第5-7話 泣いている

「マナ、すごく怒ってたわね。ちょっと、からかいすぎたかしら」


 扉から不機嫌そうに出ていった、桃髪の少女を思う。からかったからというよりも、声を盗んだと自白したことで悲しんだ部分が多いだろう。


 それから私は、珍しくベビーベッドで静かに眠っている、小さな赤子の顔を見つめる。


 いつもは悪魔も泣いて逃げ出すほどの凶悪さだが、こうしていると、妖精も見惚れるほどの可愛いらしさだ。マナに似ているので、当然と言えばそうなのかもしれないが。


 桃色の頭髪に、大きな黒い瞳、腕に収まりきるくらいの小さな体。誰が見ても、可愛いと思うだろう。守ってあげたいと、そう思ってしまう。


「──やっぱり、少し無理やりにでも、マナに連れて行かせるべきだったわね」


 私は今日、死んでしまうらしい。どうやって死ぬかは聞いていないが、他でもない、大賢者れなの予言だから、疑いようもない。


 マナもアイネも、私に巻き込まれて死ぬようなことはないらしいが、アイネが私の死を見てしまう可能性は否めない。


 となると、万が一に備えて、見えないどこかに隠しておくのが、この場での最善だ。


 宿舎の部屋で隠すことができて、アイネが落ちたりする心配のない場所。赤子には魔法は極めて効きにくいため、魔力探知で少し探ったくらいでは見つからないだろう。


「確か、あかりの部屋にタンスみたいなのがあったわね」


 アイネを抱き上げて、マナの部屋に置かれた合鍵を使い、あかり(朱音)の部屋を開ける。もちろん、彼がいない間、部屋はいつでも開けていいと了承を得ているため、決して不法侵入ではない。


「よいしょっと……」


 片腕でアイネを抱えつつ、タンスを開けると、そこには黒いワンピースが一着だけ、ハンガーにかけられていた。細かく切り刻んでから、無理やり繋ぎ合わせたような、つぎはぎだらけのそれは、明らかにサイズが小さく、私はともかく、あかりには着れそうにない。


「何か大事なものなのかしら」


 考えたところで分かるはずもなく、疑問を振り払い、タンスにアイネを置いてみて、中に入ることを確認する。


「今日は本当によく眠るわね。まるで、分かってるみたい」


 泣かれでもしたら、泣き止ませるのが大変だ。それに、見つかってしまう。まさか、階段から落ちたり、どこかで転んで頭をぶつけて死ぬわけでもないだろうし、間違いなく、誰かがこの宿舎に来て、私は殺されるのだ。そう、誰かが。


「……やっぱり、怖いわね」


 私は死ぬ。今日、ここで。死ぬとはどういう感じなのか、想像もつかない。当然だが。


 血を流して死ぬのか、焼かれて死ぬのか、はたまた、生き埋めにされるのか、何かの病気で、ということは考えにくい。あるいは、昔のように、折檻を受けて、死ぬのか。


 私は、右腕を強く握り、目を瞑って、押し寄せる恐怖に耐える。


 彼も、こんな恐怖の中で亡くなったのだろうか。


「──あたしがどうして今まで願いを使わなかったのか、やっと分かった気がするわ」


 昔は何か、別の目的があったような気がする。


 しかし、それはきっと、忘れてしまうくらいのことだったのだ。あるいは、それを上回るくらい、大切なものが、私にもできたのかもしれない。


 今の私にとって、最も大切なのは、マナとアイネとあかりが、幸せな未来を築いていくこと。だから、今日、最期の日に何を願うかは、もう決まっている。


 元々、願いについて、調べてはいたのだ。そのについても、十分、理解している。大きな魔法に伴う代償には、色々な種類があるが、それらに共通していることがある。


 どんな代償も、願いを使う本人にしか作用しない。だから、今の私にはなんでも叶えられる。どうせ死ぬのだから。


 少しうつむいた先で、アイネの顔が目に入る。その顔を見ているだけで、私は十分、幸せだ。


 考えられなかったような平穏な日々。


 もったいないくらいの友愛。


 一生では返しきれないくらいの大恩。


 たとえ、これが普通なのだとしても、私にとっては、そのすべてが特別で、かけがえのないものだった。


 初めてできた友だちとの距離感なんて、ろくに分からなかったけれど。それでも、人とは違う私を、彼らは受け入れてくれた。


 そんな日々が辛くて、何度も、逃げ出したかった。


 でも、それ以上に、この日々を守りたいと、そう思った。


 なのに。


「まだ、死にたくない……!」

 そう身勝手に願う、自分がいた。どんな願いでも叶うのだから、私を助けてほしいと、願わずにはいられなかった。そんなこと、願ってはいけないのに。


 何もできず、何者にもなれず、何も持たないまま。何もないまま終わるのが、死ぬよりも怖かった。


 何のために、私は生まれて、生きてきたのだろう。


 私は、弱い。そして、その弱さが周りの人々を傷つける。幾度となく、感じてきたことだ。


 でも、もし今、私が運命に逆らったならば、きっとその代償は、目の前の小さな命だ。彼女を大切に想っている限り、それは十分、私への代償となりうる。


 ──できるはずがない。


 私はどこまでも欲張りで、自分勝手だった。だから、最期くらいは、ちゃんと、恩返しがしたいとそう思った。


「お願い。今度こそ、私の大切な人たちを──アイネを、守って」


 手を組み、祈りを捧げる。


 体の芯から熱が湧いてくる。じんわりと、温かい熱が全身に広がって、優しい風が吹く。


 願いが聞き届けられたのだと、本能が理解した。


 いまだ眠る、アイネの頭をそっと撫で、洋服棚に隠す。


「いい子にしてるのよ」


 ──まもなくして、宿舎の扉が吹き飛ばされる音がし、私は椅子を持って、階段の方へと向かう。全身の震えを誤魔化して、椅子を強く握りしめる。


 私は勇者だ。そして、私を殺せる相手は、ただ一人。分かってはいた。



 それと、受け入れられるかどうかは、別の話だ。



 階段が軋む音を聞きながら、その上で椅子を構えて待つ。やがて、手の届く範囲まで上がってきたのを確認し、思いきり振り下ろそうとして──思い止まる。


 いや、止まってしまった。


 視線の先には、私より背の低い影があった。その影は、黒い瞳に艶やかな黒髪を持っていて、顔立ちは、今は亡き魔王そっくりで──、


「ユタ……どうして」

「決まっておろう? 貴様が、勇者だからだ」


 椅子が音を立てて床に落ちる。──しまった、と思うと同時に、肩口から斜めに、ざっくりと真剣で切られ──、


「うぎゃあああっ!!」


 椅子が落ちるその音で、アイネが目を覚ました。赤子の眠りを妨げるなど、どんな理由があっても許されることではない。


 だが、一番最悪なのは、その声が、ユタにアイネの存在と、その居場所を知らせていることだ。


 そんな風に思考しながら、私の体は床へと倒れる。──遅れて、痛みがやってきた。


「あああああっ──!!」

「ぎゃあああ!」

「赤子──? ふむ、嫌な予感がするな。ついでに殺してしまおう──」


 そう言って、歩き出そうとするユタの足を、痛みで震える手で掴む。


「やめ、て……」

「まだ生きているのか。さすがは余の姉だ。──もっとも、貴様には余の姉を名乗れるほどの強さもないがな。もう一人の姉とは違って」


 ユタを掴む腕に、剣が貫通して、引き抜かれる。


「ああああっ!!」


 剣の冷たさを内側で感じ、その違和感と恐怖と、剣が引き抜かれる痛みに、血が凍てつく。直後、血が沸くような熱に襲われ、思わず叫び声を上げる。


「ぎゃああっ、うぎゃああああっ!」


 泣き声の主に、悲鳴を聞かせてはならないと、歯を食いしばり、言い聞かせる。


 大丈夫だ。こんな痛み、慣れている。散々、受けてきた痛みだ。むしろ、懐かしいくらい──、


「いい加減離せ」

「っ──!」


 情けも容赦もかけられず、手首が切り落とされる。歯が割れそうなくらい、力を込めて、耐える。


「やめなさい……」


 お腹に力を入れて、震える声を酷使して、話しかけると、驚いた様子でこちらを振り返った。


「ふむ。やはり、魔王の血を引くものは、普通の魔族よりも生命力に恵まれているようだな」

「殺さ……ない、で……」

「母親でもあるまいに。だが、そんなに思い入れのある幼子を、ただで殺してしまうのも勿体ない。いい加減、普通の殺しには退屈していたところだ」


 ──違う。そうではない。これ以上、殺人を犯してほしくないのだ。ユタに。私の弟に。


 そう伝える言葉が、出てこない。かすかな声では、ユタの独り言でかき消されてしまう。


「どうしたものか。拷問というのも、地味でつまらぬしな。悲鳴に興味があるわけでもあるまいし──」

「ゅぁ……ユタ……」


 繰り返し名前を呼ぶと、やっと、ユタは私を見下ろす。


「人を、生き物を……そんな風に、殺しちゃ……ダメよ……」


 ユタは。


「──何を言っている? 今は戦時だぞ。殺した分だけ、旧魔族陣営の成果となるのだから、多く殺すに越したことはないだろう?」

「ちが……」

「ふむ、なるほどな。──余を洗脳しようと思ったか。さすがは勇者。だが、その手には乗らぬ」


 剣先が、背中から骨を砕き、臓器を侵し、皮膚を突き破る。視界が真っ白に燃えるほどの熱に、肺は血液で満たされ、叫ぶことすらままならない。


「ごぶっ──」


 血液が、熱が、命が溢れていく。死にたくないと願う。何もできない無力感と喪失感に、視界が涙で遮られる。綺麗事なんて、とても言っていられない。


 死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない──。


「──泣いているのか?」


 すると、ユタは屈んで、私の頭を撫でた。


「泣いている女子には優しくしろと、師匠に言われたのだ。だから、よしよし」


 痛い、熱い、寒い、死にたくない。それ以外のことは何も考えられない。


 視界が閉じていく。瞼が開いているのか閉じているのかさえ分からないまま、ただ、景色が遠く、暗くなっていく。何も分からなくなっていく。


「うぎゃあああっ!」


 ああ、アイネが、泣いている。早く、泣き止ませてあげないと──。

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