第1-19話 たった一言の覚悟
防音を
そして、しっかり扉が閉まったのを見てから、彼は椅子から降りて、私の横に座り直した。
「大丈夫だよ、マナ」
「でも──」
彼は私の頭を撫でて、微笑んでくる。そう、私はいつまでも、彼が忘れられなかった。いつだって、一番は、そこだ。きっと彼は、私が
「──結婚してくれませんか」
「おっと、マナ積極的だねえ」
「茶化さないで、馬鹿」
私にとっては、国の未来も、戦争も、苦しむ人々も、すべて、二の次でしかなかった。
──ただ、どうしたら、彼とずっと一緒にいられるか。それだけだった。
しかし、私がクランの称号とゴールスファの姓を捨てれば、次はどうなるか分からない。たかだか、一人の人間の婚約で戦争が起きる世界なのだ。今度は私を
ただ、それよりも、もっと恐ろしいことがあった。
「そんなに考えすぎなくてもいいんじゃない?」
「誰のせいだと思ってるのっ」
「えー僕のせい? それは、嬉しいなあ」
「馬鹿、馬鹿馬鹿!」
「三回も言われたっ!」
私は机にうつ伏せる。なんで、こんなやつを選んでしまったのか。自分で自分が分からない。本当に悔しい。
「結婚」
「いやあ、だから、それはもう少し待って──」
「じゃあ婚約」
「どうしても、やりたいことがあるからさ、それまでは──」
「いつもいつもそうやって──っ!」
私は彼の顔を睨みつけようとして──エトスに殴られた頬が赤くなったままだったから、毒気を抜かれてしまった。それが戦略なのだとしたら、彼は相当の策士だ。
「ごめんね、マナ」
「……なんで逃げるの。なんで何も教えてくれないの。どうして、私を選んでくれないの? 私が悪いの? どうしたら、ずっと一緒にいられる?」
「今は、まだ──」
「それなら、いつまで待てばいいの?」
「やりたいことが終わったら、ずっと一緒にいるよ。絶対に」
「答えになってない!」
そう叫んだきり、私がうつ伏せていると、彼は私の頭を
「──他に好きな子でもできたの?」
「そんなのできるわけないじゃん。僕にはマナしかいないんだから」
「私のこと、好きじゃなくなったの?」
「そんなわけないじゃん。むしろ、嫌いなところが見つからないね」
「嘘。本当は、重いし、面倒くさいし、
「そんなところも好きだよ」
「……口先ばっかり」
「そうだね。ごめん」
「謝るくらいなら、責任を取って」
「もう、待てない?」
──それは、
「それなら、そろそろ、僕を嫌いになってよ。そうじゃないと、辛いだけだよ。それに、絶対に許さないって、言ってたじゃん?」
「嫌い。ずっと前から、とっても嫌い。一番嫌い。一生許さない。もう、死んじゃえ」
声に言葉通りの感情が乗らない。当然だ。それらも本音ではあるが、それを遥かに上回るくらい、彼を愛しているのだから。
「マナは、すっごく馬鹿だねえ」
「馬鹿でいいの。……ねえ、私のこと、どう思ってる?」
「ん? めちゃくちゃ可愛いなあって」
「死んじゃえ」
「あはは」
期待した答えをくれる気はないらしい。いつもは想像通りのことしか言わないくせに。
私は机から起き上がって、彼の顔を見つめる。赤い頬は、反省してますと、見せつける意味では効果的だ。私も思いきり殴ってやりたい気分だが、以前、出会い頭にそれをやって気絶させているので、どうにも
「ねえ、マナ。僕、マナのカッコいいとこ、見たいなあ」
不意に、彼がそんなことを言った。いつまで、私は、どれだけ、頑張ればいいのだろうと思う。この男一人に、どこまで人生を狂わされるのだろうとも思う。それでも、それが彼の頼みならば。それが、彼と一緒にいるために必要だというのなら、私は。
「──いいでしょう。見せつけて、惚れ直させてあげます」
「それは困るなあ。これ以上好きになったら死ぬかもしれない」
「……はい、そーですか。ふんっ」
「あ、照れてるー」
嫌いになるところしか見つからないのに、いつから私は、こんなに馬鹿になったのか。思い返してみても、よく分からない。改めて考えると、出会ったときから、彼のことばかりだったような気もする。
「自分のしたいようにしていいんだよ、マナ」
「……じゃあ、聞きたいから聞くけど。私のこと、好き?」
それだけ、本心からの答えを聞くことができたなら、私は、何を選ぶか決められる。
「いやあ、それは……」
「ねえ、ちゃんと答えて」
「だって、恥ずかしいじゃん」
「私は今でも、あなたが好き。大好き。──はい、先に言ってあげたから、今度はそっちの番」
「何そのルール!?」
「真剣に聞いてるの」
私が睨むようにして、綺麗な黒色の瞳を見つめていると、彼は観念したようにため息をついて、真面目な顔で言った。
「好きだよ」
「本当に?」
「うん。ずっと好きだよ」
「もう一回、言って?」
「大好きだよ」
「──信じていいの?」
「信じて」
──ならば、答えは、もう決まった。
***
再び、一同はこの狭い部屋へと集まった。
「覚悟は決まったか」
エトスに問われて、私はゆっくり、口を開く。これから大きな決断をするというのに、不思議なほどに、心臓は落ち着いていた。
「──お母様。今まで、ありがとうございました」
理解が追いついていない様子の一同を置き去りに、私は続ける。
「他国の姫でありながら、当時ルスファの王位継承権第一位を持っていたお父様に
それから、エトスに視線を向ける。
「お兄様。あなたは厳しい人でしたが、その裏にはいつでも、優しさが隠れていることに、私は気がついていました。何かあったとき、とても頼れる存在でした。ずっと、信頼しています」
次にモノカ。
「お姉様が色々なことを楽しそうに話してくださる姿が、私は好きでした。お姉様にとっては、私は可愛いげのない妹だったかもしれませんが、私にとっては、最高の、理想の、自慢の姉でした」
最後に、トイス。
「トイス。あなたには、一つだけ、謝りたいことがあります」
「姉さん──」
「幼い頃、私の髪を切ってしまい、それから対人戦が苦手になってしまいましたね。……実は、あれは、あなたが手を滑らせたせいではないんです。私が、髪を切りたくて、体勢をずらしたんです」
「そう、だったのか」
「誰よりも一生懸命で、誰よりも人のことを思いやれるトイスには、今まで、辛い思いをさせてきましたね」
「……なんで、今まで言ってくれなかったんだ」
「トイスが怒るかと思って。申し訳ありません」
本当は、そんなことはしていない。ただ、当時、トイスは四歳、私は六歳だった。トイスには、おそらく、私と同等の剣の才がある。それを、私は幼いながらに理解していた。だからこそ、むきになって本気で戦い、髪が切り落とされるほどの激戦になったのだ。
「本当に、私は幸せ者です。感謝の思いでいっぱいです。それから、本当に、申し訳なく思います」
私は一度、呼吸を置いて、それから、こう言った。
「──現時刻をもって、マナ・クラン・ゴールスファの名のもとに、私は王の称号、クランを返還するとともに、ゴールスファの家名を捨てます」
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