第4-8話 言えない
「あのときは、本当に悪かったと思ってるよ。僕から一方的に別れたときも、愛は僕に、何も聞かなかったもんね。それに、まなちゃんのこともあるし」
──やはり、あかねには気づかれていた。
以前、彼から、別れを告げられたとき。私は彼に、その理由を聞かなかった。何か理由があって、どうしても言えないのだと分かっていたから。しかし、もっと早く聞いておけばよかったと、そうも思った。
それに、まなは。彼女は、私が何も聞かなかったから、一人で頑張って、頑張りすぎて、誰にも頼ることができなくて、倒れた。
だから、もう、後悔したくない。
「氷像のこと、なんで知ってたの?」
「言えない」
真っ直ぐな目で、迷いなく、あかねは答えた。その返答に強い意志を感じて、私の方が動揺させられる。
「じゃあ、呪いって?」
「それも、言えない」
指輪に続くサプライズ、というわけではないだろう。まなのことを隠しているわけでもなさそうだ。
「そんなに、私のことが信じられないの?」
「信じてるよ。愛してるから」
「もう、騙されない」
嘘ではないのだろう。でも、彼がいかにずるい人かということを、私はよく知っている。彼から囁かれる愛の、重みくらいは分かる。
「全部言わないと、僕のこと、信じられない?」
「ううん、自信はあるよ。あかねが、私のこと、とっても、愛してくれてるって」
「え……。あ、そう、なんだ……」
彼はさっと横を向いて、手で顔の下半分を隠す。
「──ん? なあに、その反応?」
「いや別に」
「ちゃんと目を見て話して」
「分かったよ。分かったから、ちょっと待って」
「やだ、待てない」
顔を覆っている手を引き剥がすと、あかねの顔は、誰が見ても分かるくらいに、照れの色で染まっていた。
「なんでそこで照れるの」
「照れてない」
「あかねって、本当に動揺すると、口数が少なくなるんだね」
「そんなことない」
「じゃあ、こっち見て」
「嫌だよめんどくさい」
「いいもん、面倒で。面倒なところも、好きでしょ?」
「そうだけど、なんでそんなに自信満々なのさ……」
「それで、言う気になった?」
「それは、言えない」
「どうして?」
「──大好きだから。めんどくさいし、しつこいし、鬱陶しいけど」
「だって、隠しててもいいことにならないんだもん」
「言ったからって、どうにもならない」
「私を誰だと思ってるの?」
「愛でも、無理だよ」
「言ってみなくちゃ分からないよ。ねえ、教えて──」
「言わなくても! ……分かるんだよ」
声が震えて、漆黒の瞳から、涙が一筋、流れた。
私が驚きを表すと、あかねはそれを、慌てて拭い、私に掴まれたままの手を、額に当てる。
──泣かせてしまった。
「ごめん……。本当に、ごめん……」
「謝らないで、私が悪いんだから。──だから、どうして泣いてるのか、教えて。怒ってもいいから。嫌いになってもいいから。もう、同じことで、あなたを、傷つけたくないから」
彼が何を考えているのか、分からない。分かってやれない自分が嫌になる。そうして、知らず知らずのうちに、私は彼を傷つけてしまった。
でも、どうして傷ついているのか分からない。知らないままでは、また同じように、無意識に彼を傷つけてしまうかもしれない。
だから、私はさらに傷口を広げる覚悟をする。
「……君には、分からないかも、しれないけど」
余計な口を挟まずに、ただ、黙って聞いた。優しい彼の、気遣いのこもった、本心を。
自分を傷つけてまで、馬鹿な私のために打ち明けてくれた、思いの丈を。
「僕だって、本当は全部、打ち明けたい」
「でも、無理なんだ。どうしても、言えないんだよ」
「愛でもどうにもならないことを、僕がどうにかできるわけがないんだから」
「意地悪で言わないわけじゃない」
「僕は、愛のことを、本当に愛してる。大好きだし、世界で一番、信じてる」
「本当に、信じてる。信じてるけど、言えない」
「それが、愛を傷つけるって、分かってるのに」
「隠し事なんて、もうしたくないんだよ」
「愛には、全部、知っててほしい」
「もう、愛を、裏切ったり、騙したり、誤魔化したりしたくない」
「……でも、言えないんだ。愛を傷つけたくないのに」
「そんなの、言わなきゃ分からないってことくらい、分かってる」
「何も言わずに全部察してくれ、なんて、そんなの絶対に無理だって、知ってる」
「言いたい。すっごく、言いたい。全部、言いたい。愛が聞きたい気持ちよりもずっと、愛に教えてあげたいって、そう思ってる」
「こんなので、信じてもらおう、なんて考えが、どれだけ都合がいいかも、分かってる」
「──だから、僕のことは、もう全部、忘れてほしい」
「僕のことなんて、嫌いになってほしい」
「僕と一緒にいようとすればするほど、愛が不幸になるから」
「それが分かってるのに、突き放しきれなくて、本当にごめん」
「あの日、もっと、ちゃんと、振ってあげないと、愛が可哀想だって、分かってたのに」
「君が好きってだけじゃ、どうにもならないって、知ってたのに」
「いつか、こんな日が来るって、知ってたのに」
「それでも、君を選んだりして、本当に、ごめんなさい……」
「君が大好きだから」
「愛してしまって、ごめんなさい」
「どうしても、忘れられなくて」
「君しか信じられなくて」
「だから、ずっと、愛の側にいたい」
「でも、君の幸せを、本当に願うなら、僕は君を好きになっちゃいけなかったんだ」
「君だけは、愛しちゃダメだったんだ」
「ごめん。こんなこと言われても困るよね」
「でも、僕には、君の隣にいる資格がない」
「できるなら、今度は、君の方から、振ってほしい」
「結婚する前に言えなくて、ごめん」
「子どもができる前に言えなくて、ごめん」
「その前に言わなきゃいけないって、分かってたのに」
「怖くて、言えなかった。本当に、僕は、ダメなやつなんだ」
「愛の優しさに甘えて」
「やらなきゃいけないことを先伸ばしにして」
「愛が傷つくのを怖がって」
「余計に愛を傷つけた」
「本当に、ごめんなさい」
「愛と出会えたことだけが、僕の唯一の救いだったんだ」
「僕の人生で、たった一つだけ」
「──一つも、いいことがあった」
「君がこの世界にいてくれたことだけが、僕にとって、幸せだったんだ」
「生まれてきてよかったって、初めて、本気でそう思えた」
「一生、大切にしたい」
「僕がもらった分の何倍も、幸せにしてあげたい」
「君さえいれば、僕は何があっても、この先を生きていける」
「──なのに」
「どうして、僕は、朱里を忘れられないんだよ」
「どうして、僕は、愛に隠し事の一つも上手くできないんだよ」
「どうして、僕は、こんなに傷ついてるんだよ。一番、辛いのは、愛の方なのに」
「なんで、君を、幸せにできないんだ……っ!!」
そうして、あかねは、手を額に当てたまま、さらに顔を下げる。それが、顔を隠したいからだということに、今さら気がつく。
──何を言ってるの? わけが分からないよ。そんなの、むしろ、私が知りたい。
そう済ませることは、簡単だった。現に彼も、そういう答えを期待していたのだろう。
それなのに。
こんなにも彼が苦しんでいることも知らなかったくせに。
こんなにも彼が私を愛しているということも知らなかったくせに。
彼が私を愛している以上に、彼を愛せる自信なんてないくせに。
本当に彼を思うなら、ここで振ってあげないといけなかったのに。
忘れてあげないといけなかったのに。
──彼が側にいないなんて、考えられなかった。
言いたくないことはあっても、言えないことなんて、ないから。
言えなくて苦しんだことなんて、本当の意味ではきっと、ないから。
言いたいなら言えばいいのにと、心の底では、そう思ってしまうから。
──本当に、私は彼を、分かろうとしていたのかと、そう思ってしまうくらいに。
私は彼が何を言いたかったのか、本心ではきっと、分からなかったのだと思う。
だから、かける言葉なんて、ろくに見つけられなくて。
彼の気持ちなんて、本当は、少しも分からないくせに、
「辛かったね」
そう言ってあげることしかできなかった。
そう言うと、あかねは堰を切ったように、泣き出した。
ひとしきり泣いて、最後にあかねは、
「ちゃんと話を聞いて、全部受け止めようとしてくれて、ありがとう」
と、とびきりの、作り笑いを浮かべた。
──彼にはきっと、ここまで分かっていたのだろう。
打ち明けたら、私が困ることも。
言ったところで、肝心の部分には触れられないから、私が理解できないだろうことも。
それでも、私が醜く、しぶとく、執念深く、彼を理解しようと努めることも。
──自分の過ちに気がついて、それを深く、恥じるであろうことも。
「これからも一緒にいてよ、愛」
それは、精一杯の譲歩だったのだろう。
彼はきっと、私と一緒にいたくなかったはずだ。
それでも、私が彼を、無理やり諦めさせたのだ。
──やっと、どれだけ自分が、酷なことをしていたのか、気づかされた。
彼が私に、「自分のことばかり」だと、そう言った意味が、ようやく少し、理解できたような気がした。
「あなたが笑ってくれるなら、私はずっと一緒にいてあげる。なんでも許してあげる。誰に復讐したっていい。あなたが幸せなら、私も幸せだから」
「笑顔で復讐、か。──それは、今の僕には、もう、できないよ。君を愛しすぎてる」
「私が身体で稼ぐような女になったら、嫌いになってくれる?」
「むしろ、それを想像して興奮しちゃうね」
「馬鹿」
「──ごめん。やっぱり、正気じゃいられないと思う」
「うん、知ってる」
「僕が、動物園って言ったこと、まだ怒ってる?」
「とってもいい例えだなって思った」
「ははっ、僕もそう思った」
「私が全部、演技だって言ったこと、怒ってる?」
「怒ってはないけど、すっごく刺さった。オーバーキルだね」
「死体は蹴るものだよ」
「その倫理観、どこで身につけたの??」
「動物園」
「……壊したいって言ったこと、どう思ってる」
「よく、分かんない。きっと私には、一生、分かってあげられないんだろうなって」
「そうだろうね。──それに、分かってほしくない」
「聞かない方がいい?」
「うん。聞かないでくれると、助かる、かな。……ごめん」
「そんなに謝らないで。嫌なことは、もう聞かない。だって、あなたを、信じてるから」
「……やめてよ。君が辛いと、僕も辛いから」
「私は辛くないよ。強がりでもない。──でも、寂しがりなの。だから、あかねがいないと、きっと私はダメになっちゃう」
「僕がいなくても大丈夫だよ。愛なら」
「ううん。あなたが見てくれてるから、頑張れてるだけだもん。絶対、無理」
「大丈夫、大丈夫」
自分の方が傷ついているだろうに、こんなときでも、あかねは私を励まそうとする。それではダメだと、私は彼に尋ねる。
「私にどうしてほしい?」
「思いっきり振って」
「無理。それ以外で」
「──僕が君を愛してるってことを、分かっててほしい」
「よく分かりました。だから、わがままも言って?」
「……じゃあ、もっと、頼ってほしい」
「えー? 頼ってるつもりなのに」
「僕がいるだけでいいなんて、そんなこと、言わないでほしい」
「どうして?」
「いることしかできない、みたいじゃん。そんなつもりがなくてもさ」
「──そっか。ごめんね、そんな風に思わせて」
「ううん。僕こそ、僕の我が儘に付き合わせて、ごめん」
「私ね。あなたと、まなさんと、この子さえいてくれれば、それだけで、とっても幸せ」
「うん、知ってる」
「でも、復讐に捕らわれたら、あなたの心がどこかに行っちゃうような気がして、とても、怖い」
「──きっと、そうなるだろうね。朱里を生き返らせたら、僕は、僕のままじゃいられない。最悪、君への愛を、忘れるかもしれない」
「それでもやっぱり、復讐したい?」
口を開きかけるあかねの顔を見て、私は付け加える。
「本当のことを言って」
その言葉に、あかねは出かけた言葉を引っ込めて、別の言葉を取り出す。
「僕が君に本心を打ち明けるのは、きっと、今日が最後になる。君への愛以外のすべてが、僕にとっては嘘だから。──君を、傷つけるのが、怖いから」
「うん。あなたがこんなにも愛してくれてるって、とってもよく分かった。だから、私は、今日のことを、絶対に忘れない」
彼は私を傷つける覚悟を。
私は彼の心を殺す決心を。
互いの愛だけを信じて。
それから、彼は深く息を吸って、こう告げた。
「君を愛するほどに、僕は朱里を忘れられなくなる。復讐してやりたいって、強く思う。だから僕は、君といるのが、辛いよ」
──私が彼の手を離すと、彼は「顔を洗ってくる」と言って、洗面所へと向かった。
私は、穴の開いたキャンバスと折れた鉛筆、壊れたイーゼルを元に戻し、再び、まなの寝顔をスケッチしながら、ぼんやり考える。
きっと、私が城に頼りたいと常々思っていることも、見透かしていたのだろう。
蓄えがあっても、先々の不安が押し寄せてきて、どうしても、安心できないから。
分からないことばかりだ。本にも書いてあるが、それだけがすべてじゃない。むしろ、役に立たないことの方が多い。
それでも、私の方から縁を切ったのだ。私がどうにかすることはできない。
──そんな心情を、余すことなく理解した上で、彼は私に、「城との仲直り」を提案したのだろう。
それなのに、ただ一言、「あかねが側にいてくれるから、お城に頼らなくても大丈夫」と、言ってあげることすらできなかった。
信じているなんて、口先だけなのかもしれない。
そっと、指輪の表面を撫でる。
私の彼への愛は、彼ほど本物でも、磨かれてもいないのかもしれない。
無意識のうちに、十枚ほど描いていたまなの絵を、時空の歪みに収納する。
そうしてやっと、あかねが戻ってきた。
「どこにも行かないで」
気づくと、私はそう言っていた。
「──うん、どこにも行かない」
そうして、彼に頭を撫でられて、抱きしめられる。それだけで、とても、安心できる。
思えば、このときから、私は自分が思う以上に、自分のことで手一杯だったのだろう。
だから、黒瞳の揺らぎには、気づかなかったのだ。
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