第3-9話 契約破棄

「──?」


 夜中に目を覚ますと、階下から何やら話し声が聞こえてきた。


 ロビーの談話スペースで話しているようだが、何を話しているのかまでは、耳栓が邪魔して聞こえない。


 起き上がって、軋む階段を静かに降り、そっと様子をうかがうと──そこには、あかりとまながいた。何やら二人で、話し込んでいるらしい。


 その様子を静かに見守ろうとすると、あかりが、すぐに気がついて、振り向いた。


「あ、愛。起きたんだ」

「何を話していたんですか?」

「別に、大したことは話してないわ。宿題はちゃんとやってるかとか、そんな話ね」


 時計を見ると、すでに日付が変わっていた。まなは早起きなので、普段、こんな時間まで起きているとも思えないのだが──、


「たまたま寝つけなくて、ロビーでのんびりしてたら、まなちゃんに見つかっちゃって、こんな時間なのにお説教。やれやれって感じ」

「とにかく、あたしはちゃんと言ったわよ。じゃあ、そろそろ寝るわね、お休みなさい」


 そう言って、まなが一足先に部屋へと戻る。


「はいはい、おやすみー。愛はどうする?」

「私も、ふあぁ……。寝ます」

「階段で転んだりしないようにね」

「はい……」


 それからは、朝までぐっすり眠った。


***


 これまた、いつものように三人で私の部屋に集まっていると、扉がノックされた。すると、まなが代わりに出る。


「あら、ユタじゃない。どうしたの?」

「しょぼーん……」

「見るからにしょぼーんって感じね。この間のこと、気にしてるの?」


 すると、ユタはこくりと頷いた。負けたことなど今まで一度もなかったのだろう。なんとなく、彼の姿は私と重なって見える。


「それで、何の用?」

「──あかり、いる?」

「いるわよ、バダーおじさん」

「バダアアア。いや、やめてえ……?」

「ノリノリですね」

「否定はしない」


 まなの急なフリに応えたあかりは、ユタがわずかに笑みを浮かべたのを見て、満足そうにしていた。これで意外と、子どもに優しい一面もあり、喜ぶと分かっていれば、悪ノリもするのだ。普段は全然だけど。


「それで、僕に何か用かな?」

「えっと……」


 ユタはもじもじして、なかなか用件を言い出さない。傲岸ごうがん不遜ふそんのユタには珍しい態度だ。


 とはいえ、その態度が揺るぎない自信から来ていたものだとすれば納得ではあるが。


 と、そのとき、まなが尋ねる。


「何? あかりのサインでも欲しいの?」

「え? いや、全然いらねーけど」

「じゃあ、バダーが見たいの?」

「そんなわけねーだろ──」

「あ、トイレは我慢しちゃダメよ」

「ちーがーうーっ! 弟子にしてほしいのっ!」

「──だそうよ」


 さすが姉。扱いに慣れている。


「ええ、弟子ぃ? 嫌だよー」

「なんでぇ!?」

「だって、ユタくんの方が絶対、僕より強くなるから。弟子より弱い師匠とか、カッコつかないじゃん」

「今は余よりも強いじゃん」

「そりゃあ、八歳の子に勇者が負けるわけにはいかないよねえ」

「いいから早く! 強くしろって! ねえったら!」

「ええー。エトスに怒られるから嫌だよ」

「知らねーよ! 余にはカンケーねーもん!」

「敬う気持ちが足りないから、失格」

「そこをなんとか! お願いします!」


 そんなやり取りを横目に、私はお腹を撫でる。静かにしていると、たまに動きが分かるようになってきた。


 すると、まながひょこひょこ寄ってきて、床に座り、ベッドに頬杖をついて私のお腹をそっと撫でる。それから、しばらく言葉を交わしていたが、男二人のあまりのやかましさに、まなが眉間にシワを寄せる。


「あんなんで大丈夫かしら……」

「まなさんがいてくださるので、何も心配はありませんよ」

「──そう。何か欲しいものとかある?」


 そう言われたのが嬉しかったようで、まなは機嫌を良くして聞いてきた。


「ケーキが食べたいです」

「ケーキね。吐き気はもう大丈夫そう?」

「はい。おかげさまで」

「分かったわ。じゃあ、買ってきてあげる。何がいい?」


 まなに問われて、指折り数える。


「モンブランとチーズケーキ、チョコケーキ、ミルフィーユ、あと、ショートケーキを」

「……全部食べるの?」

「まなさんの分、あかりさんの分、ユタさんの分、ボーリャさんの分、それから、一応、ギルデルドの分ですね。たまの贅沢ということで、代金はこちらで持ちますから、レシートをお願いします。あ、あと、ル爺さんに、さきイカも、できればお願いします」


 すると、まなが呆れたようにため息をついた。


「あんたね……。自分の分、忘れてるわよ」

「……あ。えへへ、ザッハトルテでお願いします。それから、傘、持っていった方がいいですよ」

「ご忠告ありがとう。ザッハトルテ、ザッハトルテ……?」


 まなは、ザッハトルテ、と繰り返し口内で呟きながら出かけていった。ザッハトルテを知らないのかもしれない。メモはとっていたが、少し心配だ。


 ──ちなみに、この間のことは、すっかり、忘れているらしい。それは、一見、いいようにも見えるが、自分の心の傷を忘れてしまうというのは、その実、とても危険なのではないだろうか。そう私は考えていた。


「お願いします、師匠!」

「師匠──。いやいやいや、そんな響きに騙されないから!」

「雑用でもなんでもするから! だから、弟子にしてください!」

「──ほう、なんでも、ねえ」


 嫌な思考を追い出すため、ことの成り行きを見守っていると、あかりの目の色が、一瞬にして変わった。


「よし、ユタくん。お父さんに伝言を頼みたい」

「そしたら弟子にしてくれる!?」

「うむ、良かろう」

「おおー! なんて伝えたらいい?」

「契約を破棄してほしい、って言っておいて」


 と、魔王への伝言を頼む。願いは諦めると、啖呵たんかを切っておきながら、魔王に契約を破棄するとは言い出せずにいたらしい。相変わらずの小心者だ。


「──はい、伝えたよ!」

「いや、速くない?」


 念話を使えば一瞬で伝えることも可能だろうが、それにしても、仕事が速い。


 とはいえ、事情を知らないユタに伝言させるなんて──と考えるよりも先に、階段を上ってくる足音が聞こえ始めた。


「あ、言い忘れてたけど、さっきお父様、僕の部屋でおばあちゃんと話してたから」


 なるほど、つまり、伝言を頼むまでもなく、魔王はここの一階にいたというわけだ。──どおりで、速いはずだ。


「……君、今日限りで破門ね!」

「なんで!? ねーえー!」


 あかりの不当解雇に抗議するユタだったが、魔王の姿が見えたことにより、すっかり大人しくなる。魔王はそんなユタを階下に戻し、部屋の鍵を閉めてあかりを椅子に座らせる。それから、腕を組んで、


「そういう大事なことは、直接言いに来い!」

「もお、そうやってすぐ怒るからあ……すみません、ごめんなさい、めんごます」


 魔王など、彼にとっては大した脅威でもない。それがありありと態度に表れている。まだエトスの方が敬われていた、というのがなんとも悲しい話だ。まあ、こんな魔王のことなんてどうでもいいが。


 ──それにしても、今日は人の出入りが多いなと思いつつ、私は雨の降り出しそうな重い空を見つめた。

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