溜めて、まなを探しているのだ。
もう、まなはこの世にいない。それでも、こんなに幼いアイネに、それを分かれという方が、酷な話だ。
「──まなさんは、もういないんですよ」
「まあやん! あーあー!」
それでも、いないのだと答えるより他になかった。仕方なく、次の駅で降りて、泣き疲れて眠るまで、あやし続ける。
あかねが、自分が変わると言うのだが、慣れない彼に預けても、すぐに目を覚ましてしまって、結局、私がずっと見ているしかなかった。仕方ない。彼はつい先日まで、戦場にいたのだから。
──どれだけ、まなに頼っていたのだろうと、今になってようやく、私は自分の無力さに気づかされた。
そんなまなの体は、王都トレリアンに建てた、彼女のお墓の下にある。
魔王城に預けるのが筋かと思ったが、「白髪の女なんて、そんな不吉なものを、この土地に持ち込むな」とルジに言われた。
その帰り道、耳栓を外して、ヘントセレナを歩けば、まなの噂ばかりが耳につく。
「やっぱり白髪の女は危険だ」「実の姉に封印されて、ユタザバンエ様も可哀想に」「勇者が死んでくれてよかった」
もし、今が戦争直後でなくて、アイネがいなくて、私が女王になっていたなら。
魔族なんて、滅ぼしてやったのに。
それに、もし、私が勇者だったら──。
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