第3-16話 マナ・クレイア?
「う、くっ、はあっ……」
「母上、気を確かに」
「お母様!」
──ルスファ王国王都トレリアン、その中心部トレリアン城、その応接室にて。
疼く女王の手。王と姫は必死で呼びかける。机には一枚の紙。女王の手には印鑑。その対面には魔王。そして、王子は──ただただ、恥ずかしかった。
「──判子押すだけだろ」
「ええ、分かってる……。でも、婚姻届の、保護者印なのよ!? はあ、はあ……ぐ、あああ!」
「母上! お気を確かに!!」
「お母様、あとちょっとです!」
右手を左手で押さえるようにして、女王は少しずつ、所定の場所に判子を近づけていく。
それを見る魔王は、目を点にしていた。
この家族は、勘当した娘のこととなると、いつもこんな感じだが、外では各々、清楚な王族を演じている。とはいえ、こと、今回の件に関しては、魔王の前だというのに、取り繕うことを忘れているらしい。
「申し訳ございません。お見苦しいところをお見せしてしまい」
「──いや、一向に構わぬ。だが、こうもあっさり応じてくれるとは思わなかった」
「魔王様直々に赴かれた上、こちらの提示する条件を飲んでくださったのですから、当然です」
正直、急な訪問に、戦争でも起こしに来たのかと、皆一様に気が気でなかった。だが、蓋を開けてみれば、マナを養子に迎えてあかりと結婚させるために、あかりの方の保護者印を押してくれという話だから、却って驚きだ。ついでに、スマホも二台、返還された。
「条件と申すが、停戦の上に停戦を結んだだけではないか?」
それも間違ってはいない。
──というのも、王城を訪れた魔王は、開口一番、こう言ったのだ。
「ここに印を押せ。無論、ただでとは言わぬ。──貴様らは、魔王であるこの余に、何を求める? 今の余は機嫌がよい。なんでも申してみろ」
なんでも、と言われたら、ヘントセレナ以北の土地を全部こちらに譲れとか、人間と魔族を一つの国家に集約させるから、諸々の権利を人間の側に明け渡せとか、敗戦を宣言しろとか、やりたいことはどれだけでもある。
だが、国王エトスはこう言った。
「貴様が魔王として君臨し続ける間、決して争いを起こさぬと誓え」
「……は?」
魔王は──え、それだけ? とでも言いたげな顔をしていた。
付け加えると、今でも停戦結んでるのに、なんでまた? しかも、魔王であるこの余がなんでも言ってみろって言ってるのに、それだけなの? え? 嘘でしょ?
──みたいな動揺の仕方だった。すると、国王のエトスは魔王が持つ紙を取り上げ、女王に印鑑を持たせ、
「母上、押してください」
「え、ええ。もちろん、押せる、押せるわ──」
とまあ、こうして、今に至る。
「……俺たちは、姉さんの方から縁を切られたわけで。勘当するつもりなんて、誰にもなくて。でも、引き留めることもできなかった。あなたの養子になったと聞いたときも、それをどうにかする権利はもうなくて、ただ、見ているしかできなかった。──あの日も、皆で姉さんの宿舎に行って、話をして。城に帰った瞬間、母さんは膝から崩れ落ちた」
「くっくっくっ……気持ちは分かるがな」
エトスの独白のようなある種の愚痴に、魔王は不気味な引き笑いを浮かべ、同意した。
「そんな母さんに、モノカ姉さんが駆け寄って。兄さ──兄上は、立ったまま気絶していた。それほどまでに、姉さんは愛されていた。そして今も、愛され続けている。──表向きにはそんなこと言えませんけど」
「……仲が、良いのだな」
「はい。俺はこの家族が大好きです」
魔王の視線はもの悲しく、寂寥を湛えていた。あちらの事情にはさほど詳しくないが、たいして、こちらと変わらないようにも見える。だが、推測だけで発言するのは控えた方がいいだろう。
「はあああっ!」
「母上ー!」
「お母様ー!」
「えいっ」
さすがにこれ以上待たせるのもどうかと思い、エトスは震える拳を上から押した。瞬間、沈黙が訪れる。ゆっくり手を上げさせると、綺麗に押せていた。
「申し訳ございません。お時間を取らせてしまい」
「ああ、まったくその通りだ。次はないと思え。くっくっくっ……」
そうして、魔王カムザゲスは上機嫌な様子で去っていった。
「あ、あああぁ……!」
「お母様、立派でした。よしよし」
「マ、マナが、け、けけ、けっこ、けっこ、こ、こ……かはっ」
「はあ……」
女王に続き、国王までもがフリーズした。
トイスにしてみれば、一番上がこれで、本当にこの国は大丈夫なのかと、そう思わずにはいられない。いかに、姉に頼りきりだったのかと、いなくなってみてよく分かった。──だが、姉はもう、ここにはいないのだ。となれば、自分がしっかりするしかない。
「しっかりしろ! 兄上、母上、さっさと公務に戻れ! 二人がいなくて、誰が国を回すんだ!」
「そ、そうね……ぐすん」
「く、国、回さないとな……」
なんだ、国、回さないとなって。そんな、失恋したけど学校は行かないと、みたいな言い方。──色んなところが痛い。
「はあ……。モノカ姉さん、二人の補佐を頼む。姉さんの分の公務は俺が代わりに終わらせておく。終わったらそのまま見回りに出るから、後は頼んだ」
「ふふふっ。分かりました。お気をつけを」
部屋から出て、一足先にエレベーターで降りる。
「──それにしても、痛いな」
誰もいない密室で、独りごち、癒えることのない右目の傷を押さえた。
***
「まなさん、聞いてください!」
「何よ?」
「私、マナ・クレイアになりました。ふふん」
「養子に入ったらそうなるでしょうね」
「同姓同名ですよ! お揃いですね、愛してます」
「流れるように告白するわね……」
仕方ない。まなを見ていると愛を叫びたくなるのだから。
「まなさん」
「何?」
「呼んだだけです」
「気安く呼ばないでくれる?」
──あれ、青髪のときと反応が違う。
だが、その名前を出すことは彼女の傷に触れることになりかねない。そして、一応、ハイガルの死を悼む気持ちも、少しはある。他の面々に比べれば、本当に少しだが。
だから、文句を言いたい気持ちを、ぐっと堪えた。
「まなさん、まなさん、まなさん!」
「あんた、ますますゴールデンレトリバーみたいになったわね……」
「わんわん」
「離れなさい。調子に乗らないの」
「お二人さん、お熱いですねえ」
間に割って入ったのは、あかねだ。じゃんけんで負けたので、三人分の飲み物を買いに行かせていた。ちなみに、あかねがじゃんけんで勝ったことは一度もない。なお、私は運を味方につけるゲームで負けたことが一度もないのだが、それはさておき。
あかねの部屋で寛いでいた私たちは、彼にお礼を言い、受け取った飲み物を一口飲む。三人とも、トンビアイスシェイクだ。冷たくて甘くて美味しい。
「ラー」
不意に、そんな鳴き声を響かせて物陰から出てきたのは、ノラニャーのシーラ。モンスターであり、簡単に言えば、二足歩行のネコだ。だが、今はまなの手前、ネコのフリをして四足歩行をしている。
「あれ、シーラ、そんなところに隠れてたの?」
「ラーガブ」
「痛いっ」
あかねが手を伸ばすと、その手にシーラはガブリと噛みつく。凶暴な出迎えだが、シーラはあかねが帰ってきたから出てきたのだろう。動物女王なんて呼ばれたことがある私にも、なついていないわけではないが、やっぱり飼い主はあかねだ。
その後で、シーラは私の膝に乗ってきた。背中を一撫ですると、ごろんとお腹を見せる。こうして、あかね以外と仲良くしているところを見せつけることで、彼にやきもちを焼かせようとしているのだろう。それを、彼も理解している。
「もう、ツンデレだなあっ」
「フーッ!」
「嘘ですごめんなさい痛い!!」
調子に乗って、がりっと左腕を引っ掻かれていた。そういえば、シーラは右利きだ。だから、相手の左腕を引っ掻く。対してまなは確か、左利きだったはずだが、果たして、シェイクはどちらの手に持っていただろうかと見ると──手が小さいために、両手で持っていた。可愛い。
そうして、しばし、観察していると、まながシェイクを飲みながら、ちらちらとシーラを撫でたそうに見つめているのが分かった。
ただ、シーラはかなり攻撃的な人見知りなので、もう少し慣れるまで待った方がいいかもしれない。出会ったときに左腕を引っ掻かれているし。
「そういえばさっき、依頼確認してたんだけど。メリテル宛の依頼が来てたよ。これ」
あかねは魔王名義のスマホを取りだし、透明化を解いて差し出す。ギルドの依頼はスマホからも受けられるようになっている。
最近はメリテルの評価も上がりつつあり、直接依頼される機会も増えてきた。パーティー登録の際、パーティーメンバーの開示をしないよう設定したので、私たちがいることは知られていない。
要は、実績だけで成長してきたというわけだ。ちなみに、こういう非公開のパーティーには怖い人たちもいたりするので、依頼する際には、注意が必要だ。
「ベルセルリアと仲良くしよう! ……何これ?」
見た文字を声に出す癖のあるまなが読み上げる。
「ベルさんは、ノアのドラゴンですね。ノアは前回の内戦で人間側の領土となりましたが、長年、魔族が治めてきた土地でもあります。その中でもノア学園は世界中の期待を背負う場所なので、経営は今のところ、変わらず魔族に一任しています。そのため、人間の領土に住んではいますが、ベルさんは魔族側のドラゴンですね。つまり、依頼の報酬は魔王城から出ます」
「……へ? なんて? 日本語でよろしく?」
「日本……?」
「あかりさんが召喚される前の世界だそうですよ」
「へえ、そうなの──。ともかく、ノアは元々魔族の土地だからってことね」
「さすがまなさん、理解が早くて助かります」
ドラゴンは、魔王が生み出したモンスターだ。だが、その戦力は非常に高く、それ故、人同士の争いには一切、関与しないと、彼らの長であるチアリターナが宣言している。
ドラゴンにも派閥のようなものがあり、魔族派、人間派、それから、その他に分かれている。チアリターナはその他であり、ベルセルリアは魔族派ということになる。
「とはいえ、彼女は、無邪気かつ破天荒、そして気まぐれと、何年経っても子どものようなドラゴンですから。あまり深くは考えていないと思います。性格は、そうですね。あかりさんやれなさんに似ています」
「いや、さすがに、あれと似てるは失礼だよ」
「へー、ドラゴンにも色々いるのね──」
そのとき、地面が大きく揺れた。次いで、爆音が届いた。普通なら叫んだり、慌てたりしてもいいところだが、
「何だろう?」
「何だろうで済む揺れではありませんでしたけどね」
「爆発か何かかしら──」
三人とも動揺すらしない。慣れというやつだ。ある意味危険でもあるのだが、こうした場合の冷静な判断には助かっている。
臆する素振りなど少しも見せないまなが、外の様子をうかがうため、窓に近づいていくと──突然、窓が割れ、風で吹き飛ばされて転がった。それをあかねが受け止める。知らないうちに、触れても平気になったらしい。それは喜ばしいことだが、今はそんなことを言っている場合ではない。
「ぐるぐる……」
「大丈夫? 怪我とかない?」
「多分ね……窓から結構離れてたし、破片が刺さったりはしてないと思うわ……」
まなが目を回しながら答える。時間差で来た風で、窓は割れたらしい。あかねは割れた窓ガラスを魔法で元に戻し、開けて外を確認する。
「うわあお、すごいことになってるねえ。見て見て」
言われた通り、まなと二人で窓から外を見る。ここは都市の端であり、平原の近くにあるので、二階の窓からは平原が見渡せた。
すると、一面草地が広がっていたはずの平原に、大きなクレーターができていた。そこに、緑に見えるほど真っ黒な鱗を持つドラゴンがいた。
ドラゴンは空に向かって大きく口を開けると、火炎を放射する。天高く存在する雲が蒸発させられ、晴天と化す。そして、しばらくの後、水蒸気が再び雲となって集まり、超局所的な豪雨が降り始めた。
「まさかとは思うけれど、あれが、ベルセルリアだったりしないわよね?」
「そのまさかだよ」
「あちらの方が、炎魔竜ベルセルリアさんです」
「──ま、これ以上被害が出ないうちに行こうか」
私は外出用の服に着替え、依頼を受注し、三人で歩いて平原まで向かった。
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