第2-12話 体調不良の原因
それからも、しばらく吐き気は続いた。むしろ、最初のときよりも酷くなったような気がする。体がだるく、朝、起き上がるのですら辛い。幸い、今日は休みだが、明日からまた、学校が始まる。
「うえぇ……。まなさんんん……!」
「はいはい。ほら、飴ちゃんよ。舐めなさい」
何もないのに、最近、泣けて泣けて仕方がない。ただ、柑橘系の飴を舐めると吐き気が収まることは分かった。
とはいえ、空腹になれば吐きそうになるし、満腹になっても吐きそうになるし。あかりの化粧の臭いがダメで、眼前で吐きそうになるし。
そういうわけで、あかりは追い出した。最近は、同じ部屋にいるだけで気持ち悪くなってくる。存在がだめとか、そういうわけではない。と思う。
むしろ、原因なんて、一つしか思い当たらない。
「もう嫌だあぁ……」
「よしよし」
まなに抱きついて、その匂いを肺一杯に吸い込む。この匂いだけは受け入れられるということに気がついた。最近気がついたのだが、これは私が使っている洗髪料と同じ匂いだ。
──それでも、やはり、気持ち悪い。起き上がれないくらいに、気持ち悪い。そして、すごく、眠い。一度寝ると、夕方になっていたりする。
この間など、学校に着いてすぐ、少しだけと思って寝たのに、気がついたら放課後だった。あかりとまなが起こしてくれたらしいが、記憶にすらなかった。
「それで、来たの?」
主語のないその問いかけに、私はゆっくり、頭を左右に振る。
「調べてきなさい」
「嫌です」
「現実を受け入れなさい」
「嫌です」
「あたし、部屋に帰るわよ?」
「嫌です……ぴゃああん」
「ほら、早く行ってらっしゃい」
まなに
「もう、どうしたらいいんですか……うっ」
「ほら、飴ちゃん」
まなの手で、飴が口に押し込まれる。そして、それを、口の中でころころと転がす。まなの味がしないだろうかなどと、馬鹿なことを考えながら。
「よく知らないけれど、対策はしてたんでしょ?」
私はさっと目をそらす。先ほどから修飾語が足りていないが、私たちの間では、何を言いたいのかは十分に通じる。
「……は!?」
「私だって、一つや二つ……で済むかどうかは分かりませんが、
「バッッッカじゃないの!?」
「ぴゃあああん、優しくしてくださいいぃ……!」
「あんたがそこまで馬鹿だとは思わなかったわ」
「うっ、ううっ……だってぇ……」
「だって、じゃありません」
私が痛くもない額を押さえて泣きわめいていると、まなはため息をついて、ベッドの縁に腰かけた。そんな彼女の袖を、私は掴んで離さないようにする。腕だと拒絶されるのが怖いので、妥協して袖だ。
そんな私に、まなが何か言いかけて──、隣の部屋から壁越しにノックが聞こえた。
「ちょっとまなちゃん、あんまりうちの
「いじめてないわよ、すっこんでなさい。出かけてきたら? 邪魔だから」
「当たりが強い!」
二人は壁越しに会話をする。壁があるのに会話ができてしまうとは、さすが、我らが宿舎、メティス。木刀で崩れる壁などないに等しい。
とはいえ、私が、あかりがいると都合が悪いと感じているのは事実だ。まなもそれを察しているのだろう。彼女の行動の大半が優しさから来るものだということは、この数日で嫌というほど、思い知らされた。トイス──弟と同じくらいに優しい。
「あかりさん、どっか行っててください。余計に体調が悪くなります。うっ……」
「いや、めちゃくちゃ心配なんだけど。ほんとに大丈夫? ほんとに?」
「その声ですら、吐き気がします」
「思ったより元気そうだねっ! じゃ、傷ついたから出かけてくるっ!」
そう言ってあかりは、少し暑くなってきた外へと繰り出した。それを窓から見送って、まなは切り出す。
「あんた、妊娠したって、あかりに言わなくていいの?」
その言葉に心臓がドキッと跳ねるのを感じる。誰かに聞かれているかもしれないという心配はない。ただ、まだ実感が湧かないため、いざ言葉として聞くと、事の重大さを無視できなくなるのだろう。
──すでに、私たちの婚約は世界中に知れ渡っている。
見方によっては、新婚旅行だが、まあ、他国への説明が主であり、他の王族の例に違わず、あまり浮き足立つ感じでもなかった。王族を外れたことへの説明もかねており、また、今までお世話になってきたのだから、説明しないわけにはいかなかったというだけの話だ。
それでも、二十歳を過ぎるまで、婚姻には保護者の許可がいるため、結婚はしばらくできそうもない。
だというのに──私は一体、何をやっているのだろうか。
「あかりさんには言いたくありません」
「なんでよ?」
「嫌われたくないんです。あかりさんは平気でも、私はあかりさんがいないと生きていけないんです……っ」
「あーもう……ほら、泣かなくてもいいでしょ。よしよし」
まなの手は何度も私の頭を
「どうしたらいいんですか……」
「大丈夫よ。なんとかなるわ」
「なんとかってなんですか……!」
「そうね……あたしもよく知らないから、ここで話してても何の解決にもならないわ。とりあえず、ユタのお母さんに聞いてみましょう」
「──ダメです」
「なんで? 知られたくないとか?」
私の無駄に聡明な頭脳がその提案を否定する。顔は涙でぐしょぐしょで、前が見えないくらいだし、胸中は自分でもわけが分からないほどに荒れ狂っているが、そういうところだけはいやに頭が回る。
「ユタさんは次期魔王であり、そのお母様は魔王の正妻です。私がこんな状態だと魔王に知れたら、いつ戦争が起こるか……」
その上、まなの安全も保証できない。今の私ではローウェルはおろか、クロスタにすら負ける可能性がある。
ちなみに、ユタ──ユタザバンエというのは、この宿舎に住む、八歳の少年であり、小学二年生。一階の二人部屋で母親と暮らしており、次期魔王と評される人物だ。
とはいえ、この宿舎の建物自体、見える人と見えない人がいるくらいに、外部に対するセキュリティは非常に高く、幼いとはいえ魔王の子どもがいるのも、不思議ではない。私たちが一つ屋根の下、と考えると、セキュリティも何もあったものではないとも思うが。
そういえば、私はまなが魔王の娘であることも知っていた。なのに、なぜ、利用しようとしているだけの彼女に、妊娠しているかもしれないと、話したのだろうか。
──決まっている。それだけ、彼女を信頼しているからだ。利用するためだけに、なんて、割りきろうと思っても割りきれないくらいに、私は彼女が大好きだった。
「そういう頭は働くのね、面倒なことに。……じゃあ、名前は伏せて、友だちの話ってことで聞いてくるわ。ほとんど知らない人だけれど、人の親ってことに変わりはないから」
──友だち? ああ、そういう設定ということか。
私は彼女を想っているが、だからといって、彼女が同様に私を好いてくれている、なんて、思い上がってはいけない。
「しかし、クレイアさんにこれ以上ご迷惑をおかけするわけには──」
「これ以上面倒を増やされたところで、大して変わらないわよ。大人しく待ってなさい」
それからしばらくして、まながメモ帳を片手に戻ってきた。そして、いつものように、淡々と、こう言った。
「どう考えてもおろした方がいい、って言ってたわ。そんなに長期間、体調不良が続いてるなら、判断は早い方がいい、最悪、おろせなくなるから、って。ユタのお母さんも、生まれつき体が弱かったんだけど、マナと同じくらいの歳のときに上の子を授かったらしくて。やっぱり、想像よりずっと大変だったそうよ」
「──おろすことだけは、絶対にありません。元々、こうなったら、私一人でも育てようと思っていました」
そう、その決意は、ずっと固いものである、はずだった。
「その割には覚悟が足りてないんじゃない?」
「だって、こんなに辛いなんて、聞いてません……!」
「まあ、自業自得ね」
「返す言葉も見つかりません……」
大変なことになるのは分かっていた。いや、ここまでとは思っていなかったが、気をつけなければとは思っていた。それなのに、このザマだ。
産み育てる責任や覚悟、金銭面などの現実的な問題、それから、この子の将来など、考えることは多岐に渡る。まだ高校生の私たちが育てていくには、何もかもが足りていない。
それでも、弱気ではいられない。私は、「私」なのだから。何があっても、笑顔で、軽々とやってのけなければ。
私は、今までの弱気と涙が嘘に思えてしまうくらいの、いつも通りの笑顔を浮かべる。
「大丈夫です。私の才能を生かせば、今の時代、動画を上げればどれだけでも稼げます。歌でも歌えば……そういえば、歌えませんでした」
「まあ、歌がなくても、元々知名度も人気も高いし、できなくはなさそうね」
「資格を取るのもいいかもしれません。持っているだけで引く手あまたになるようなものを、いくつか取ってみましょうか」
「いいわね。あたしも勉強に付き合うわ」
「もっと本格的に冒険者業に精を出してもいいかもしれませんね」
「そうね。あんた強いから、すぐに活躍できるようになるかもしれないわね」
私はまなの顔を見つめる。
彼女が何を考えているのか、分からない。
そうして私が口を閉じると、代わりにまなが口を開く。
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