第3-19話 ただ、それだけのために。
階下から、声が聞こえる。いつかのように、二人で何か話しているらしい。
「何──て──?」
「え──覚え──な─」
「──唱? なん──?」
「封──」
「ア──トエ──封印──に使──」
「──もし──に──」
詠唱? 封印? 一体、何の話だろうか。
「──緒に──?」
「どう──?」
「ひ──すら、唱え──」
盗み聞きはよくないと、頭を振って、寝ることにした。
***
ベルセルリアの依頼で稼いだお金の、一部をあかねのお小遣いに回し、あとは貯金する。大学に行かせることも考えると、そんなには渡せない。魔術大会での臨時収入の分、少し多めに渡したが。
なお、今はちょうど、入金されたばかりということもあって、国公立高校の三年間の学費一人分くらいの貯金がある。だが、魔族が経営しているとなると、二倍くらいの費用が必要になってくるため、そうもいかない。
とはいえ、国公立の高校に、城から抜け出した私たち二人が入学できたとも思えない。となれば、学費には目を瞑るしかないが、これからも、今までのように上手く稼げるとは限らない。諸々の費用も考慮すると、やはり、厳しい状況に変わりはない。
私としては、ベルにはもっと暴れてほしいところだが、あかねは嫌がるだろう。とはいえ、今度、同じようなことがあっても、私は怒りを抑えられるだろうか。──とにかく幼稚すぎて、話にならないというのが、正直なところだ。
自分が意外と、忍耐力のない人間であることを思い知らされた一件だった。まなのように、軽く流せるようになれればいいのだが。
そうして、話は冒頭に戻り、後期が開始し、数日が経った今日。なんとあかねが、最高級の分厚い牛肉──カルジャス牛を一枚、私にと買ってきた。今月渡した分をすべてはたいても、到底買えない金額だ。
となれば、ただでさえ少ないお小遣いを健気に貯金して、それを崩して買ってきたのだろう。少し、勿体ないような気もするが、あかねのお金だ。彼のしたいようにすればいい。
「ありがとうございます。それで、何のご機嫌取りですか?」
「速攻バレた! ……愛、なんでも言うこと聞いてくれるって言ったの、覚えてる?」
──嫌な予感がする。ふと、夢のことが思い出された。
まなのあれが、ちょっとした幸せだとするならば、あかねのこれは──いや、考えるのはよそう。杞憂かもしれないし。
「言ったのはまなさんですが。約束したのは間違いないです」
「それでさ、そのー……やっぱり、朱里のこと、忘れられなくて。いや、忘れなくちゃとは思ってるし、前みたいに、そっちばっかり優先する気もないし、まなちゃんを利用しようとかは、もう考えてないんだけど──」
真面目な話だと判断し、私は体勢を整えて、頷く。
だが、できれば、その先は聞きたくない。
「はい。分かっていますよ」
それでも、不安を笑顔で塗りつぶして、先を促す。
「うん。……それでも、どうしても、生き返らせたいんだ。もう一回だけ、方法を探して、それでも無理だったら、今度こそ、本当に諦めるから」
──何を言っているのか、分からない。
いつまでそれに囚われ続ける気なのだと、激昂したい。どうしたら、もう二度と、そんな戯れ言を口にする気がなくなるだろうか。
絶対に、許せない。
私がどれだけの思いで、家族と縁を切り、継承権を捨て、あかねを選んだか、本当に分かっているのかと、問い詰めて、分からせてやりたい。
なぜ、今になってその話を、蒸し返すのか。「諦める」と、そう言ったのに。
彼の記憶から、あの子のことを、魔法で消してやりたい。綺麗さっぱり、あの子を忘れてくれれば、それで私たちはきっと、幸せになれる。
そんな考えが浮かんでしまう自分が嫌だ。
──彼はいつも、私を選んではくれない。
彼にとっては、私よりも、あかねが──自分自身が、一番、大事なのだ。
一体、いつまで待てばいいのだろう。本当に死ぬまで待たなければならないのだろうか。それとも、永遠に、私は彼の一番になれないのだろうか。
私は、選ぶ相手を間違えたのかもしれない。
そう思ったのは、初めてだった。何があっても、彼を愛し続けられると、ずっと、本気でそう思ってきたから。
それでも、私とお腹の子を天秤にかけ、それでもなお、自分の願いの方を優先するのだから。
ああ、今、はっきりと分かった。
私は、どうにかして、彼の心を繋ぎ止めるために、子どもという枷を、彼につけたかったのだ。
──ただ、それだけのために。
「ダメならダメって、はっきり言ってくれればいいからさ」
「──」
言葉が出てこない。
自分が何を言ってしまうか分からなくて、ただただ、恐ろしい。
彼を傷つけたくない。
彼に嫌われたくない。
絶対に、あかねを生き返らせてほしくない。
でも、本心を言ったら、きっと彼は、私の知らないところで無茶をする。そして、いつか、私の側から離れていってしまうだろう。
復讐を諦めるなんて、その場しのぎの、嘘だったのだろう。
どうしても諦められない。──それが、本心に決まっている。そんなこと、初めから分かっていた。
今、こうして、私に判断を委ねているのも、全部、演技に違いない。
私には分かる。──彼の言葉は、いつも、お手本のように、綺麗すぎる。
昔と比べれば、まるで、別人のようだ。
すごく、怖い。
私が知らないところで、取り返しがつかなくなることが。
一線を越える前に、彼を止められないかもしれないことが。
彼と、一緒にいられなくなるかもしれないことが。
だから、私は、微笑んで、甘い声で、不安がる彼の手を掴んで、ただ一言、「いいですよ」と、肯定すればいい。
それが、最善の選択だ。
大丈夫。私は、強い。
私にできないことなんて、ないはずだ。
あってはならない。
「愛──?」
そのとき、扉がノックされた。あかねが鍵を開けると、そこには白髪の少女が立っていた。
片手には一枚の紙が握られていて、それが何であるかは、聞かなくても分かった。
「婚姻届、もらってきたわ。保護者印はもう押されてるから、あとはあんたたちが書くだけね」
「お、ついに来た! 僕、先に書いておくね」
「じゃあ、あたしは──」
足早に去ろうとするまなと視線が交錯する。その赤い瞳を、じっと見つめる。喉に蓋がされているように、本当のことが言えない。
同じだ。城にいたときと。私は何も変わっていない。何一つ成長できていない。榎下愛になった、あのとき、あの瞬間のまま、時が止まっている。
お願い。気づいて。
──助けて。
そのたった一言が、言葉にできない。願うばかりで、声にすらできない。
「──あかり。あんた、マナに何したの」
「え? なんで?」
だから、こうして、彼女に縋って、依存して、寄りかかる。
まなの問いかけに、あかねが私を振り返る。それでも、彼は気づかないだろう。いつもと変わらず見えるように、表面だけは取り繕っているから。
──耐えろ。
そう、自分に言い聞かせて。
「愛がどうかしたの?」
「は? ……本当に、分からないの?」
目の奥が熱い。肺が一杯になる。視界が揺らぐ。
今だけ。今だけだ。今だけ、笑ってやり過ごせばいい。それで、方法を探して、見つからなかったら終わり。見つかって、生き返ったとしても、きっと、復讐が果たされるだけだ。
──いいじゃないか。彼が好きなんだから。愛しているのだから。
彼が望みを叶えることを、心から願い、祈り、尽力すべきだ。どれだけ恨んでもいいほどの仕打ちを、彼は受けてきたのだから。
そうだろう、マナ・クレイア──私の幸せは、彼と一緒にいることで、彼が幸せであれば、それ以上などないのだから。
────パシン。
小気味いい音が鳴った。はっとして顔を上げると、そこに、振り切ったまなの腕が見えた。
まなは、片頬を赤くして放心するあかねから、彼が書いている途中の婚姻届を奪い、
「出ていきなさい」
「え……」
「今すぐ、ここから、出ていきなさい!!」
──激昂した。
呆けた顔をして、その場に留まろうとするあかねに、まなは近くにある物を、手当たり次第投げつける。それでやっと、あかねは逃げるようにして、去っていった。
「あんたもあんたよ。我慢するから、あかりが気づかないんでしょ」
「──」
瞬間、涙が零れ落ちていく。止めようとしても、溢れていく。あかねに気づかれないよう。静かに、静かに、流す。ゆっくりと息をして、嗚咽にならないよう、喉の奥の熱を逃がしていく。
まなが私の頭をそっと抱き寄せて、涙が収まるまで、ずっと頭を撫でてくれた。
──叩いたその手も痛かっただろうに。
***
ここ最近、日記を読み返していなかったと気づき、久しぶりに読み返してみて、やっと、客観的に自分を見ることができた。
どうやら、私は知らず知らずのうちに、彼への不満を、相当、溜め込んでいたらしい。
元々、自分が思ったことを言えない性格なのは、自負している。それは取り繕っていた時期の名残かもしれないし、生まれつきかもしれないし、あるいは──いや、正解は分からない。
だが、まなに言われた。我慢しすぎだと。
そう言われて、改めて考えてみると、許せないことがたくさん浮かぶのに気がついた。魔術大会、まなの件、魔王との契約、ベルセルリアのことなどなど。そして、それだけに留まらない。
まず、小うるさい。私の服装や髪型や目の下のクマに至るまで、全部指摘してくる。そのわりに、自分のこととなると、これがまた、適当なのだ。私の指摘も軽く流されるし。
それから、ティッシュの在庫が無くなったからと言って、私の部屋から勝手に使いかけの箱を持っていくのはやめてほしい。新品を自分で開けろといつも思う。
さらに、昼間、私が寝ているときに、寝ていることをいちいち確認しに来るのもムカつく。壁越しに「寝てる?」とか聞いてくると、腹が立って仕方がない。その音で起きるというのが分からないのだろうか。
それに、あれだ。醤油どこいったか知らない? と聞いてくるのもイラっとする。自慢できることではないが、私が台所を触るはずがないのだから、分かるわけがないだろう。
あと──。
***
~あとがき~
次回から、第4話です。
色々あった第3話は終了しました。
マナ様泣かせたー! やーい、やーい。
そして今回は、さらっと何人か死んだね!
あと、近況ノートの方にも書かせていただいておりますが、第4話の更新をもって、一ヶ月を目処に更新を止めます。その間はヨムヨムになります。ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。
そろそろほのぼのしそうな予感! 乞うご期待!
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