第2-5話 気づいてくれる人

 ──気持ち悪い。


「うえ……」


 昨日の晩御飯をトイレに戻した。今朝は食欲もあまりない。必死に原因を考えていたが、何しろ、吐いたのは人生で初めてなので、分かりようもない。


 そうして、分かりようもないことを考えながら、蛇口をひねり、お湯を出す。この宿舎は基本的に、すべてのものが、魔法がなくても使用可能だ。つまり、科学が発達している。


 ──実は、吐き気が酷くて、昨日は風呂にも入らず、早めに寝てしまったのだ。そのため、今日は優雅に朝風呂と洒落込んでいた。早起きは苦手だが、今朝は吐き気で目が覚めた。最悪の気分だ。


 シャワーを全身に浴びていると、不思議と不快感も洗い流されていくような気がする。シャンプーとリンスとボディーソープの匂いが、心地いい。いつもと違う香りなので、どうやら、間違えて買ってきてしまったようだが、これはこれで好きだ。


 他に、今までと変わったこと、と言えば、まなのことだ。まなに対して、何の感情も抱かず、それでも今までと同じように──あるいは、今までよりも懇意に接している。そんな自分が気持ち悪くて仕方ない。


 となれば、原因はストレスだろうか。


 風呂から上がり、机の上の体温計を見て、忘れていたと、体温を計る。検温は癖で毎日しているが、少しだけ、体温が高い。起きてから少し経ったことを考慮しても、やや高めだ。


 いよいよ、本当に心の病かもしれない。生まれてこの方、一度も熱など出したことがなかったのだが。ともあれ、この私に限って、風邪など引くはずもないが、さっさと頭を乾かしてしまおう。


 そうして、他の部屋への騒音の被害を考え、魔法で乾かすことにする。ただ、魔法で乾かすのは、相当な技術が必要になる上、一歩誤れば髪が全焼してしまうため、普通はやらない。あかりはよく、一瞬で乾かしているが、あれは天才的な魔法の技術あってのことだ。


 私はそんな無駄な技術は洗練していないため、微風で地道に乾かしながら、考え事にふける。


「……ここ最近、色々ありましたからね」


 そう。何も、まなに限ったことではない。今までぬくぬくと育ってきたあの環境を手放したのだ。それは、自分が思う以上に、大きい存在だったのだろう。


「でも、休むと後が面倒──いえ。そんな世話を焼いてくれる人もいないんでしたね」


 昔だったら、私が熱を出したなんてことになれば、それはもう、大変なことになっていただろう。気を使われて、逆に休まらなかったかもしれない。新種の感染症だ、なんて言い出す輩もいただろう。父がそれで亡くなっているから尚更だ。


「……誰かが亡くなっても、もう、弔いにも行けないんですよね」


 きっと、こうした悩みの蓄積で、精神に大きな負担がかかっているのだろう。こんな脆弱な精神力で女王になっていたらと思うと、ぞっとする。と同時に、私も人間だったのだと、やけにしみじみと感じた。


「甘えている暇はありませんね」


 そうして私は、隣の部屋でまだ眠っているであろう彼を思い、乾いた髪を櫛で梳かしながら、たまには、弁当でも作ってやるかと考えるのだった。


***


 三人で登校する途中、私はトンビアイスを買って、無限収納にしまった。値は張るが、完全食であり、なにより、今のところは、美味しい。今日の昼食だ。


 ──弁当? 何の話かさっぱり。


「僕、ちょっと席外すね」


 あかりができもしないウインクをしてきて、不細工になっていた。彼はこうして、平日はほぼ毎日、まなの件で魔王と連絡を取り合っているらしい。


 私は魔法で収納しておいたトンビアイスを取り出して、開封し、口に入れる。


「大丈夫?」


 まなにそう声をかけられ、私は内心、動揺する。しかし、それを内心だけで抑える。


「何の話ですか?」

「あんた、体調悪いのに、無理して来たでしょ」

「そうですか? 顔色も普通だと思いますが」


 鏡で見たら、相当酷い様子だったので、魔法と化粧で細工してきた。見た目はいつもと変わらないはずだ。


「どこがよ。まあ、みんな気づかないところからして、おおかた、魔法でも使ってるんでしょうけど、あたしに効かないってこと、忘れてない?」

「あ……」


 ──迂闊だった。いや、いつもならこんな失態は演じない。どうやら、心の傷は相当に深いらしい。


 元々、大した失敗も挫折も味わったことがない私の精神力が、強いわけがない。だから、後先考えず、愛に溺れて国を捨てるような選択を平気でするのだ。


「はあ……」

「あんたがため息なんて、珍しいわね。いつもニコニコしてるイメージだったから。何かあったなら聞くけど?」


 まなの言う笑顔は染みついているだけであって、内心を正確に表しているわけではないが、今はそんな笑顔を浮かべる余裕もない。


「──クレイアさんは、お優しいんですね」

「なんでか知らないけど、すごく嫌味に聞こえるわね……」


 こうして突き放しておかないと、また、体調が悪くなりそう──いや、すでに、吐き気が込み上げてきた。


「……気持ち悪い」

「え?」


 私はまなに事情を説明する暇もなく、トイレに駆け込み、食べたばかりのトンビアイスを戻した。本当に、私はどうにかなってしまったのだろうか。悪いことをした、その罰なのだろうか。


 そのとき、背中がさすられる感触があった。見なくとも、その手が誰のものであるかは分かる。そして、その温かさに私は深い安心感を覚えた。


 ──そうして、しばらく経ち、落ち着いてきた頃、まなが話しかけてくる。


「まったく……無理しすぎよ。今日は帰って休んだ方がいいわ」

「いえ。このくらいで休むわけには──へなん」


 でこぴんを食らわされた。レイにやられたのとは違って痛くはなかったが、私はその衝撃に面食らう。まなにやられたという事実と、いきなりで驚いたのと、その両方で。


「帰りなさい。保健室まで連れてってあげるから」

「で、ですが……」

「あかりの面倒はあたしが見ておくから。それから、今朝、何か作ってたみたいだけど、無理に食べちゃダメよ。なんかヤバそうな臭いがしてたから」

「食べ物を粗末には──」

「あたしが食べるから取っておきなさい。いいわね?」


 抵抗する気力も起きず、自力で歩いて帰ることもできなかったため、結局、まなに宿舎の部屋まで付き添ってもらった。


 ちなみに、今朝の弁当は焦げてしまったのだ。言い訳をすると、途中で吐き気がして、トイレに駆け込んだときに、火を止めるのを忘れた。危なかったと自分でも思う。


 そんな焦げた弁当ではあったが、まなは眉間にシワを寄せつつも、本当に全部、平らげてくれた。


***


マナ、大丈夫? お城のお医者さんに見てもらった方が──」

「大丈夫です。もう、あそこは頼れませんから」


 早退したと聞いてから、あかりが色々良くしてくれるのだが、一向に良くならない。とはいえ、吐き気は突発的なものであり、そこにさえ気を使っていれば、まったく動けないというようなこともない。唯一、魔法が少しだけ使いづらいような気はしているが。


「何か食べられそう?」

「無駄遣いするわけには──」

「体調が悪いときくらい、ワガママ言ってよ? ね?」

「……トンビアイスが食べたいです」

「分かった、買ってくるね。まなちゃん呼んでくる」


 あかりと入れ替わりでまながやってきた。その直前、吐き気に耐えきれず、私はトイレで、何も入っていないはずの胃の中身を戻していた。


「うえっ……」

「あんた、あかりの前だと強がるわよね」

「あかりさんに、こんな姿は、見せられ、ません。心配、させてしまい──うっ……」


 まなに背中をさすってもらい、やっと吐き気が収まった。つい先日、まなといると、不思議と吐き気も収まることに気がついた。そのため、最近は、彼よりもまなと一緒にいることの方が多い。原因は不明だが。


 そうして、宿舎にいる間は、ひとまず安静ということで、ベッドに寝ていることが多くなった。


「……クレイアさん」

「何?」


 本から目を上げたまなの鋭い赤瞳が、ベッドに横たわる私を見ていた。それを見ていると、責められているような気持ちになってくる。


 彼女を利用して、彼の復讐を果たそうとしている。それがいかに、罪深いことか。事情など、知る由もない彼女の瞳を、上手く見返すことができない。


「……申し訳、ありません」

「体調不良なんて、誰にでもあることよ。そんなに気にすることじゃないわ。──あたし、これでも薬には詳しいから、原因さえ、分かれば何とかできるかもしれないんだけど。むしろ、役に立てなくて、悪いわね」


 彼女の懸念は、私の謝罪の真意とは異なるものであり、その気遣いが却って胸に刺さる。


 彼女は表情に出ない分、声に感情がよく現れることに最近、気がついた。表情より偽り易い分、完全に信用するわけにはいかないが、それでも、彼女は今、確かに、私の心配をしてくれている。素直に人の心配ができる、純粋で、綺麗な心の持ち主なのだ。


 そんな彼女の願いを、利用するなんて。私は最低なやつだ。


 ──そういえば、彼女の願いを私は知らない。一度も聞いたことがなかっただろうかと、自分のことが不思議に思えるくらいだった。


「今さらですが、クレイアさんの願いは、なんですか?」

「唐突ね。まあ、魔法が使えないんだから、いずれ行き着く疑問ではあるわよね」

「──答えづらいことなんですか?」


 なんとなく、そう感じて尋ねると、まなはため息をついた。返事を躊躇うときの彼女の癖だ。


「鋭いわね。……でも、どうせ、話したところですぐに忘れるわよ」


 その返答には、いささか、違和感を覚えなくはなかったが、すぐにどこかへと消え去ってしまう。


「……先ほどまで、一体、何の話をしていたんでしたっけ」

「さあ、あたしも忘れたわ。お金がないって話じゃなかった?」

「そんな話はしていないと思いますが──、しかし、それも大事な話ですね」

「ええ」


 そんな風に何かを誤魔化すとき、決まってまなは、不安そうに右腕を握る癖があるのだった。

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